●
≪2次フ≫≪フ入門≫
フランス海軍省は、基地の運用と艦艇の維持修理のみで、作戦は海軍幕僚長のフランソワ・ザビエル・ダルラン元帥を総司令長官とし、各地域の司令長官が沿岸防備、海上交通保護、航空偵察、対潜戦などの任務を分担した。
第一線艦で編成された各戦隊は、総司令官の直接指揮下にあった。
海軍省は首都パリのコンコルド広場にあるが、開戦後は空襲に備え、数年前から準備されていたパリ西方70�劼離泪鵐肇離鵑忙蔑疉瑤鮴瀉屬靴拭�
ダルラン総司令長官、海軍参謀長モーリス・ル・リュック少将以下300人を超える司令部員は、この美しい村に単身赴任した。
総司令長官直轄部隊
(襲撃部隊)(第1艦隊)(ブレスト)
司令長官 マルセル・ブリュノ・ジャンスール中将
第1戦艦戦隊:戦艦「ダンケルク」「ストラスブール」、航空母艦「ベアルン」、軽巡洋艦「」3、大型駆逐艦8
(外洋部隊)
司令長官 エマニュエル・リュシアン・アンリ・オリーヴ中将
第2戦隊(メルス・エル・ケビル):戦艦「プロヴァンス」「ロレーヌ」「ブルターニュ」、駆逐艦9
第3戦隊(ツーロン):巡洋艦6、大型駆逐艦9
第5戦隊(ダカール):巡洋艦2 (マルティニック島):巡洋艦1
北部地域司令部(ダンケルク)
司令長官 ラウル・ヴィクトール・パトリス・カステックス大将(のちアプリエル大将)
敷設巡洋艦1、水雷艇1、潜水艦4
西部地域司令部(ブレスト)
司令長官 ジャン・ジョセフ・ジュール・ノエル・ド・ラボルド大将
戦艦「パリ」「クールベ」、大型駆逐艦4、駆逐艦12、水雷艇3、潜水艦12
南部地域司令部
司令長官 ジャン・ピエール・エスティヴァ(エストゥヴァ?)大将(ツーロン)
大型駆逐艦2、水雷艇3、潜水艦12
(ビゼルト):巡洋艦3(第4艦(戦)隊)、敷設巡洋艦1、大型駆逐艦8、水雷艇3、潜水艦17
(オラン):駆逐艦3、潜水艦12、水上機母艦「コマンダン・テスト」、潜水艦母艦1
(カサブランカ):駆逐艦2、潜水艦4
開戦後カサブランカに「アフリカ地域司令部」を設置(カサブランカ〜ダカール西方海面)
司令長官オリーブ大将
アンティル諸島地域司令部(マルティニック島)
司令長官 ジョルジュ・アシル・マリー・ジョセフ・ロベール(ロベルト)大将
極東地域司令部(サイゴン)
司令長官 ジャン・ドクー大将(中将?)
巡洋艦1
ほかに、次の艦艇が在籍
練習巡洋艦1、大型駆逐艦1、駆逐艦1、潜水艦15、哨戒艦70、仮装巡洋艦23、掃海艇344、哨戒艇76、病院船7
次の各所には、通報艦、砲艦などの哨戒艦艇を配置。
太平洋諸島(タヒチ)
ニューカレドニア(ヌーメア)
中国沿岸(上海)
インド洋(マドラス)
シリア(マンダート)
ソマリランド(ジブチ)
ニューファンドランド(サン・ピエール島)
●
≪2次フ≫
9月3日1700、フランスはドイツに宣戦布告した。
●
≪世界の軍艦≫≪2次フ≫
練習巡洋艦「ラ・トゥール・ドーヴェルニュ(前名プリュトンPluton)」(La Tour d'Auvergne)は、第2次大戦勃発直後、モロッコ防衛のため他艦艇とともに出港したが、その後機雷敷設の必要がなくなったことから、1939年9月13日(18日とも)、カサブランカで搭載機雷を陸揚げするため信管の取外し作業中、誤って爆発事故を起こし、沈没した。
●
≪世界の軍艦≫≪大・地の戦い≫≪欧海記≫≪ド海入門≫
1939年9月の開戦時、ドイツのポケット戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」(Admiral Graf Spee)「ドイッチュラント」(「シェーア」)の3隻は、それぞれ単艦で大西洋にイギリス商戦狩りに出、その後姿をくらましてしまう。
1939年9月25日〜26日になると、「アドミラル・グラーフ・シュペー」と「ドイッチュラント」の両艦は通商破壊戦実施の許可を与えられた。
同年10月まで英海軍は厄介な「海の狼」は1隻だけだと推定していたが、9月30日に「グラーフ・シュペー」が最初に撃沈した英貨物船「クレメント」の生存者が寄せた情報と、「ドイッチュラント」が撃沈したノルウェー貨物船「ローレンツ・W・ハンセン」の生存者がもたらした情報とにより、2番目の「海の狼」の存在が確認された。
この事態により、英・仏海軍は8つの水域に艦隊を分散して襲撃艦を捜索した。
フランス艦隊は、大西洋艦隊と地中海艦隊の2つに分かれる。
マルセル・ブルーノ・ジャンスール中将率いる第1戦隊の新戦艦「ダンケルク」(Dunkerque)と「ストラスブール」(Strasbourg)は、大西洋艦隊に配属されていた。
この捜索艦隊の「F部隊」は巡洋艦「ハーウィック」と「ヨーク」の2隻で北アメリカと西インド間の海域をカバーした。
「G部隊」は巡洋艦「エクゼター」「カンバーランド」「エジャックス」「アキレス」の4隻で編成され、「H部隊」は2隻の巡洋艦「サセックス」と「シュロップシャー」で構成されて、南アの喜望峰沿岸付近の警戒を担当した。
「ダンケルク」は、空母「ベアルン」(Bearn)とともにブレスト軍港を基地としてドイツ装甲艦「グラーフ・シュペー」の捜索にあたり、同型の「ストラスブール」はイギリス小型空母「ハーミス」と組んで、西インド諸島沖をパトロールした。
重巡「デュプレ」(Duleix)「フォッシュ」(Foch)は、アフリカのダカールを基地として、イギリス空母「ハーミス」とX部隊を編成し、ダカールから大西洋を横断して南米のペルナンブコまで、何度もドイツ戦艦を求めて巡航した。
「ストラスブール」、重巡「アルジェリ」(Algerie)は、南大西洋でポケット戦艦シュペーを捜したが、イギリス巡洋艦の功績となった。
重巡洋艦「デュケーヌ」(Duquesne)「トゥールビル」(Tourville)は、大西洋艦隊所属だった。
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≪欧海記2≫
1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻時、世界最大の潜水艦「スルクフ」(Surcouf)は西インド諸島のマルチニク島フォール・ド・フランス港にあった。
バミューダ東方ではドイツの戦艦「ドイッチュラント」が行動しているという情報があった。
「スルクフ」は、ジャマイカのキングストンからフランス及びイギリスへ向かうKJ2船団の護衛にあてられた。
潜水艦による護衛となったのは、大西洋の西側には連合軍の護衛兵力が少なかったからである。
9月26日、「スルクフ」は1隻だけでKJ2船団を護衛しつつ出港した。
途中でイギリス本国からの護衛艦艇1隻と会合する予定であった。
船団の速力は8.5ノットと遅く、「スルクフ」は昼間は船団の周囲を回り、夜間はUボートと誤認されることを避けて船団後方に占位した。
10月6日、船団は荒天に遭遇した。
「スルクフ」の機関は故障を起こし、また船団は分散してしまい、その中のタンカー「エミール・ミゲ」(14,115総t)は、船団から離れたのちドイツのU48に沈められた。
「スルクフ」は「エミール・ミゲ」の遭難信号をキャッチしたが、「ドイッチュラント」への警戒を優先させ、そのまま船団護衛と哨戒を続けた。
10月19日、「スルクフ」と船団は北フランスのブレストに入港した。
「スルクフ」は、開戦後2ヵ月以内に、ドイツの商船1隻をフランス沖1,000海里の付近で捕獲した。
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≪世界の軍艦≫
11月になると、カナダ兵がハリファックス港から大型の豪華客船「クィーン・メリー」等に乗って、イギリス本土へ援軍に旅立った。
新戦艦「ダンケルク」はこの船団の護衛についた。
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≪欧海記≫
第2次大戦が始まったとき、戦艦ブルターニュ級の「ブルターニュ」(Bretagne)「プロヴァンス」(Provence)「ロレーヌ」(Lorraine)の3隻は第2戦隊を編成し、9隻の大型駆逐艦とともに北アフリカのメルス・エル・ケビル港にあった。
1940年3月、「ブルターニュ」は金の延べ棒1,200本を積んで、地中海のツーロンからカナダのハリファクスへ廻航した。
この金はフランスがイギリスやアメリカから物資を輸入するための代金に当てるものである。
同じく延べ棒を積んだ重巡「アルジェリ」と共に大型駆逐艦3隻に護衛されての航海であった。
●≪カラ世界≫
1940年3月21日、E・ダラディエ内閣が倒れ、P・レイノーが首相となる。
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≪2次フ≫
1940年4月、軽巡洋艦「エミール・ベルタン」、大型駆逐艦6隻、駆逐艦5隻、補助巡洋艦6隻、潜水艦13隻、その他タンカー、哨戒艇などが、連合軍のノルウェー上陸作戦に参加した。
●
≪2次フ≫
1940年4月30日、大型駆逐艦「マイレ・ブレゼ」は、英クライド河沿いのグリーノックに在泊中、前部魚雷発射管から魚雷が暴発し、艦橋を直撃して爆発、艦の前部を大破した上、さらに燃料に引火して全損した。
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≪欧海記≫
もしイタリアが参戦した場合、地中海の西半分をフランスが受け持ち、東半分はアレキサンドリアを基地とするイギリス海軍が担当するという分担が決まっていた。
4月27日、第1戦隊の新戦艦「ダンケルク」と「ストラスブール」は、駆逐艦を率いて北アフリカのフランス植民地アルジェリアのメルス・エビル・ケビルに到着した。
アフリカの東端アレキサンドリアには、ジョン・C・カニンガム中将のイギリス戦艦が2隻しかいなかった。
そこでイギリス海軍はフランス海軍に対し、大西洋からダンケルク級戦艦を廻航したのならば、しばらくの間、ブルターニュ級戦艦3隻を東地中海に回してイギリス海軍に協力してくれるよう要請してきた。
そのため、戦艦「ブルターニュ」「ロレーヌ」「プロヴァンス」の3艦は、重巡などとともに、ルネ・ゴドフロイ中将の指揮下、アレキサンドリアに入港した。
やがて3週間が経過すると、イギリス本国から戦艦「ウォースパイト」などが到着した。
そのためゴドフロイ中将は、「ブルターニュ」と「プロヴァンス」の2隻にメルス・エル・ケビルへ戻るよう命じ、自分は戦艦「ロレーヌ」に座乗したまま、英カニンガム中将の指揮下に入って行動することとした。
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≪2次フ≫
1940年5月9日、二等潜水艦「ドリス」は、オランダ沖でドイツ潜水艦の雷撃を受けて沈没した。
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≪2次フ≫
1940年5月、軽巡洋艦「モンカルム」「ジョルジュ・レイグ」は、ノルウェー作戦に参加した。
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≪世界の軍艦≫≪2次フ≫
第10潜水隊の機雷敷設潜水艦「リュビ」(Rubis)は、1940年5月上旬から3回にわたり、ノルウェイ海西部の沿岸水路に機雷を敷設し、ノルウェイの貨物船2隻とドイツ小型艇を機雷により沈めた。
のちイギリスに移動した。
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≪カラ世界≫≪世界スパイ≫
ドイツ軍の侵入後、アンリ・フィリップ・ペタン元帥が閣僚に迎えられた。
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≪世界の軍艦≫
大西洋艦隊の空母「ベアルン」のロワール・ニューポール41型急降下爆撃機とチャンス・ヴォート2人乗り複葉偵察機約30機は、母艦と分かれ空軍の指揮下に入った。
彼らは1940年5月、ドイツ軍の侵攻を阻止するため、サムブル川とオワーズ川の橋を爆破した。
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≪世界の軍艦≫≪2次フ≫
1940年5月、大型駆逐艦「ヤグァル」は、ダンケルクの浜辺から英・仏兵をイギリスへ退却させていたところ、ドイツ魚雷艇S21とS23の魚雷を受けて沈没した。
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≪2次フ≫
1940年5月21日、駆逐艦「ラドロア」は、ダンケルク撤退作戦の際、ドイツ軍機の爆撃により沈没した。
5月21日、駆潜艇「CH-9」は、ダンケルク撤退作戦に従事中、ドイツ軍機の攻撃を受け沈没した。
5月21日、運送艦「ル・ニジェール」は、ダンケルク沖でドイツ軍機の攻撃により沈没した。
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≪2次フ≫
5月24日、大型駆逐艦「シャカル」は、ダンケルク撤退作戦中、ブーローニュ沖でドイツ機の爆撃により沈没した。
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≪2次フ≫
1940年5月30日、駆逐艦「ブーラスク」は、ダンケルク撤退作戦の際、ベルギーのニーウポールト沖で触雷して沈没した。
●ジェノヴァ・サヴォナ沖の戦い
≪世界の軍艦≫≪大・地の戦い≫≪2次フ≫
ドイツが勝ったと見たイタリアは、1940年6月10日、イギリス、フランスに宣戦布告した。
フランスとイタリアが戦争状態に入るやいなや、フランス地中海艦隊は、イタリア本土への艦砲射撃を企図した。
予定日は、開戦後2日後の6月12日だったが、先制攻撃はイタリア空軍を挑発するとして、フランス政府の理由から取りやめられた。
しかし、6月12日、イタリア空軍がチュニジアのビゼルトを空襲し、ツーロンを夜間爆撃するとフランス海軍は報復砲撃日を6月14日とした。
イタリア参戦時には、ツーロンに第3艦隊、ビゼルトに潜水艦6隊がおり、ツーロンの南方方面海軍部隊司令官はビゼルトに進出していた。
フランス海軍は、快速力の重巡洋艦を砲撃の主力とした。
この部隊の総指揮官は、当時59歳のジャン・ルイ・ザビエル・フランシス・ダルラン(Jean Francois Darlan)中将であった。
ダルラン中将は、目標をイタリア西岸のジェノヴァとサヴォナの二つに分け、おのおの重巡洋艦と大型駆逐艦よりなる奇襲部隊を編成した。
サヴォナ砲撃部隊:重巡洋艦「アルジェリ」(第1戦隊旗艦)「フォッシュ」、第1駆逐隊、第5駆逐隊
ジェノヴァ砲撃部隊:重巡洋艦「デュプレ」「コルベール」(Colbert)、第7駆逐隊
駆逐艦の大半は、4本煙突を持つゲパール級の大型駆逐艦であった。
6月13日、4隻の重巡洋艦と11隻の駆逐艦は、マルセイユに程近いツーロン港を出航した。
6月13日の夜間、牽制作戦として、何隻かのフランス駆逐艦が、仏伊国境のリガリアン付近に数発を浴びせた。
フランス艦隊は、闇にまぎれて「長靴」半島上部のリグリア海へ侵入した。
サヴォナはジェノヴァの西方約50キロにある小工業地帯である。
6月15日未明の4時30分、サヴォナ砲撃部隊が火蓋を切った。
イタリア側の海岸砲台も、直ちに応戦した。
「アルジェリー」の前後左右には、イタリア砲台からの砲弾による水柱が立ち上り、フランス艦隊は退却に移った。
そのとき、西方海面よりイタリアの第13マ・ス(高速魚雷艇)隊がフランス艦隊に突進していった。
マ・スの攻撃は2回に及んだが、両軍ともに被害はなかった。
一方、ジェノヴァ砲撃部隊は、ザヴォナ砲撃部隊と分かれた後、約1時間前進し、目的地に到着した。
重巡洋艦「デュプレ」「コルベール」は、特型駆逐艦に護衛されつつ、ジェノヴァに20.3�冕い隆亘ぜ遊發魏辰┐拭�
イタリア側は、ただちに沿岸砲で反撃したが、その射撃は猛烈であった。
フランス艦隊はたちまち大混乱に陥り、特型駆逐艦「アルバトロース」は15.2�冕っ�1発を受けて大破してしまった。
防御力の弱い駆逐艦ゆえ、この1発で戦闘不能に陥ってしまったのである。
このとき偶然、イタリア駆逐艦「カラタフィミ」が掃海艇1隻を護衛してジェノヴァ沖を通りかかった。
「カラタフィミ」は、他の同型艦3隻と共に第16水雷隊を編成し、ジェノヴァより30キロ西方のスペチァ港に配属されていた。
「カラタフィミ」は掃海艇を退避させつつ、フランス艦隊に接近していった。
同艦は、1923年の進水であり、10�冕�4門を有するのみである。
「カラタフィミ」は猛射を浴びながらも、45�冏�射管からフランス駆逐艦に向けて発射した。
魚雷は1本も命中しなかったが、フランス艦隊をしてそれ以上の戦闘を断念させるのに成功した。
なお、艦砲射撃にはフランス軍の爆撃機9機も参加し、サヴォナ・ジェノヴァ両砲撃隊は、1隻の沈没艦も出さずツーロン港へ帰投した。
海軍機はヴェニスを爆撃した。
イギリスのチャーチル首相は『大戦回顧録』の中で、「ダルラン提督の駆逐艦はレーダーを備えておらず、しかも飛行機の護衛もなしでやった」と言って、その行動を賞賛した。
●
≪大・地の戦い≫≪フ入門≫
北アフリカのアレキサンドリア港には、イギリス東部地中海艦隊と協同するフランス地中海艦隊の一部があった。
その中の重巡洋艦「ツールヴィユ」「デュケーヌ」の2隻は、サヴォナ・ジェノヴァ砲撃作戦と同時に、ギリシャ〜トルコ間の多島海への強行偵察を行った。
フランス艦隊は、この航海で敵と遭遇することはなかった。
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≪大・地の戦い≫≪2次フ≫
イタリア海軍は機雷戦に力を入れ、開戦直前から巡洋艦、駆逐艦、敷設潜水艦などを動員して、本土沖、シシリー水道、アフリカ植民地沖などに機雷を敷設した。
6月6日には、イタリア海軍は沿岸12海里以内に機雷が敷設されたことを発表している。
イタリア海軍は、開戦と同時に、フランスの輸送船が本国より軍需品を満載して北アフリカのフランス植民地チュニジアに入港することを予測し、チュニジアの小港スフックス沖にも機雷を敷設した。
6月15日、地中海で行動中のフランスの一等潜水艦「モルス」が、機雷によりスファックス沖で沈没した。(一説には、フランス軍の敷設した機雷に触れ沈没した、とも)
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≪大・地の戦い≫
イタリア潜水艦「プロヴァーナ」はナポリより出港、6月17日、オラン港の沖でフランス艦隊出撃を警戒していた。
しかし、そこには2〜3ヵ月前に完成したばかりの640tのスループ「コマンダン・ポリー」「ラ・クリューズ」の2隻があった。
「ラ・クリューズ」は、10�冕っ討琉豬發如屮廛蹈凜 璽福廚魴眷砲気擦襪海箸棒�功した。
苦しまぎれに浮上した「プロヴァーナ」の昇降口のハッチがまだ開かれぬうちに、「ラ・クリューズ」は敏捷に「プロヴァーナ」に横付けした。
と同時にフランス水兵が、傾きかけた「プロヴァーナ」に飛び移った。
疲労した「プロヴァーナ」の乗組員が重いハッチを開けた時に見たものは、小銃を突きつけているフランス水兵であり、皆捕虜となった。
勝ち誇ったフランス兵は「プロヴァーナ」に、青、白、赤のフランス軍艦旗をかかげて曳航しはじめた。
しかし、損傷した「プロヴァーナ」は、フランスの港に到着する前に次第に浸水し、ついに沈没してしまった。
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≪フ戦史≫≪2次フ≫≪カラ世界≫
レイノー内閣のアメリカに対する援助要請は成果をあげず、6月16日、政府の退陣となる。
6月16日、84歳のアンリ・ペタン元帥は温泉の街ヴィシー市に政府を樹立した。
6月17日、新首相ペタン元帥がラジオで休戦を放送した。
6月16日の夜、駐仏アメリカ大使ピッドルがフランス新外相ボードゥアンから、フランス艦隊は決してドイツに引き渡さないという正式の保証を得ていたにもかかわらず、6月18日、アメリカ政府は次のような書簡をボードゥアン外相及びダルラン海相に手渡した。
『大統領は、もしフランス政府がドイツと休戦協定を締結する前に、艦隊を敵の手の届かない所に移動させるように取り計らわないならば、フランス政府は、フランス共和国の保全、フランスの独立及び自治の最終的回復を致命的に不可能にするであろうということを、フランス政府当局に伝えるよう希望している。
もしフランス政府がこれらの処置をとることなく、フランス艦隊をドイツに引き渡すならば、フランス政府は永久に、アメリカ政府の友情と好意を失うであろう』
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≪欧海記2≫≪2次フ≫
5月、ドイツ軍がフランスに侵入してきた際、潜水艦「スルクフ」はブレストで修理中であった。
フランス海軍の艦艇が港内でドイツ軍に捕獲される可能性が出てきたため、フランス海軍大西洋艦隊は、各艦にイギリスへ脱出することを命じた。
「スルクフ」は主機をオーバーホール中であったが、潜舵の片方と電気モーター1つを使ってからくも脱出し、6月18日、イギリス南岸のプリマスに入港した。
「スルクフ」以外にプリマスに逃れてきたフランス艦は、旧式戦艦「パリ」(Paris)を始め、駆逐艦「ミストラル」ほか1、水雷艇1、護衛艦3、二等潜水艦「ジュノン」「ミネルバ」の計9隻であった。
旧式戦艦「クールベ」、大型駆逐艦「レオパール」、二等潜水艦「オリオン」「オンディーヌ」は、ポーツマスへ逃れた。
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≪2次フ≫
サン・ナゼールのパノエ(ペノエ)造船所で建造中であった戦艦「ジャン・バール」(Jean Bart)の脱出のため、水路が急遽浚渫され、防御用として機関砲や対空機銃を仮装備し、2本だけ装着されていた推進軸に急いでタービン駆動装置を取り付け、高潮を待って曳船で引き出した。
水路を間違えて座礁したりしたが、1940年6月18日夜半、未完成状態でサン・ナゼール港を出港し、途中、味方戦闘機を誤って撃墜するなどのハプニングもあったものの、空襲による被害も大したことはなく、使用可能の半数の主機により4ノットで、3日後、仏領モロッコのカサブランカへ回航された。
コンパスさえなかったが、途中、駆逐艦「ル・アルディ」が先導してくれたため、何とかカサブランカまでたどり着くことができた。
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≪2次フ≫
1940年6月、運送艦「ドルドーニュ」は、ブレストで自沈した。
●バルディア砲撃
≪大・地の戦い≫≪フ巡史≫
リビアのイタリア陸軍はイギリス陸軍よりも強力でスエズ運河が危うくなることが考えられたため、イギリス海軍は、北アフリカの砂漠に囲まれイタリア本国より軍需品を荷揚げするイタリア側の小港バルディアに艦砲射撃を加え、イタリア軍の供給路を断とうと計画した。
この任務は、軽巡洋艦「オリオン」「シドニー」及び駆逐艦数隻をもって行うことに決定したのだが、巡洋艦のみでは効果が小さいのではと懸念されていた。
アレキサンドリアにはイギリス戦艦3隻があったが、これはイタリア艦隊の出撃に備えなければならないため、アレキサンドリアにいたフランス戦艦「ローレーヌ」が加わることになった。
1940年6月20日の朝、仏英連合艦隊はアレキサンドリアを出港し、西へ向かった。
イギリス駆逐艦は前方に出てイタリア潜水艦を警戒し、21日の5時50分、仏英艦隊はイタリアの物資集積所に向かって発砲した。
「ローレーヌ」は沿岸と平行して航走しながら、イギリス巡洋艦の後方より34�僂竜霖討鯤�った。
倉庫からは火炎と黒煙が上がった。
イタリア軍の陸上砲は不活発であり、また、わずか2機のイタリア爆撃機が高高度より飛来したが、命中弾を与えることはできなかった。
しかし、連合軍側にも損害があった。
艦隊の上空にあって弾着観測を行っていたオーストラリア軽巡「シドニー」のシーガル水上偵察機が、3機のCR42イタリア戦闘機に追撃されて消息を絶ってしまったのである。
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≪2次フ≫
6月21日、海軍航空隊がリボルノとシチリア島を爆撃した。
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≪世界の軍艦≫≪大・地の戦い≫≪欧海記≫≪2次フ≫≪カラ世界≫≪幻母艦≫
ドイツのフランス国内への侵攻に備えるため、1940年に入り、フランスはアメリカから複葉のカーチスSBCヘルダイバー艦上爆撃機90機を購入することになった。
アメリカではこの機体は旧式化に伴い既に生産を中止していたため、アメリカ海軍で予備役になってストックされていたSBC50機を集め、フランス海軍の標識に塗り替えてカナダへ送った。
そしてカナダから航空母艦「ベアルン」に積み込んでフランスに送ることになった。
フランスはこのSBC艦上爆撃機を、空軍の急降下爆撃機と「ベアルン」搭載の艦上爆撃機として使用する予定になっていた。
6月22日、フランスはドイツとコンピエーニュで休戦協定を締結した。
SBCの輸出準備や整備に時間がかかり、「ベアルン」がこの50機の機体をカナダから運び出したのは1940年6月になってからで、フランスに向けて輸送の途中の大西洋上でフランス降伏の報が「ベアルン」に入ってきた。
空母「ベアルン」は、(アメリカから購入したカーチス・ホーク75型戦闘機?を輸送するため、)取り敢えず西インド諸島のフランス領マルチニク島に向かい、この地で50機のSBCを下ろし、これらすべてをスクラップ処分してしまった。
軽巡洋艦「エミール・ベルタン」(Emile Bertin)、練習巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」(jeanne d' Arc)も国際法の定めるところにより抑留された。
新造戦艦「リシュリュー」(Riechelieu)は、ドイツ軍が侵攻した際、ブレスト海軍工廠で95%まで完成していた。
捕らわれぬよう未完成のまま、兵学校を卒業したばかりの候補生全員を乗せてアフリカのダカールへ逃亡したが、途中、イギリス航空母艦「ハーミス」搭載のソードフィシュ複葉雷撃機6機の攻撃により後部に魚雷1本を受けた。
軽巡「プリモゲ」は、フランス大蔵省の金庫に残っていた金塊を、ドイツ軍の手の及ばない北アフリカへ運んだ。
各地でフランス商船が拿捕されたが、その1隻に貨物船「フォール・ド・フランス」があった。
大西洋で「フォール・ド・フランス」がイギリス軍に捕獲されたという報を受け、直ちに軽巡「プリモゲ」はモロッコから出撃し、1日後に、「フォール・ド・フランス」を奪還してイギリス軍の捕獲船廻航員を捕虜とし、駆逐艦「アルバトロース」に監禁した。
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≪フ戦史≫
6月24日、フランス海軍総司令官のジャン・F・ダルラン大将は艦隊に次のような暗号電報を送った。
�‘旭�を解いた軍艦は、減員したフランスの乗員を乗せ、フランス国旗の下で、フランスのものとして本国または植民地の港に留まること。
��敵または外国人が暴力によってフランス軍艦を捕獲し、それを使用することができないようにするため、秘密裡に自沈の準備をすること。
��もし休戦条約の本文の解釈に責任のある休戦委員会がこの第1項と異なる決定を行なった場合には、それに基づく措置が採られ次第、命令を待つことなく、アメリカに急行するか、敵手に落ちないようにするための措置ないし自沈すること。
�こ姐颪鉾麁颪靴新慨呂蓮▲侫薀鵐抗し鎧蔑當拘韻了�前の命令なしに、ドイツまたはイタリアに対する作戦のために行動してはならない。
以上の電報は、英仏間のコミュニケーションが既に途絶えていたために、イギリス側に知られていなかった。
さらにイギリス海軍本部は、ドイツがフランス艦隊の暗号を握っており、ダルラン大将の名をもって命令を発しているという証拠を得ていたため、この命令そのものを信じるわけにはいかなかった。
また、同じ日に、イギリス内閣に届いた情報によって、アレキサンドリアと北アフリカにいるフランス軍艦が政府命令により仏領アフリカの港に向かいそうであること、それらは敵手に落ちることはないだろうが、イギリスとともに戦う意志のないことが明らかとなった。
さらに、ドイツが仏領北アフリカの諸港へ人員を空輸する恐れがあり、ぐずぐずすればフランス艦が接収されることが懸念された。
イギリス政府は、少なくともフランスの最新型戦艦「リシュリュー」「ジャン・バール」、新型戦艦「ダンケルク」「ストラスブール」を捕獲するか自沈を見届ける必要があると判断し、そのために、フランス軍艦を指定した期間内に自沈させることを要求するヴィシー政府あての通告文を起案することに決定した。
しかし、その晩の閣議で、海軍軍令部長が、フランス艦隊の全面的または部分的排除には大きな犠牲を覚悟しなければならず、作戦成功のためには事前通告なしに夜明けの奇襲攻撃が必要であると主張した。
このため、最後通牒は発せられなかった。
6月27日、イギリス内閣は、メルス・エル・ケビルにあるフランス艦隊にいくつかの提案を示し、それが受け入れられなかった場合には、優勢なイギリス艦隊によって攻撃することを原則的に決定した。
●
≪フ戦史≫
国防次官シャルル・ド・ゴール少将は、飛行機でロンドンに脱出して自由フランス委員会を樹立した。
ダルラン元帥と衝突して予備役に編入されたエミール・ミュズリエ中将は、6月28日、ジブラルタルで自由フランス海軍(FFNF)を創設した。
ミュズリエ中将は、ロンドンに渡ってド・ゴール将軍に会い、ド・ゴール将軍はミュズリエ中将に新海空軍の指揮を委ねた。
●
≪欧海記2≫≪フ戦史≫≪2次フ≫
1940年7月3(2?)日の未明、イギリスは停泊中のフランス艦を接収しようとした。
ほとんどのフランス将兵は、イギリス軍の説得に応じて艦を平和裏に引き渡した。
夜間、イギリス潜水艦「テムズ」の艦長と「ロークァル」の士官が、イギリス海兵隊の護衛を連れてフランス潜水艦「スルクフ」に乗り込んできた。
「スルクフ」の艦長が制服に着替える時間の猶予を求めると、その間に1人のフランス士官がピストルを発射し、艦上で双方の撃ち合いが始まり、イギリスとフランスの士官それぞれ1名が死亡、イギリス士官とフランス水兵それぞれが重傷を負ってしまい、「スルクフ」の乗員たちに反英機運が高まってしまった。
(一説には、フランス士官は銃剣を構えて突進してきたイギリス兵を射殺してしまい、ほかにもイギリス士官2名、水兵1名が重傷を負い、フランス兵も1人が死んだ、という)
(また一説には、英潜水艦長ら4人が死傷し、フランス潜水艦の若い砲術長が射殺された、という)
この事件以降、「スルクフ」の水兵の中には、フランスに帰ると言う者も出始め、乗組員129名のうち40名だけが艦に留まった。
残ったのは、イギリスと手を携えてあくまでもドイツと戦おうという者達で、兵が不足した無線係と暗号係などの部署には、イギリス海軍から人員が派遣されたが、残りは他のフランス艦からフランス兵をやり繰りして数を揃えることになった。
7月3日、プリマスとポーツマスのフランス軍艦は捕獲された。
二等潜水艦「オリオン」「オンディーヌ」は、ポーツマスで英海軍に接収された。
旧式戦艦「クールベ」には、FFNFの隊員が配置され、防空を担当するとともに隊員の宿泊艦となった。
●メルス・エル・ケビル海戦
≪世界の軍艦≫≪欧州ガイド≫≪海戦事典≫≪欧海記≫≪フ戦史≫≪2次フ≫
枢軸側とフランスとの休戦条約の第8条には、『フランス植民地におけるフランス艦隊は指定された港に集合し、ドイツまたはイタリア軍の下に武装解除、解隊さるべきこと』という条文があった。
そしてドイツは、「フランスの軍艦をドイツが使用することはない」と宣言していた。
しかし、枢軸側がフランス艦隊を強引に押収しないという保証はどこにもなかった。
そのため、休戦条約が調印されて数日とたたないうちに、イギリス政府は、フランス艦隊を捕獲、あるいは自軍の指揮下に組み入れるか、さもなくば完全に無力化することを決定した。
まず、自国の港にいたフランス艦はイギリスが押収した。
ついにイギリスは、北アフリカのメルス・エル・ケビル軍港にあるフランス艦隊の支配を決意する。
海軍軍令部は、この作戦名を『カタパルト』として早期の実施に同意した。
北アフリカのアルジェリアにあるメルス・エル・ケビルには、フランス海軍主力が錨を下ろしていた。
戦艦「ダンケルク」に将旗を翻すマルセル・B・ジャンスール中将は、本来、第1戦隊司令官だったが、今はメルス・エル・ケビル港に集結した全フランス艦隊の指揮権を持っていた。
その兵力は次のとおりであった。
戦艦4隻「ダンケルク」「ストラスブール」「プロヴァンス」「ブルターニュ」
大型駆逐艦6隻「ヴォルタ」「モガドル」「ティグレ」「リンクス」「ケルセン」「テリブル」
水上機母艦1隻「コマンダン・テスト」
さらに東のオラン港には、駆逐艦10隻、潜水艦6隻、スループ6隻が在泊中であった。
イギリス地中海艦隊は、アレキサンドリアを基地とするカニンガム中将の東方部隊と、ジブラルタルのジェームズ・F・サマーヴィル中将の西方部隊(H部隊)を中心として編成されていた。
58歳のサマーヴィル中将のもとへチャーチル首相からカタパルト作戦の命令が届いたとき、彼は憂鬱になってしまった。
これまで共にドイツと戦ってきた仲間であるフランス艦隊に砲を向けることになるかもしれないのだ。
1940年7月3日、メルス・エル・ケビル港北方に現れたイギリスH部隊は次のような兵力であった。
巡洋戦艦「フッド」(旗艦)
戦艦「レゾリューション」(Resolution)「バリアント」
空母「アーク・ロイアル」
軽巡「アレスーサ」「エンタープライズ」
駆逐艦11隻
潜水艦2隻
サマーヴィル中将は、C・S・ホランド大佐を駆逐艦「フォックスハウンド」に乗せて港内へ交渉に送った。
ホランド大佐は、パリの大使館で駐在武官を長く務め、親フランス派の人物である。
フランス海軍に友人も多く、フランス語も巧みだった。
午前8時(現地時間の3日0900時)、フランスの旗艦「ダンケルク」に乗艦したホランド大佐は、覚書を艦隊司令官のジャンスール中将に手渡した。
『イギリス内閣は、メルス・エル・ケビル港と、オラン港に停泊するフランス艦隊に対し、おおむね次のような選択を迫った。
6月18日のフランス閣議は、陸上における降伏前に、フランス艦隊はイギリス艦隊に合同するか、または自沈することを言明した。
しかしながら我々は、現状ではドイツとイタリアがフランス軍艦を捕獲して、それをイギリス及び連合国に対して使用することはないと断言できないと考えている。
我々は最後まで戦いを続ける。
そして、フランスは連合国であったこと、そして我々の勝利の暁にはフランスの領土を復旧させることを厳粛に言明する。
この目的のためには、我々はフランス軍艦中最も有力な艦が共同の敵によって使用されないようにしなければならない。
このために、現在メルス・エル・ケビルとオランにいるフランス艦隊は、次の案のうち一つによって行動することを要求する。
(A)我々と行動を共にし、ドイツとイタリアに対して勝利を得るために戦い続けること。
(B)乗組員を減員し、イギリス側乗組員の監督の下にイギリスの港に回航する。
下艦した乗組員は、できるだけ早い時期に本国へ送還されるであろう。
もし貴官がこれらの方針のどれかを採るならば、戦争終結と同時に貴官の軍艦をフランスに返還するか、もし損傷の場合には十分な補償金を支払う。
(C)武装解除するために適地に回航するか、アメリカに委託し、戦争終結まで滞泊すること。
以上の提案を拒否する場合には6時間以内に自沈すること。
自沈しなければ兵力を行使して、とりわけ「ダンケルク」「ストラスブール」を撃沈する』
要約すれば、フランス側は次の選択を迫られたことになる。
1:イギリス海軍の指揮下に入ってドイツと戦う。
2:イギリスの港に廻航して艦艇を預け、乗員は帰国する。
3:アメリカか西インド諸島に向かい、武装解除を受ける。
4:港内の全艦艇を、6時間以内に自沈させる。
5:戦う。
折からフランス本国では海軍省がヴィシーへ引っ越し中でなかなか連絡がつかない。
9時に、フランス側はホランド大佐に対し、フランス艦艇がドイツ・イタリアの手に渡ることがないと保証すること、さらにフランス艦艇は攻撃に対しては反撃する用意のあることを申し述べ、明確な回答を避けた。
12時30分に、フランス艦隊の出港を阻止するため、「アーク・ロイアル」のソードフィシュ攻撃機が港口に磁気機雷を投下した。
午後1時10分に、イギリス側は、午後2時までに回答のない場合は砲火を開くとの最後通牒を発した。
そしてその回答は旗艦のメイン・マストに旗を掲げるよう要求した。
ジャンスール中将は苦悩する。
午後1時30分、フランス側はイギリス側の要求を受け入れる用意があるとの信号を掲げる。
ホランド大佐が再び「ダンケルク」を訪れ、交渉を開始したものの進展はない。
フランス海軍省は、既に地中海でイギリスと敵対関係に入ったとの通報を流していた。
イギリス側もサマーヴィル中将に対して決行を促す電報を送った。
午後4時15分、遂にサマーヴィル中将は『もしイギリス時間午後5時30分(夏時間)までに回答のない場合、攻撃する』との最後通牒を再度、発した。
フランス艦艇は出港準備を急ぎ、掃海艇は港口の掃海に向かう。
また沿岸砲台は戦闘準備に入り、郊外の飛行場では戦闘機が離陸準備を行なった。
オラン港の潜水艦はいち早く港内を脱出する。
午後4時35分、ホランド大佐は「ダンケルク」を去る。
午後4時56分(現地時間の1754時?)、H部隊の砲が火を噴いた。
イギリス艦隊は港の北北西14,000mから砲撃を開始した。
フランス艦隊の戦闘準備はまったく整っていなかったが、直ちに反撃を開始した。
最も反撃の早かったのは「プロヴァンス」で、イギリス艦艇の砲撃から1分30秒後には、初弾を送っている。
ズラリと投錨したままのフランス艦隊は絶好の標的である。
早くしないと日が沈んでしまうと焦ったイギリス艦隊は矢継ぎ早に撃ってきた。
フランス戦艦群は、防波堤に艦尾を向けて停泊しており、艦首が陸に向いていた。
フランス艦隊の主力「ダンケルク」と「ストラスブール」の33�兌臻い蓮�8門とも前部に集中している。
そのため後方から撃ってくるイギリス戦艦に反撃できなかった。
ジャンスール中将は信号で、『「ストラスブール」が先頭、旗艦「ダンケルク」「プロヴァンス」「ブルターニュ」の順で出港。大型駆逐艦の出港の順序は自由。各自、外海で戦え』と命令した。
磁気機雷に触れるのも覚悟の上の出港である。
最初に動き始めた「ストラスブール」は、水道に出たときには、既に15ノットで走っていた。
たまたま鉢合わせしたイギリス駆逐艦に33�冕っ討鰺瓩咾擦拭�
イギリス駆逐艦は煙幕を張りつつ退避した。
旗艦「ダンケルク」も、もやいを解いていかりを上げている最中に、イギリス戦艦「レゾリューション」「バラム」らの集中砲火を浴び、38�冕っ討猟招�1発、至近弾3発を受けた。
また、イギリス空母アークロイヤルの雷撃機も来襲、接舷していた火薬運搬船が爆発し、大破、航行不能となった。
行き足の止まった「ダンケルク」は、港内に着底しB砲塔が旋回不能となりながらも生き残ったA砲塔は巡洋戦艦「フッド」に対し33�冕っ討�40発撃った。
この日、ダンケルクは、150名が戦死、1,147名が負傷した。
同じころ、後方を通過中の「ダンケルク」に航路をふさがれ、狭い港内で身動きのとれなくなっていた戦艦「プロヴァンス」は、5時3分、最初の命中弾を受け、大量の重油が流出した。
そして、艦尾に火災が発生し、やむを得ず艦長は艦を海岸の浅瀬に擱座させるよう命じた。
4隻の戦艦のうち最後まで動けなかった旧式戦艦「ブルターニュ」は、戦闘開始直後から相次いで命中弾を受けて大規模な火災が発生し、死者977(950?)名を出して、1810時ごろ転覆してしまった。
艦長ル・パパーン大佐、第2戦隊司令官ボーザン少将は艦と運命を共にした。
ブルターニュ級の舷側装甲は270�弌∧�蕩は最厚270�弌∨標羚暖弔�45�个慮�さであるが、イギリス戦艦の38cm砲弾は「ブルターニュ」の装甲を貫通したのであった。
大型駆逐艦「モガドル」は、38cm砲弾1発が艦尾に命中、爆雷を誘爆して艦尾を失った。
無傷であった水上機母艦「コマンダン・テスト」は、「ブルターニュ」の生存者の救出に当たった。
サマーヴィル中将は16分間の戦闘で砲撃中止を命じた。
それでもフランス側の死者は「ブルターニュ」以外に「ダンケルク」の210名、大型駆逐艦「モガドル」の42名をはじめ1,267名にも達した。
結局、出港することができたのは新戦艦「ストラスブール」だけだった。
出港した「ストラスブール」は、大型駆逐艦「ヴォルタ」「ティグレ」「リンクス」「ケルサン」「テリブル」を引き連れ、沿岸砲台と機雷原を巧みに利用しつつ、全力で外洋へ逃走した。
いったん外洋へ出てしまえば、速力の優れた「ストラスブール」がイギリス艦隊に追いつかれる心配はない。
そこで、サマーヴィル中将は、3回に渡って空母「アーク・ロイヤル」から複葉雷撃機隊を送ったが、攻撃はすべて失敗に終わった。
「ストラスブール」は、H部隊の追及を逃れ、大型駆逐艦5隻と、アルジェにいた軽巡6隻とともに南フランスのツーロン港へ脱出することに成功した。
フランス潜水艦はイギリス戦艦を雷撃しようと接近したが、イギリス駆逐艦に爆雷を投下され、魚雷の射程まで近づけなかった。
ロワール130小型飛行艇6機も現われたが、「アーク・ロイアル」の戦闘機に蹴散らされてしまった。
「ストラスブール」と大型駆逐艦5隻を取り逃がしたものの、H部隊はほとんど損害を受けることなく、戦艦3隻を無力化することに成功した。
このメルス・エル・ケビル港砲撃事件はフランス国民を激怒させた。
ヴィシー政府はイギリスとの外交関係を断絶した。
3日後、「ダンケルク」は「アーク・ロイヤル」の雷撃機の攻撃で再度損傷したが、後に引き上げられ、修理してツーロン軍港へ移動した。
損傷した「プロヴァンス」もツーロンへ移動した。
大型駆逐艦「モガドル」は、応急修理を行なった上、ツーロンに曳航された。
●
≪大・地の戦い≫≪フ巡史≫≪2次フ≫
フランスがイタリアと休戦条約を結んだ結果、アレキサンドリアでは、英艦の砲口の前でフランスの水兵は甲板洗いに精を出し、緊張緩和に成功した。
英仏両艦隊司令長官の話し合いにより、戦艦「ローレーヌ」以下のフランス軍艦は燃料を下ろし、砲の尾栓と魚雷の起爆装置をフランス領事に預け、減員された乗組員が艦の保管員として残った。
重巡「デュケーヌ」「トゥールヴィル」「シュフラン」(Suffren)、軽巡「デュゲイ・トルーアン」も武装解除され、駆逐艦3隻、潜水艦1隻も同じくアレクサンドリアに抑留された。
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≪フ戦史≫
7月8日、ダカールにあった「リシュリュー」は、英空母「ハーミス」のモーターボートの爆雷によって行動不能になった。
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≪カラ世界≫
1940年7月10日、ペタンが国家主席となった。
●ダカール沖海戦
≪世界の軍艦≫≪欧州ガイド≫≪海戦事典≫≪大・地の戦い≫≪名鑑物≫≪フ巡史≫
フランスがドイツと休戦し、ヴィシー・フランス政府が誕生すると、ドイツはアフリカのダカールをUボート用補給艦の基地として使用しようと、ヴィシー・フランス政府に働きかけた。
結局この交渉は実現しなかったが、イギリスから見れば、実現していたとしてもなんらおかしくはなく、今後の懸念に対する速やかな行動を迫られることとなった。
しかし、イギリス軍が直接軍隊を送って制圧に乗り出せば、「イギリスによるフランス領土の侵略」ということになり、ヴィシー・フランスを完全にドイツに近づけることになるかもしれない。
このとき、自由フランス政府首班のド・ゴール将軍は「アフリカ植民地は自分を支持しているので、上陸すれば必ず連合軍側につく」と、チャーチルを説得した。
ド・ゴール将軍は、アフリカのフランス植民地の支配を図って、フランス領コンゴ、チャド、カメルーンなどを次々と自らの勢力下に取り込んでいた。
チャーチルもこれに同意し、自由フランス軍の上陸が行われることになる。
これは自由フランス軍の最初の作戦となった。
ド・ゴール将軍は、麾下部隊の内諾を得るために作戦計画をあらかじめ発表しなければならなかったため、それを聞いて大喜びした下級将校は「ダカールで会いましょう!」を合言葉に町中で乾杯したので、秘密ではなくなった。
上陸作戦は『メナス(脅迫)(脅威?)』と暗号で呼ばれ、作戦にあたるM部隊は、イギリス海兵隊4個大隊4,200名と、自由フランス軍歩兵2個大隊、戦車1個中隊の2,700名(うち外人部隊2,400名)<計2,500名?>で構成された。
この部隊は、ダカールの近くに上陸する計画であった。
8月31日、M部隊はフランスの三色旗を掲げた6隻の輸送船に乗船し、イギリスのリヴァプール港より出撃した。
輸送船の大部分はイギリス船であった。
この船団は、自由フランス海軍の通報艦「サヴォルニアン・ド・ブラザ」(1,969t)「コマンダン・デュボック」「コマンダン・ドミネ」(630t)と武装トロール船によって護衛された。
これらの通報艦は、フランスが植民地警備のために設計したものであった。
イギリス海軍はM部隊援護のため、次のような有力な艦隊を派遣した。
本国艦隊からは、戦艦「バーラム」、駆逐艦4隻。
この部隊は本国スカパフローを出て、9月2日、ジブラルタルに入港し、さらにアフリカのフリータウンに向かった。
H部隊からは、航空母艦「アークロイヤル」、戦艦「レゾリューション」、駆逐艦6隻。
H部隊はジブラルタルを基地とし、西部地中海及び中部大西洋を活動範囲とする艦隊である。
H部隊は、ジョン・C・カニンガム中将(サー・ジェームス・サマービル中将?)によって率いられていたが、上陸作戦の全指揮は陸軍のアーウィン少将がとった。
一方、ヴィシー・フランス政府側は、イギリスおよび自由フランス軍のダカール攻略作戦の情報をいち早く入手、9月10日に、ラ・クロワ中将指揮のY部隊をツーロン港からダカールに向かわせた。
Y部隊は、軽巡洋艦「グロワール」(Gloire)「モンカルム」(Montcalm)「ジョルジュ・レイグ」(Georges Leygues)、大型駆逐艦「ル・マラン」「ル・ファンタスク」「ローダシュー」からなっていた。
この6隻の出港には、休戦条約のとおり枢軸側の許可が必要であった。
また、その燃料補給の目的で、タンカー1隻と護衛の軽巡「プリモゲ」(Primauguet)を先発させた。
国外のイギリス外交官は早くもこの動きに気づき、「フランス軍艦6隻が9月11日朝、ジブラルタル海峡を突破して大西洋に向かう予定」と打電してきた。
しかし、種々の手違いから、それらの報告は伝達に思わぬ時間をくい、軍令部長に手渡されたときはすでにあとの祭りであった。
それ故、おっとり刀で巡洋戦艦「レナウン」と駆逐隊とがジブラルタル港からY部隊を追ったが無駄だった。
9月13日、船団と艦隊が合流した。
Y部隊は、途中でイギリス艦隊の妨害を受けて、「グロワール」(主機関故障)、「プリモゲ」とタンカーはカサブランカ港に逃げ込み、ダカールに到着できたのは「ジョルジュ・レイグ」と「モンカルム」のみであった。
9月14日の夕刻、Y部隊はダカールに入港した。
(別の説:ダカールのフランス海軍は、赤道南のアフリカ植民地が、ともすれば弱腰でイギリスに迎合しがちであったので、友軍の戦意高揚のため、Y部隊と同港の軽巡洋艦4隻を南進させた。
しかし、その途中には、重巡「カンバーランド」(Cumberland)「オーストラリア」「コーンウォール」を基幹とするイギリス艦隊が待ち構えていた。
短い戦闘の結果、フランス軽巡「グロワール」「プリモーゲ」がイギリス軍に捕獲され、軽巡「モンカルム」「ジョルジュ・レイグ」のみが、はげしい風雨の中をほうほ
うの態でダカールに戻った。)
英仏船団はひとまずダカール沖を南下し、9月14日、シエラ・レオネのフリータウンに入港した。
同地において英重巡「カムバーランド」「オーストラリア」「コーンウォール」、軽巡「デリー」の4隻も船団の護衛隊に編入された。
すでに秘密が漏れ、ヴィシー・フランスが対抗措置をとったうえは、あえて作戦を強行すべきか、あるいは中止すべきか、または予定を変更してダカールより南のほかのフランス植民地を狙うべきか、について種々取り沙汰された。
イギリス政府の意見としては、ヴィシー・フランスの新たな艦隊がダカールに入港した以上、計画を中止すべきだという結論に達したが、司令官アーウィン陸軍少将、カニンガム海軍中将、ド・ゴール将軍の3者が強く作戦の遂行を主張したので、ついに彼らの要望はいれられ、補給した英仏部隊は、北上してダカールへと向かった。
9月23日、いよいよ英仏船団がダカール港外に現われた。
英艦隊がダカール沖に姿を現したとき、一帯は霧に覆われ、視界は極めて悪かった。
初めこの作戦の困難さを主張したアーウィン少将も、「早朝ダカール到着、日没までにはド・ゴール将軍を同地の主とすることが可能である」と考えていた。
イギリス海軍の航空母艦「アーク・ロイヤル」搭載の爆撃機が、市街に小旗やビラを投下した。
降伏勧告状だ。
しかし、そのうちの2機は高射砲で撃墜された。
ヴィシー・フランス系の西アフリカ総督ビェール・フランソワ・ボワソンは、相手が何者であろうと断じて同港を死守する覚悟であった。
ダカールには、未成戦艦「リシュリュー」、軽巡「モンカルム」「ジョルジュ・レイグ」、特型駆逐艦「ル・マラン」「ル・ファンタスク」「ローダシュー」、駆逐艦「ル・アルディ」、通報艦「ダントルカストー」(1,969t)「カレー」(644t)「ガゼル」(630t)「ラベルヴィユ」(453t)「コマンダン・リヴィエール」「ラ・シュールプリス」、潜水艦「ペルセ」「アジャックス」「べヴジェール」(3隻とも1,384tのルドゥタブル級)、補助巡洋艦3隻(5隻?)、小型給油艦「ガロンヌ」がいた。
「リシュリュー」は、7門の38cm砲のうち2門しか使用できず、また、港内に停泊中、「ハーミス」の艦載水雷艇のためスクリューをやられて航行不能になっていた。
未完成である「リシュリュー」の2番砲塔には、38cm砲が3門しか装備されていなかったのである。
脱出しようとした2隻の大型駆逐艦は、沖のイギリス艦隊を認めて引き返さざるを得なかった。
深い濃霧の中、イギリス艦隊は沖合にとどまり、3隻の自由フランスの通報艦が港に近づいていった。
通報艦から2隻のモーター・ランチが下ろされ、フランス三色旗と白旗を掲げながら4名の軍使が、青ざめた顔つきでボワソン総督に面会を求めた。
彼らの持参した書状には「差し迫るドイツ軍の侵略からダカールを開放するため、ド・ゴール将軍が守備隊と住民のための食料と救助品を持って来た」ことが述べてあった。
彼らの申し出は突き返され、その後モーターランチで通報艦へ向かった軍使は突如、帰銃弾を浴びせられた。
続いてマニュエル砲台(28�冕�9門ほか)が射撃を開始して、通報艦が狙われ、
さらに1051時、1隻のイギリス駆逐艦のそばに水柱が立ち上った。
イギリス艦隊は艦砲射撃で反撃した。
カニンガム中将が最も警戒していたのは、ヴィシー・フランスの潜水艦であった。
「港内の貴国潜水艦が出動せば、余は直ちにダカールを砲撃するであろう」
彼の警告にもかかわらず、3隻のフランス航洋潜水艦が出港してきたのを「アーク・ロイヤル」の哨戒機が発見した。
カニンガム中将は麾下の軽艦艇にその攻撃を命じ、主隊も港口へ向けて接近を開始した。
「ペルセ」(1,384t)は、イギリス巡洋艦(戦艦?)を雷撃しようとしたが、潜望鏡深度において駆逐艦「フォーサイト」「イングルフィールド」の砲火(爆雷?)で沈められた。
しかし、その乗組員は全員救助された上、のちにフランス本国へ送還された。
イギリス駆逐艦は距離4,500mまで近づいて、激しく砲台と撃ち合った。
駆逐艦「イングレフィールド」と「フォーサイト」は命中弾を受けて損傷し、重巡洋艦「カムバーランド」(「デボンシャー」?)は機関室をやられて中破し、戦場を離れなければならなかった。
自由フランス軍の小部隊は短時間の偵察上陸を行なった。
霧の中で自由フランスの運送艦はチリヂリに分離してしまい、午後になると誤報が乱れ飛び手に負えなくなったので、上陸を明日に延期することを余儀なくされた。
M部隊のスループ3隻は、夕方5時から6時までの間に再度リュフィスクに対する上陸をこころみたが撃退され、日没とともに後退した。
夜半、ダカールに対して最後通牒が発せられた。
しかし、ボワソン総督は夜明けを待たずにこれを拒絶した。
9月24日の朝を迎えたが、依然として霧は晴れなかった。
艦隊は全力を挙げて港内の仏艦隊と海岸砲に対する攻撃を企図したが、霧にさえぎられた視界のため、当初予定していた長距離砲撃は効果が薄いと判断し、より近距離での砲撃を敢行することとなった。
払暁、航空母艦「アーク・ロイヤル」搭載機による爆撃から戦闘が再開した。
目標は動けない戦艦「リシュリュー」だったが、地上からの対空砲火は3機を撃墜した。
また霧にも妨げられ、100�素�弾が至近弾になっただけであった。
霧は前日よりはましであったが、まだ濃かった。
爆撃に続き、戦艦「バーラム」「レゾリューション」は、12,000mからマニュエル砲台と未成戦艦「リシュリュー」との砲撃戦を開始した。
「リシュリュー」の主砲はイギリス戦艦と同じ38cmながら、砲身長の長い新式砲である。
この日、ヴィシー・フランス艦隊も突撃を開始しイギリス戦艦に向かったが、軽巡洋艦1隻と特型駆逐艦「ローダシュー」は、重巡洋艦「デボンシャー」「オーストラリア」の砲火に妨げられ、大破炎上して浜に乗り上げた。
イギリス駆逐艦「フォーチュン」は砲台から撃たれつつも、接敵行動中のヴィシー・フランス航洋潜水艦「アジャックス」(1,384t)に爆雷を投じ、「アジャックス」は大破浮上したのちに、0900時沈没した。
この戦いで「バーラム」が被弾した。
「リシュリュー」もマニュエル砲台も38cm砲弾を受け、フランス巡洋艦も炎上した。
泊地の東方にあったヴィシー・フランス駆逐艦「ル・アルディ」は、形勢不利と覚って煙幕の展張にかかり、港内の目標が識別不能になったため、10時10分、やむなくイギリス艦隊はいったん南方に後退した。
午後になってイギリス艦隊は再び北上、砲撃を再開した。
「リシュリュー」の砲撃により、この戦いでも「バーラム」は計4発の命中弾を受け小破した。
そして、再び展張された煙幕のため、短時間で砲戦を打ち切らざるを得なかった。
「アーク・ロイヤル」搭載機の攻撃も思わしくなく、カニンガム中将は、ついにその日の作戦を打ち切って南方に避退し、自由フランス軍を率いるド・ゴール将軍と相談の結果、翌日改めてフランス軍を撃破し、揚陸作戦を実施することに決定した。
この日ヴィシー・フランス側は死傷者258名を出したほか、市内の非戦闘員にも290名の死傷者を数えるに至った。
この日と翌日、報復攻撃としてモロッコ駐在のフランス爆撃機120機が大挙ジブラルタルを襲ったが、訓練不足のため艦艇に損害を与えることはできなかった。
9月25日、アーウィン少将は、抵抗が意外に強いので、やや悲観的なった。
25日の朝は、昨日までと打って変わってすばらしい好転となった。
空は澄み渡り、視界は申し分なかった。
早朝、また「アーク・ロイヤル」の搭載機の攻撃をさきがけとしてイギリス艦隊の攻撃が始まった。
今日こそは、という意気込みに燃えた英艦隊は、勇んで砲撃地点に向かった。
0830時、イギリス戦艦が接近して約20,000mより、再び砲撃を開始した。
砲撃戦が再開され、フランス砲台は昨日と同様煙幕の中にその姿を隠していた。
ボワソン総督はダカール市街を疾駆して士気を鼓舞し、「もう少しの辛抱だ。断じて守れ、我らのダカール!」と絶叫した。
またまた進攻してきた英艦隊を迎え撃つべく、ダカール港を後にしたヴィシー・フランス潜水艦「べヴジェール」は、護衛駆逐艦の目をかすめて、19ノットで航走中の戦艦「レゾリューション」目掛けて4本の魚雷を発射した。
0900時すぎ、その中の1本が、砲台と交戦中の「レゾリューション」左舷の前部ボイラー室に命中した。
舷側のバルジは15mにわたって損壊し、二重底も破れて前部ボイラー室に海水が流れ込んだ。
左舷の15.2�冑�砲1門は、爆発の水柱に直撃されて損傷し、2ヵ所にショート・サーキットによる小火災が生じた。
この火災はすぐ消し止められたが、間もなく浸水しつつある前部ボイラー室の中で火災が発生した。
燃料タンクに生じた亀裂から流れ出た油に火がついたのである。
この火災は前部ボイラー室への注水装置によって消火されたが、その結果、艦の傾斜は12度に達し、主砲の射撃ができなくなってしまった。
「レゾリューション」はやむなく避退を開始して戦列を離れ、艦の傾斜は燃料油の移転と稼動物件の移送によって修正されたものの、雷撃されてから4時間半後に、主機の潤滑油系統に故障が起こって、ついに行動不能となってしまった。
「レゾリューション」の被雷後も、「バーラム」は予定どおり砲撃を行なったが、前日と同様、ほとんど効果がなく、逆に「リシュリュー」の放った38cm砲の1弾は「バーラム」の右舷中央部への至近弾となって、バルジに浸水をもたらした。
「バーラム」は前日に続いての被弾となった。
海岸砲の射撃精度も依然良好だった。
イギリス艦隊は後退した。
ダカールでの戦いが熾烈をきわめたその頃、イギリス内閣では戦闘の長期化がフランス人の感情を悪化させ、ヴィシー・フランスとの全面戦争に発展するのを恐れる意見が大勢をしめ、作戦中止命令を出すことに決した。
作戦中止命令を受けたカニンガム中将は、正午直前、全部隊のフリータウンへの引き揚げを命令した。
自由フランスとイギリスの連合船団は水平線に消えていった。
行動不能となった「レゾリューション」は「バーラム」に曳航され、820�劼竜�離のフリータウンまで、4日間を費やしてようやく帰投することができた。
「レゾリューション」がこのときの被害の修復を完全に終えるのは、翌年9月となった。
傷ついた重巡洋艦「カムバーランド」もフリータウンに引き返し、駆逐艦「イングレフィールド」と「フォーサイト」は本国で本格的な修理をほどこさねばならなかった。
善戦したダカールのフランス軍は、ついに上陸阻止に成功した。
それには、Y部隊には反英的な主戦論の将兵が乗り組み、それまで戦争を身近に感じていなかったダカール守備隊を煽動した影響も大きかった。
ヴィシー・フランス側の損害は、大型駆逐艦1隻、潜水艦2隻であった。
また、「リシュリュー」や陸上施設に大きな被害があった。
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≪カラ世界≫
1940年10月24日、ペタン国家主席は、モントワール会談において、ヒトラーが要求するフランス参戦を拒否した。
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≪欧州ガイド≫≪2次フ≫
1940年11月9日、ヴィシー・フランス軍の通報艦「ブーゲンヴィル」は、西アフリカのガボンを攻撃してきた自由フランス軍の通報艦「サヴォルナン・ド・ブラザ」と砲火を交え、炎上して沈没した。
1940年11月上旬、自由フランス陸海空軍はガボンを占領した。
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≪2次フ≫
1940年11月、一等通報艦「ヴィル・ディス」は、マルティニク島で解役された。
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≪2次フ≫
1940年12月、運送艦「ローヌ」は、ドイツ潜水艦の雷撃を受け沈没した。
●コー・チャン島沖海戦
≪世界の軍艦≫≪大・地の戦い≫≪欧海記≫
休戦以前には、フランス海軍の艦艇は大西洋、地中海艦隊に分属していたが、このほかに小規模ながら極東艦隊があり、さらに南太平洋のタヒチ島にも小さな帆走練習艦を配していた。
軽巡洋艦デュゲイ・トルーアン級の2番艦「ラモット・ピケ」(Lamotte-Picquet)は、極東艦隊旗艦としてヴェトナムにあった。
主武装は、15�冢∩�砲塔4基である。
このほかフランス海軍は、植民地警備用のスループ「アミラル・シャルネ」「デュモン・デュルヴィル」をはじめとする小部隊を、ハイフォン、サイゴン、メコン河、上海、珠江などに配置していた。
1940年当時、日本は中国と戦っていたが、アメリカなどは軍需品を盛んに荷揚げして中国を援助していた。
軍需品はハノイから鉄道で中国南部に送られたのである。
日本はこのルート遮断を口実に、また将来の南方への進出の布石として仏印進駐を企図した。
仏印総督のカトルー陸軍大将は、生存のためやむなし、として日本軍による北部仏印における飛行場3ヵ所の設営と兵力6,000名以下の進駐を、しぶしぶながら認めた。
これが、1940年6月の”仏印平和進駐”である。
このためカトルー総督は、弱腰である、として本国のヴィシー政府から解任され、代わって極東方面海軍総司令官ドクー中将が新任された。
そして極東艦隊では次席指揮官であったテロー少将が総司令官に昇格した。
一方、仏印国境をめぐって紛争を続けていたタイは、この機に乗じて国境のルアンプラバンとバクセの失地回復を図って仏印に圧力をかけ始めた。
この年の6月に枢軸側と休戦したフランス本国は弱体化し、植民地のことにまで手が回らない。
今こそ好機とばかりにタイは国境に兵力を集中し、11月28日、ついに両軍の衝突が起こった。
これより先、11月22日に、タイ艦隊の主力はバンコクを出て、サタヒップ港へ進出し、さらにシャム湾内のコー・チャン島の泊地に入った。
フランスの特設監視艇「ペリール」は、遠くからタイ艦隊の動きを監視していた。
「ペリール」は、670総�邸�8ミリ機銃のみの武装だが、よく偵察の任を果たした。
これまでタイ海軍の行なった作戦としては、カンタナブリ海兵隊をクロングアイ港に輸送する船の護衛をした程度であった。
海防艦「スリ・アユデュア」を旗艦とするルアン・サンウォン・ユッタキット大佐は、兵力を次のように2隊に編成した。
第1戦隊=海防艦「スリ・アユデュア」、水雷艇「トラッド」「プケット」「スラシッタ」、漁業保護艇1隻
第2戦隊=海防艦「トンブリ」、水雷艇「ラヨン」「ソンクラ」「チョルブリ」、敷設艇「ノンサライ」、漁業保護艇1隻
タイ海軍の中核となったのは、日本で建造した海防艦「トンブリ」と「スリ・アユデュア」の2隻である。
三脚檣や上部構造物に、船体などに日本海軍艦艇の特徴が色濃く残っている外容で、排水量は2,265tと小型であるが、20�冕�4門を搭載し、舷側には64�僂料�甲を施してあった。
この当時の海防艦は、モニターの流れを汲んで小型の船体に大型の大砲を搭載する例が多かった。
この20�冕い脇�本海軍の3年式50口径で、一説には空母「赤城」の改造の際に撤去したものを流用したともいわれている。
主機はディーゼル・エンジンで、最高速力は16.5ノットであった。
水雷艇や敷設艇はイタリア製であった。
1941年1月14日、第1戦隊はサタヒップ港から出港したが、第2戦隊の出港準備が整ったのは2日後であった。
旗艦「トンブリ」の第2戦隊司令官ルアン・ブロム・ヴィラバン大佐は、兵力を分散させて泊地の哨戒に向かわせた。
陸上戦ではフランス側が押されがちだった。
1月13日、仏印東岸のカムラン湾にあったデロー少将は、軽巡「ラモット・ピケ」の艦長レジ・ベレンゲル大佐に対して、サタヒップ港のタイ艦への攻撃と索敵を命じた。
フランス艦隊はサイゴンに投錨中であった。
主力の「ラモット・ピケ」のほか、アミラル・シャルネ級のスループ「アミラル・シャルネ」「デュモン・デュルヴィル」、ツール級の旧式スループ「ツール」「マルネ」の計5隻で、臨時に第7戦隊を編成した。
ほかにも測量艦や河川用砲艦などがあったが、当然、外洋での作戦には役に立たない。
アミラル・シャルネ級は、13�冕�3門と艦載飛行艇1機を持つ大型のスループで、植民地警備用として設計されているため居住性もよく、暑さに対する配慮も十分になされていた。
ツール級は、小型貨物船の外観を持ち13�冕�2門搭載の前大戦中の建造艦であった。
排水量は644tで、アミラル・シャルネ級の3分の1の大きさである。
フランス艦隊はサイゴンを出撃して南西のプロ・コンドル島の泊地に前進した。
司令官ベレンゲル大佐が心配していたのは、海図の不備なシャム湾内の浅瀬であった。
多くの小島が点在しており、これらを縫うようにして行動しなければならなかったからである。
プロ・コンドル島沖で4人の艦長を集めての作戦会議の後、フランス臨時第7戦隊は、1月16日午後9時に抜錨し、13.5ノットでシャム湾へ向かった。
天候はよく、波は静かだった。
ロワール130飛行艇が索敵に発進した。
この飛行艇は単発推進式の複葉機で、フランス海軍の主力艦載機であった。
同機は、サタヒップの東南東140�舛離魁次Ε船礇鹽臧婉瓩法屮肇鵐屮蝓廚筏�業保護艇が投錨中であるのを発見した。
やや離れた西方の泊地には、水雷艇「ソンクラ」と「チョルブリ」がいた。
飛行艇は爆弾を投下して南へ飛び去った。
被害はなかったがタイ側は驚いた。
水雷艇「ラヨン」が南で哨戒に当たっていたにもかかわらず、フランス艦隊は目前に迫っていたからである。
フランス艦隊の襲撃を知ったタイ側は、直ちに水雷艇を出撃させた。
付近は小さな島の点在する海域で、目標を常に捕捉しているは困難だった。
午前6時19分、軽巡「ラモット・ピケ」は15�冕い亮遊發魍�始したが、朝もやが濃いため、「デュモン・デュルヴィル」や「アミラル・シャルネ」からはまだ敵影が見えず、旗艦が3斉射を終えたとき、ようやくタイ水雷艇の姿がぼんやりと見えてきた。
さすがに軽巡の火力は強烈で、タイ水雷艇の1隻はたちまち水柱に包まれ、6時25分に沈み始めた。
高速の「ラモット・ピケ」は東へ走り去ってしまったため、残りの4隻の先頭に立った「デュモン・デュルヴィル」は北へ針路をとり、小島の間を縫って目標まで5,000mに迫った。
2番艦「アミラル・シャルネ」も、数分遅れて13�冕い硫亞犬鮴擇襦�
タイの水雷艇の識別番号32が、はっきりと認められた。
イタリア製の新鋭「チョルブリ」である。
炎上中のところを、後続のスループ「ツール」と「マルヌ」の13�冕い�とどめをさした。
6時30分、東方の「ラモット・ピケ」は魚雷3本を発射した。
朝もやのため視認することはできなかったが、数分後に爆発音が聞こえた。
2本は陸地に当たって爆発したらしいが、1本は明らかに船体への命中音だった。
6時45分、水雷艇「ソンクラ」は退却を開始したが、300mほど離れた「チョルブリ」は後部に致命傷を受けていた。
「ツール」はタイ艦隊の泊地から3,700mまで接近した。
タイ水雷艇の7.6�冕い留�射は弱かった。
燃える「ソンクラ」は、6時53分に、「チョルブリ」は、その2分後、波間に没した。
フランス側の報告によると、タイの水雷艇はいずれも勇敢だったと言う。
「ソンクラ」の戦死者は14名、「チョルブリ」は2名と伝えられている。
続いて同型の水雷艇「トラッド」が、朝もやの中から現われた。
「トラッド」は第1戦隊の所属である。
6時25分から6時35分までの間、「ラモット・ピケ」の15�冕い詫銅呂覆�「トラッド」をとらえた。
「トラッド」は大破したが、沈没はまぬがれた。
第2戦隊旗艦「トンブリ」のビラバン大佐は知的な人物だった。
ビラバン大佐は外交官として東京に勤務した経験もあり、半年前にはサイゴンを訪れて、「アミル・シャルネ」の艦上で艦長と食事を共にしたほどの仲であった。
「トンブリ」は彼方の砲声に驚き、水雷艇支援のため、6時15分、抜錨した。
そしてコー・チャン島の東南端を廻って前線に現れた。
6時25分、水雷艇と交戦中の「アミラル・シャルネ」は右舷に高い煙突の艦影を認め、4分後には、「ラモット・ピケ」の砲術長も三脚檣を発見した。
6時45分、「トンブリ」は二つの島の間から姿を現した。
そして12,100mの距離から発砲する。
最初は2,000mほどの近弾だった。
「ラモット・ピケ」も応射する。
「トンブリ」は転舵し、後部を見せつつ20�冕い納遊發垢襦�
「ラモット・ピケ」は西航しつつ応戦、スループも右舷前方の「トンブリ」に射弾を送った。
午前7時13分と17分、「アミラル・シャルネ」の付近に20�冕っ討�集中し、危険になった。
そこで「ラモット・ピケ」は27ノットに速力を上げてスループの前方に位置して、コー・チャン島と平行に航走しながら『我に続け』と発光信号で命じた。
このころ「トンブリ」では艦橋部に火災が起こり、船体が右に傾き始めた。
発令所がやられたため、射撃は急に衰えた。
そのうえ補機室では発電機が機能を失ってしまった。
戦闘の前、司令官に命じられてコー・チャン島の北に向かった掃海艇「ノンサライ」は、午前9時ころ、南方で黒煙を上げる旗艦「トンブリ」を認めた。
このとき、追撃中の「ラモット・ピケ」は、浅く座礁してしまった。
「トンブリ」からは次々と近弾、遠弾を送ってくる。
しかし「ラモット・ピケ」はすぐに離礁し、3本の魚雷を発射した。
火を発しながらも必死に離脱しようとする「トンブリ」を、なおも追撃するのは危険と判断したベレンゲル大佐は、ついに戦闘を打ち切り、午前8時5分、引き揚げを命じて変針した。
タイは約150機の軍用機を保有していた。
タイ軍は、帰投中のフランス艦隊に対し、2回にわたって空襲をかけた。
午前8時58分、アメリカ製のチャンスボート・コルセア複葉偵察機が、「ラモット・ピケ」に爆弾を投下した。
1発は中央部左舷わずか5mの至近弾、他の1発が後方に落下した。
9時40分、再び空襲があり、前回とあわせて6機が投入されたという。
「トンブリ」だけでなく、同型の「スリ・アユデュア」も「ラモット・ピケ」の雷撃により沈没したらしいとの報が入ったが、実際は「スリ・アユデュア」は戦闘に参加しておらず、これは誤報であった。
(一説には、「スリ・アユデュア」は魚雷1発を受けたとされる。)
炎上する「トンブリ」の状況は悪かった。
たまたま通りかかった輸送艦「チャン」が曳航しようとしたが、自艦の数倍もある「トンブリ」を曳航するのは無理だった。
午後4時40分、「トンブリ」は、右舷に倒れるように付近の浅瀬に擱座した。
戦死は20名であった。
この間、第1戦隊の海防艦「スリ・アユデュア」は、水雷艇「トラッド」「プケット」「スラシッタ」のほか、サタヒップから来た潜水艦2隻とともに生存者の救助に当たった。
1時間45分にわたる海戦で、1名の戦死者も出さなかったフランス艦隊の5隻は、1月17日午後7時までに、サイゴン郊外のサン・ジャック泊地へ帰投した。
タイ側の雲行きが悪化するのを見た日本は、フランス側に対して、調停を申し出たイギリスを断り日本に調停させるよう工作し、しぶるフランス側の同意をとり付けた。
そして第2遣支艦隊の旗艦「名取」がサイゴンに入港し、その後甲板で、1941年1月31日に、停戦協定が調印された。
その後、タイの依頼により、神戸の川崎重工が「トンブリ」の離礁にかかった。
1940年の末、日本のサルベージの手によって引き上げに成功したが、損傷した船体は完全には修理されず、長期にわたって係留されたままになった。
一方、フランスの「ラモット・ピケ」もまた後に神戸に廻航し、入渠して至近弾による損傷を修理した。
●
≪欧海記2≫
1941年2月19日、自由フランス海軍の「スルクフ」は、カナダのハリファクスに向かった。
ハリファクスへ向かった「スルクフ」は、HX118船団を護衛することになった。
ハリファクスからイギリス本土へ向かう大西洋横断航路は、イギリスにとって最重要のシーレーンであった。
4月1日、「スルクフ」は戦艦「ラミリーズ」とともに船団を護衛してハリファクスを出航した。
「スルクフ」は無事に任務を果たし、4月17日、HX118船団はイギリス南岸のプリマスに入港した。
しかし「スルクフ」はプリマス在泊中にドイツ空軍の爆撃を受けた。
その際の空襲で「スルクフ」は至近弾を受け、船体の損傷はほとんどなかったが、破片により戦死1名、負傷6名という犠牲者が出た。
その後、「スルクフ」に一つの計画が持ち上がった。
地中海の中央部にあるイギリス軍の基地マルタ島への補給物資の輸送は、ドイツ軍やイタリア軍の空襲等により困難を極めていた。
そこでイギリス海軍では、船体の大きな「スルクフ」を一部改造して輸送潜水艦としようとしたのである。
しかし、自由フランス海軍司令官エミール・ムスリエ中将はこれに強く反対し、輸送潜水艦の件はお流れとなった。
●
≪2次フ≫
1941年春、自由フランス軍は、英軍の支援を得て仏領ソマリア攻略作戦を実施した。
FFNFの通報艦2隻が輸送船を護衛し、後にジブチの封鎖に加わった。
このとき、マダガスカル所在のフランス潜水艦から攻撃されたが、双方とも被害はなかった。
●
≪フ入門≫
1941年4月16日、ヴィシー政府所属の水雷艇駆逐艦「シュヴァリエ・ポール」がイギリス海軍機による雷撃で沈没した。
●シリアの戦い
≪世界の軍艦≫≪欧海記2≫≪2次フ≫
1941年4月に、イギリス領イラクで反イギリス派のクーデターが起きた。
1941年6月、カイロにいたイギリス中東軍総司令官ウェーベル大将は、地中海東方のフランス領シリアへの攻撃を命じた。
理由は「フランスのダルラン大将は、ドイツ軍がイラクへ長距離飛行をする際、シリア領に着陸、給油するのを許可したため」というものであった。
イギリスは、重要な戦略拠点であるフランス領シリアが、ドイツに占領されたり影響が及んだりしないようにする必要があり、事前に占領しようと考えたのであった。
シリアを目指すイギリス陸軍は、パレスチナから侵入する部隊と、イラクから北上する部隊との二手に分かれ、シリアへ侵攻した。
自由フランス軍も参加した。
イギリス軍は、さらに海からも兵力を上陸させて侵攻を早めようとした。
コマンド部隊を乗せた高速商船「グレンギル」(1,9959総t)は、デリック柱を8対も立てた優秀船で、ポートサイドから出撃した。
シリア侵攻作戦におけるイギリス海軍の司令官は、第15巡洋戦隊司令官のE・キング少将であった。
キング少将は、防空巡洋艦「フィービ」に乗り込み、防空巡洋艦「コベントリー」、リアンダー級軽巡「エイジャックス」、このほか「カンダハー」「キンバレー」「ジェイナス」「ジャッカル」の4隻の駆逐艦を率いて、1941年6月7日、エジプトのアレキサンドリアから出撃し、上陸作戦を支援した。
頭文字がJで始まるJクラスの2隻は、イタリア海軍に対抗するべく、地中海艦隊の強化を狙って、本国の第7水雷戦隊から増援に送られた艦であった。
シリアには、ピエール・グートン少将を司令官として、大型駆逐艦「ゲパール」「ヴァルミイ」、潜水艦「カイマン」「モルス」「スーフルール」をはじめ、ほかに小艦艇数隻が配備され、主要港はベイルートであった。
「バルミー」は、1年半ほど前に大西洋でイギリス駆逐艦がU55を沈めた際に、これに協力した。
空軍も2個戦闘機中隊、1個偵察機中隊、5個爆撃中隊があり、かなり強力であった。
陸軍も35,000名の兵員と45両の戦車が配備され、侮り難い兵力であった。
フランスの在シリア艦隊司令官のグートン少将から「イギリス軍の不法行為を断固撃退せよ」との命令を受けた旗艦「ゲパール」のレイモン・ゲルベ・ド・ラフォンド大佐は、指揮下の大型駆逐艦2隻に出撃命令を出した。
「ゲパール」は、排水量2,400t、備砲は13.8�冕ぁ�速力35.5ノットという"シュペール(英語のスーパーに当たる)駆逐艦"であった。
グートン少将は、3隻の潜水艦にも出撃命令を出した。
潜水艦は3隻とも排水量は974t、魚雷発射管は55�僂任△辰拭�
6月8日、潜水艦「カイマン」はイギリス軽巡「エイジャックス」を発見した。
しかし、「カイマン」が発射した魚雷は「エイジャックス」をかすめて通過してしまった。
「グレンギル」は駆逐艦「アイシス」と「ホットスパー」に守られつつ、6月9日、目的地にコマンド部隊を上陸させるのに成功した。
このコマンド部隊は、リタニ河口にあるカーン橋を占領、進軍してくる友軍を支援するのがその使命であった。
「カンダハー」以下の駆逐艦4隻は、イギリス陸軍が占領したカーン橋を奪回すべく行動中のフランス兵に対し、4.7インチ砲の艦砲射撃を行なった。
6月9日、出撃したフランス大型駆逐艦「ゲパール」と「ヴァルミー」は、タイルの南の岸辺をオーストラリア第7師団が進撃中であるのを発見した。
そして海上から13.8�冕い隆亘ぜ遊發魏辰┐拭�
海からの奇襲を受けたオーストラリア軍は、この艦砲射撃により若干の負傷者を出してしまった。
しかし、2隻の大型駆逐艦による艦砲射撃の砲弾は榴弾ではなかったため、60発も発射した割にはオーストラリア軍の損害はごくわずかであった。
オーストラリア軍兵は、装備していた12ポンド(8.7��)砲を慌てて沖に向けて据え、反撃を試みた。
しかし、「ゲパール」と「ヴァルミー」は、イギリス軍の本隊を目指して北へ艦首を転じた。
6月9日午前10時、軽巡「フィービ」に乗艦していたキング少将は、フランス大型駆逐艦が暴れているという報告を受けた。
軽巡3隻は、作戦全般を支援できるよう沖合で待機していたが、この報告を受けると、キング少将は全速力で北上を命じた。
砲撃を行なったタイルの20海里北方にはシドンの漁港があり、そのシドンはフランス艦隊の主要港ベイルートの南23海里の位置に当たる。
北上を開始したフランス艦隊は、4隻のイギリス海軍駆逐艦を発見した。
この4隻は「ジェイナス」「ジャッカル」「アイシス」「ホットスパー」で、頭文字がJで始まる2隻は1,630tの新鋭艦、備砲は4.7インチ砲2連装3基であったが、他の2隻は1,300tほどの旧式艦で、備砲は単装砲4門という装備であった。
4隻のイギリス艦隊は、その中で「ジェイナス」の艦長が先任だったため、「ジェイナス」が他の3隻を率いる形でやや前方を進んでいた。
そのため英駆逐艦「ジェイナス」は、フランス大型駆逐艦にとって格好の標的となってしまった。
8分の撃ち合いで、「ジェイナス」は艦橋に13.8�冕っ�5発が次々と命中して大穴が開き、艦橋にいた者は艦長ただ一人を除いて全員が戦死してしまった。
「ゲパール」は「ヴァルミー」との着弾を区別するため、砲弾の中に緑色の染料を入れていたため、「ジェイナス」の船体の前部は緑色に染まった。
「ジェイナス」は艦上の各所に火災が発生し、航行不能に陥った。
「ジャッカル」も被弾したが、航行は可能であった。
やがて水平線にイギリス海軍の巡洋艦を発見すると、ラフォンド大佐はすぐさま引き揚げることを決断し、「ゲパール」と「ヴァルミー」はベイルートへ向かった。
大破した「ジェイナス」は、僚艦に曳航されてハイファ港へ向かった。
フランス艦隊をわずか一握りの戦力と見下していたイギリス地中海艦隊司令長官のカニンガム大将は、味方の思わぬ被害に、アレキサンドリアからニュージーランド海軍の軽巡「リアンダー」、オーストラリア海軍の駆逐艦「スチュアート」を増援として送り、6月13日に、第15巡洋戦隊司令官キング少将の指揮下に入った。
6月14日、「ゲパール」と「バルミー」は再度イギリス軍に砲撃を試みようとした。
しかし、今度はイギリス艦隊が強固に隊列を組んで味方の陸軍を沖合で守っていた。
ラフォンド大佐はわずかに撃ち合いを行なって早々に撤退した。
撃ち合いが短時間で終わったのは、シリアに大型駆逐艦用の13.8�冕い涼凸瑤�不足していたからであった。
そのためイギリス艦隊に対し十分な砲撃ができなかったのである。
在シリアのフランス艦隊は、弾薬が不足気味であることを、イギリスのシリア侵攻の兆候が見えた時点で本国に報告していた。
しかし、フランス本国からは、外交交渉で解決する可能性がありイギリスを刺激するような事態は避けるよう、指示が送られた。
そのため、弾薬補給に関しては手付かずのままとなっていた。
度重なる在シリア艦隊からの要請に、本国のフランス海軍ではツーロンから緊急輸送を行なうことが決定され、大型駆逐艦「シュヴァリエ・ポール」と「ヴォークラン」の2隻が用いられることになった。
ツーロンからベイルートまでは約1,300海里もある。
フランス海軍は、2隻の大型駆逐艦を1隻ずつ2日の時間差で出港させることにしたが、これは1度に2隻がイギリス軍に発見されて失敗することを避けるためにとられた方法であった。
行程の途中では、イギリス軍の基地マルタ島の付近を通らなければならないため、慎重を期したのである。
まず最初に「シュヴァリエ・ポール」が出港、高速で飛ばして無事マルタ島を通過し、イギリス軍に発見されずにシリア沖に迫った。
しかし、海岸まであと50海里という海域までたどり着いた6月16日、キプロス島から発進したソードフィシュ雷撃機に発見された。
このソードフィシュ雷撃機は、空母「イラストリアス」搭載の第815中隊の所属機だった。
1941年1月、「イラストリアス」はドイツ軍の攻撃で大破し、修理のため地中海を去っていたため、中隊はキプロス島の地上基地に展開していたのだった。
「シュバリエ・ポール」は機銃で応戦し、1機のソードフィシュを撃墜したものの、襲いかかる雷撃機の攻撃をかわしきれず、目的地を目の前にして雷撃により沈んでしまった。
「ヴァルミー」と「ゲパール」が駆けつけて生存者を救助した。
続いて、2隻目の「ヴォークラン」がシリアに近づくと、在シリア軍は戦闘機を飛ばして上空援護を行なうことにした。
その甲斐あって、6月21日、「ヴォークラン」は無事ベイルートに入港した。
しかし、翌日、イギリス軍の空襲があり、「ヴォークラン」は港内で損傷してしまった。
ともあれ、本土からの弾薬輸送は、一応50%の成功となった。
弾薬の補充ができたため、6月22日夜に、「ゲパール」はイギリス軍に砲撃を試みようと出港した。
しかし、イギリス海軍では、6月17日に、軽巡「ナイアド」が「フィービ」と交代し、さらに新鋭駆逐艦「ニザム」「ジャガー」「キングストン」の3隻も応援のためベイルート沖に到着、フランス艦隊がベイルートから出港できないよう沖合で封鎖していた。
23日の未明、英軽巡「ナイアド」、ニュージーランド軽巡「リアンダー」、駆逐艦「ニザム」「ジャガー」「キングストン」がベイルートの沖合をパトロール中、封鎖を突破しようとしているフランス大型駆逐艦1隻を発見した。
「ゲパール」は陸岸すれすれを北に向かっており、すぐに砲撃戦が始まった。
フランス側の砲台も「ゲパール」を援護すべく砲撃を開始した。
しかし、イギリス軍の砲撃は凄まじく、「ゲパール」はその砲撃の前に封鎖突破を諦め、港へ戻ることにした。
そしてUターンした直後、「リアンダー」の6インチ砲が「ゲパール」に1発命中し、小さな損害が出た。
6月20日以降、フランス軍はイギリス軍に押され始め、海軍及び空軍も、さらには陸軍も敗北が続き、シリア第一の都市ダマスカスがイギリス軍に占領されてしまった。
フランス本国は陸軍の増援部隊を送ることを決定し、鉄道でドイツ軍占領下のギリシャのサロニカ港まで歩兵1個大隊(約1,000名)を送った。
その後、シリアにいる「ゲパール」「ヴァルミー」、そして修理が終わったばかりの「ヴォークラン」の3隻に兵員輸送を命じた。
7月9日、ラフォンド大佐は、3隻の大型駆逐艦を率いてギリシャを目指した。
3隻はサロニカ港に入港し、1隻当たり約330名もの陸軍兵士を乗せることになった。
そのため安全第一に事を進ませることになり、もし敵に発見されたなら無理せず引き返すことが厳命された。
この命令により、3隻はシリアの海岸まで200海里という海域まで近づきながらもイギリス軍機に発見されたため、陸軍兵士の輸送を中止せざるを得なかった。
このころ、在シリアのフランス艦隊は、潜水艦がイギリス海軍の潜水艦に沈められ、さらに給油艦がイギリス軍の雷撃機により攻撃を受けて損傷するなどしたため、多くの将兵が、もはや戦意を失ってしまっていた。
そして、7月14日のパリ祭の日、在シリアのフランス軍は、サン・ジャン・ダクルでイギリス軍に降伏した。
「ゲパール」「ヴァルミー」「ヴォークラン」は、ツーロンに戻り地中海艦隊主力と合流した。
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≪幻母艦≫
1941年12月にアメリカが第2次世界大戦に参戦すると、「ベアルン」はアメリカの手によって現地で接収された。
「ベアルン」は、ドイツと親しいヴィシー政府の側に立っていたため、アメリカの圧力で武装解除されたのである。
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自由フランス軍司令官ド・ゴール将軍は、フランス人の士気を高めるべく、アメリカ北東ニューファンドランド島沖にあるヴィシー政府支配下の2つの島、サンピエール島とミケロン島を占領することを決定、海軍司令官ムスリエ中将に上陸し占領するよう命令を下した。
命令を受けたムスリエ中将は、「ミモザ」「アリス」「アコエ」の3隻の護衛艦に、潜水艦「スルクフ」を加えた計4隻で作戦を決行することにしたが、この作戦はカナダやアメリカの了解をとってはいなかった。
1941年12月23日に出航した4隻は、訓練と称してイギリス軍を欺き、「スルクフ」は自艦で編成した陸戦隊を護衛艦に洋上で移乗させた。
サンピエール、ミケロン両島は、両島合わせても南北40�辧�東西20�劼両�島であり、上陸は抵抗もなく、自由フランス軍の旗が島に上がった。
クリスマスの未明のことであった。
「スルクフ」は上陸作戦中、いかなる国籍の艦船も両島に接近せぬよう沖合いで周辺を警戒していた。
サンピエールとミケロンの両島は、ド・ゴール派への忠誠を宣言させられた。
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≪世界の軍艦≫≪欧海記2≫
1941年12月、日本が参戦して戦雲は太平洋へも広がり、フランス人は関心を太平洋にも向けなくてはならなくなった。
南太平洋にあるフランス植民地も、いずれ日本の影響を受けるかも知れず、連合軍はそれを防ぐためにも有力な艦艇を派遣する必要があった。
中でもタヒチ島には帆走練習艦「ゼレ」(197t、47�佶�1門搭載)があるだけであった。
自由フランス軍の潜水艦「スルクフ(シュルクーフ)」はタヒチ島に派遣されることになった。
「スルクフ」はバミューダで仮修理を受けたが、それでも故障が続発し、航海は1軸のみで走らねばならなかった。
1942年2月12日、「スルクフ」はパナマ運河を通って太平洋を目指すべくバミューダを出港したが、ひとまずパナマのコロン港に入港することになった。
2月18日夜、アメリカ陸軍の輸送船「トンプソン(トムソン?)・ライクス」(6,900総t)は、アンティル諸島沖をキューバに向かって約14ノットの高速で北上していた。
アメリカ大西洋側のUボートの猛威のため、厳重な灯火管制が行なわれていた。
「トンプソン・ライクス」はC1B型戦標貨物船で、ライクス・ブラザース社の持ち船であり、陸軍に徴用されていたものの民間の商船員が運航し、砲手などにアメリカ陸軍の兵員が配置されていた。
突然、「トンプソン・ライクス」の前方のやや右手に白い灯火が見えた。
「トンプソン・ライクス」は衝突を避けるため、左に舵を切った。
しかし、この瞬間、灯火の位置が変わり、軽い衝突音とショックがあった。
船長はブリッジに駆けつけ、すぐさまエンジンの停止を叫んだ。
ブリッジにいた士官1名と陸軍の砲手2名は、左舷真横に潜水艦らしいものが沈みつつ後方に流れていくのを認めた。
海面はひどく泡立ち、潜水艦らしきものは艦首だけを水面に突き出しながら沈んでいった。
助けを求める声が聞こえたため、「トンプソン・ライクス」はサーチライトを照射したが生存者の影はなく、海面には多量の重油が漂っていた。
「トンプソン・ライクス」自身は、大した損傷を受けなかった。
報告を受けたアメリカ海軍もこれをUボートと考えたのか、10時間後の午前8時には捜索を打ち切った。
これ以後、「スルクフ」は連絡を絶ち、パナマのコロンにも到着しなかった。
「スルクフ」の行方を求めた自由フランス軍は、後にこの衝突事故を知ったが、この際のアメリカ海軍の行動に強く失望し、査問委員会が開かれるほどであった。
「スルクフ」の乗員156名は全員死亡したとされているが、フランスのシェルブール港にある慰霊碑には129名となっており、また『L'ATLANTIQUE』という本には、124名のうち2名はイギリス人連絡係であったという記述があり、資料によって乗組員の数はまちまちである。
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≪世界の軍艦≫≪名鑑物≫≪フ巡史≫≪2次フ≫
1942年5月、アフリカ東岸のマダガスカル島を、日本軍より前にフランスから占領しようとイギリス船団が到着した。
5月5日、潜水艦「べヴェジエ」は、ディエゴ・スアレスで、英空母「イラストリアス」搭載機の攻撃を受けて沈没した。
抵抗した潜水艦「ル・エロー」は、空母「イラストリアス」の艦載機に沈められ、潜水艦「モンジ」もイギリス空母「インドミダブル」を雷撃しようとして失敗、駆逐艦に撃沈された。
ほかにも、潜水艦1隻、通報艦1隻、補助巡洋艦1隻が撃沈された。
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≪2次フ≫
イギリスからフランスに引渡されたコルベット「ミモザ」は、1942年6月9日、北大西洋で船団護衛中、ドイツ潜水艦の雷撃を受け沈没した。
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≪2次フ≫
1942年6月、運送艦「ラドゥール」は、ベイルート沖で英軍機の雷撃により損傷、トルコに接収され、後トルコに売却された。
●カサブランカ沖の戦い
≪世界の軍艦≫≪海戦事典≫≪大・地の戦い≫≪欧海記≫≪フ戦史≫≪2次フ≫≪フ入門≫≪世界スパイ≫
1942年4月、ロンドンを訪れたマーシャル米陸軍参謀総長は、チャーチル英首相と会談し、
�―祥茲侶弉茲匹�り、ドーヴァー海峡を渡ってフランスに上陸、ドイツ本土に巻き返す「掃蕩」作戦を強行すべきか、
��地中海を通って南フランスに上陸し、ヨーロッパに第2戦線を形成、ドイツへ南から進入する「大鎚」作戦を行なうか、
について作戦方針を練った。
大上陸作戦を敢行するには、上陸用舟艇の数が不足し、連合軍の戦力はまだ十分ではなく、多大の出血を見るであろう、との結論に達した。
そこで、代わりに北西アフリカのフランス領植民地であるモロッコとアルジェリアへの上陸作戦を立案した。
北アフリカに上陸することは、ソ連を少しでも益するところがあろうし、同時に中近東方面におけるモントゴメリー将軍率いるイギリス第8軍の支援にもなるとみなされたのである。
作戦は暗号で『トーチ』(炬火)と名づけられて、アメリカのアイゼンハワー大将が最高司令官に任命され、海軍側としてはイギリスの地中海艦隊司令長官サー・アンドリュー・カニンガム大将が任命され、アメリカ軍の参加によって陸、海、空に空前の戦力が集められていた。
しかし、上陸が予定されている北西アフリカは、フランス・ヴィシー政府の支配下にあるため、現地のフランス軍による抵抗も予想された。
なかでも、フランス海軍はイギリスを憎む感情が強く敵対的であり、上陸部隊に対して攻撃を加えてくる可能性はきわめて高かった。
上陸作戦を平穏に行なうため、連合軍のアイゼンハワー将軍は、ヨーロッパ派遣軍アメリカ地上軍参謀総長のワーク・M・クラーク大将を送り込んで現地のフランス軍を説得することとした。
10月19日、クラーク大将は、イギリス潜水艦「P219」でジブラルタルを出港し、アルジェの西方90キロの地点へ、ひそかにゴムボートで上陸した。
そして、フランス軍部隊の参謀長マスト将軍と交渉した。
だが、現地軍への工作は順調には進まなかった。
マスト将軍は「共通の敵はドイツである」旨を認識し、一応の協力を約束したものの、下級部隊には指示が徹底していなかったうえ、現地のフランス海軍高級指揮官とは接触できなかった。
なお、8日後、「P219」は、フランス本国ツーロンの30�凖貶�から、ドイツ軍の捕虜となっていたフランス陸軍のジロー大将を助け出した。
トーチ作戦は、西部のモロッコ、東部のアルジェリアの2つの地域に分担して行なわれた。
アルジェとオランへの上陸部隊はイギリス軍であり、カサブランカ周辺への西部上陸部隊はアメリカ軍で、その部隊は、10月24日、アメリカ東海岸から直接出撃した。
新鋭戦車M4シャーマンは、キューバとアメリカ本土の航路で使われていた大型鉄道連絡線「シートレイン・ニュージャージー」(8,108総t)を改造した特殊上陸艦「レイクハースト」に積み込まれていた。
戦車揚陸艦LSTが現われるのは後のことである。
歩兵は、客船や貨物船を改装した兵員輸送船に乗り、沖合いで下ろす上陸用舟艇(LCVP)に移乗する。
西部上陸部隊となるのは、アメリカ陸軍の第1機甲軍団司令官パットン少将率いる機甲1個師団、歩兵1.5個師団であった。
パットン少将は、アメリカ陸軍では機甲戦のエキスパートともいえる人物だったが、強烈な個性の持ち主で、とかく逸話の多い将軍だった。
海軍部隊の指揮官はケント・ヒューイット少将であった。
上陸部隊を運ぶのは、輸送船23隻、貨物輸送船8隻で、この船団は3つに分けられた。
主力はカサブランカ上陸部隊で、ほかに南のサフィ、北のメディアにも支隊が送られた。
カサブランカには、フランス海軍の未成戦艦「ジャン・バール」が在泊していた。
「ジャン・バール」の38cm4連装の主砲塔は1基だけしか装備しておらず、速力も3ノットしか出せない状態であったが、港内に停泊したまま戦闘することは可能であった。
主砲は、回航当時は使用不能であったが、その後、乗員が整備し、陸上に3ヵ所の射撃指揮所を設けた。
このため、カサブランカ上陸部隊の支援には、16インチ砲9門を搭載するアメリカ海軍の新鋭戦艦「マサチューセッツ」が配備されていた。
アメリカ第34任務部隊のうち、カサブランカ制圧部隊の指揮官は、第7巡洋艦戦隊司令官のロバート・C・ギュッフェン少将であった。
この部隊の兵力は、次のとおりである。
戦艦「マッサチュセッツ」(Massachusetts)
重巡洋艦「タスカルーサ」(旗艦)「ウィチタ」
軽空母「レンジャー」(Ranger)、護衛空母「スワニー」
駆逐艦「ウェインライト」「メイラント」「リンド」「ジェンキンス」
給油艦「チェムング」
このほか南北の支隊にも、重巡「オーガスタ」、軽巡「フィラデルフィア」、戦艦「テキサス」などが支援兵力として配属されていた。
また、ほかにも3隻の空母がいたが、これらは沖合いで行動し、戦艦や巡洋艦のように陸岸に接近することはなかった。
1942年11月8日、トーチ作戦が開始された。
午前7時には、アメリカ軍の上陸に先立って、カサブランカの北東フェデラの上陸地点に対し、重巡「オーガスタ」と軽巡「ブルックリン」が艦砲射撃を開始した。
西部上陸部隊の指揮を執るヒューイット少将は、重巡「オーガスタ」に座乗していた。
午前7時、空母「レンジャー」と「スワニー」から発進したグラマンTBFアヴェンジャー雷撃機が、カサブランカ市内にパンフレットを散布した。
これは、アメリカ軍にはフランスを敵とする意思はなく、上陸部隊に抵抗しないよう求めるものだったが、パンフレットを拾って呼んだフランス軍将校は少なく、兵士たちはどうすべきか途方にくれるばかりだった。
スペイン語で"白い家"を意味するカサブランカの兵力は決して小さなものではなかった。
エル・ハンク要塞には19.4cm砲4門、13.8cm砲4門が据えられ、海軍部隊の指揮官ミシュリエ中将のもとには、11月8日現在、次のような艦艇があった。
未成戦艦「ジャン・バール」
軽巡洋艦「プリモゲ」(第2軽戦隊旗艦)
大型駆逐艦「ミラン」「アルバトロス」「ル・マラン」
駆逐艦「ラルシオン」「フグー」「フロンデュール」「プレストワ」「ブローネ」「ティフォン」
一等潜水艦「シディ・ラフェルシュ」「ル・コンケラン」「ル・トナン」
二等潜水艦「ラ・シビュ」「メデューズ」「アマゾーヌ」「アンティオープ」「アンフィトリト」「ラ・プシシェ」「オレアード」
そのほか、護衛艦8隻、掃海艇11隻、商船多数
このうち軽巡「プリモゲ」を旗艦とする第2軽戦隊の司令官はゲルベ・ド・ラフォンド少将であった。
また、潜水艦のうち5隻は、本来カサブランカに配置されいたのではなく、ダカールから訓練のため来航していたものだった。
さらにカサブランカ周辺の飛行場には空軍の戦闘機、爆撃機2個中隊があった。
カサブランカのフランス軍が保有していた戦闘機は、液冷のドボアチンD520と、ア
メリカ製のカーチス・ホーク75(アメリカ陸軍のP36の輸出型)、爆撃機はリオレ・I・アリビエLeo451、アメリカ製のマーチンI67F、ダグラスDB7などであった。
ヒューイット少将は、事前にフランス空軍を無力化すべく艦載機で飛行場を攻撃させることとした。
11月8日、空母「レンジャー」及び「スワニー」以下4隻の護衛空母を発進したアヴェンジャー、ダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機、グラマン・ワイルドキャト戦闘機が、3ヵ所のフランス軍飛行場を奇襲し、フランス機は在地のまま炎上していった。
しかし、空襲の間をついて離陸し、邀撃を行なうフランス機もあり、ドボアチンD520戦闘機は、その優れた性能を生かしてアメリカ海軍機5機を撃墜したが、フランス側も空中戦で7機が撃墜されている。
空中戦が始まったのは、午前7時50分であった。
フランス海軍部隊指揮官ミシュリエ中将は、エル・ハンク要塞で指揮を執っていたが、本国のヴィシー政府の方針も、またモロッコ植民地政府の方針も分からぬまま、とりあえず領海内に侵入する者には容赦なく砲撃するよう命令していた。
上部からの命令もない中、ミシュリエ中将は、ともかく戦って、その後に名誉ある降伏を行うしかない、と判断した。
しかし、アメリカ艦載機によるカサブランカ港への空襲により、出撃しようとしていたフランス潜水艦のうち3隻がたちまち行動不能となり、またドックで修理中だった大型駆逐艦「ル・マラン」と駆逐艦2隻も損傷した上、撃沈された商船も10隻を数えた。
午前8時4分、アメリカ戦艦「マサチューセツ」は、40.6�兌臻い砲茲觴遊發魍�始した。
「マサチューセツ」の射撃は、28,000mの遠方から行なわれ、エル・ハンク要塞を目標としていた。
これに対し、港内の戦艦「ジャン・バール」も岸壁に係留されたまま、使用できる1基の380��4連装砲塔で反撃を開始すると、「マサチューセツ」も「ジャン・バール」に目標を移した。
しかし、「マサチューセツ」搭載のMk3砲射撃用レーダーは2基とも作動不良で精度に信頼がおけず、射撃指揮は主に測距儀で行われた。
戦闘報告は、レーダーと関連機器の衝撃対策を早急に取るよう要請している。
重巡「タスカルーサ」と「ウィチタ」(戦艦「テキサス」もか?)も加わり、ともに港外18,000〜26,000mの地点を遊弋しながら砲撃した。
16分後(約1時間30分後?)、距離23,000mで「ジャン・バール」に40.6�冕っ�5発が命中し、2発は不発だったものの砲塔の脇に被弾したため、それ以後の発射が不可能となっ
たのである。
「ジャン・バール」は、艦砲のほかに1,000ポンド爆弾が命中して上部構造物に大きな被害が生じた。
(一説に、「ジャン・バール」は大破着底したとされる)
「マサチューセツ」の40.6�冕っ討里Δ�1発は、ドック内にあった大型駆逐艦「ル・マラン」にも命中し、「ル・マラン」は浸水、沈没した。
他方、第2軽戦隊も、司令官のゲルベ・ド・ラフォンド少将の命令のもとに、アメリカ輸送船団を攻撃すべく、急遽、出撃した。
旗艦の軽巡洋艦「プリモゲ」は運悪く岸壁で機関を修理中であったため、ラフォンド少将は将旗を大型駆逐艦「ミラン」に移して出撃し、「プリモゲ」に対しては、後を追うよう下命した。
「プリモゲ」の従軍司祭が岸壁に駆けつけたとき、既に第2軽戦隊は「ミラン」以下の艦が出撃したところだった。
司祭はアメリカ軍の砲弾が落下する岸壁に立ち、「ミラン」の後ろ姿に十字を切り、その無事を祈った。
「ミラン」に続くのは、同型の大型駆逐艦「アルバトロス」と、駆逐艦「ブーロネ」「プレストワ」「フロンドゥール」「フグー」であった。
先発した6隻の駆逐艦は、隊列を組む余裕もないまま、各艦がバラバラにフェデラ沖の敵輸送船団に向かった。
ラフォンド少将は、陸地を背にして18ノットの速力で東進した。
1年9カ月前、ラフォンド少将は、大型駆逐艦「ゲパール」の艦長としてシリア作戦に参加し、やはり陸岸に接近して敵艦からの被認を避け、イギリス駆逐艦「ジェイナス」を損傷させたことがあり、今回も同じ戦術を採ったのである。
しかし、出撃後すぐに第2軽戦隊は、空母「レンジャー」の戦闘機の機銃掃射を受けた。
シリアのときとは異なり、アメリカ海軍には空からの目があった。
フランス駆逐艦部隊が東に向かうという報は、たちどころにアメリカ艦隊の知るところとなリ、東から重巡「オーガスタ」と軽巡「フィラデルフィア」が、駆逐艦「ウィルクス」「スワンソン」「ラドロー」「ローワン」を率いて迎撃に当った。
砲戦が開始され、アメリカ側は、西北方にあった戦艦「マサチューセツ」をはじめ
「タスカルーサ」や「ウィチタ」も戦闘に加った。
そのころ、軽巡洋艦「プリモゲ」は、ようやく出撃準備を終え、先行した6隻の駆逐
艦の後を追った。
「ミラン」はアメリカ駆逐艦「フィルクス」を目標に砲撃しつつ、降り注ぐ砲弾を回避しながら東を目指した。
しかし、駆逐艦に対して、戦艦や巡洋艦では主砲の威力、射程、精度が格段に違う。
午前9時20分、「プレストワ」の対空機銃座に砲弾が命中、また「ブーロネ」では艦長が戦死、旗艦「ミラン」にも「ウィルクス」の5インチ砲弾が命中し、司令官ラフォンド少将をはじめ幕僚全員が負傷してしまった。
一方、戦艦「マサチューセツ」には「ブーロネ」の13�冕っ討�命中、右舷後部の20�亠―萄造�吹き飛び、軍艦旗も弾片で千切れてしまった。
駆逐艦「ラドロー」も艦橋前方に1発を受け、上陸用舟艇の中にも被弾するものが出た。
軽巡「ブルックリン」にも1弾が命中したが爆発せず、6名の負傷者を出した。
午前10時40分、先頭を走っていた「フグー」が「マサチューセツ」の16インチ砲弾1発と「タスカルーサ」の8インチ砲弾2発を受けて沈没した。
旗艦「ミラン」も重量1.2tの16インチ砲弾を受け、戦闘不能となった。
軽巡「プリモゲ」が駆逐艦部隊に追いついたのは、そのころだった。
「プリモゲ」は砲撃を受けつつも「ミラン」に接舷し、ラフォンド少将以下の戦隊司令部を移乗させた。
ラフォンド少将は、艦隊をカサブランカへ撤退させるよう命じた。
しかし、敵前で停戦した「プリモゲ」はたちまち「マサチューセツ」の16インチ砲弾1発、「オーガスタ」の8インチ砲弾2発、さらに「ブルックリン」の6インチ砲弾数発を受けた。
「プリモゲ」の装甲は、砲塔や司令塔にさえ弾片防御程度しかない。
相次ぐ命中弾で、艦の前部は散々に破壊されてしまった。
他方、昼ごろ、駆逐艦「ブーロネ」がアメリカ艦艇に対して魚雷攻撃を行なおうとしたところに、6インチ砲弾8発が命中し、たちまち沈没した。
大型駆逐艦「アルバトロス」も水線下に1発の砲弾を受けた上に、空母機からの爆弾2発が命中した。
「プリモゲ」は、「アルバトロス」も救助しようとした際に、同様に「レンジャー」の艦載機の爆弾を受け、さらに損傷が大きくなった。
「プリモゲ」はよろめくようにカサブランカへ向かったが、あと少しで岸壁というところで擱座してしまった。
「アルバトロス」も「ミラン」も大破したまま自ら擱座し放棄された。
「プリモゲ」の戦死者は90名、負傷者は200名で、全乗組員578名のうち半数以上が死傷した。
駆逐艦「フロンドゥール」も沈められ、結局、第2軽戦隊の中で無傷でカサブランカに帰り着いたのは、駆逐艦「ラルシオン」のみであった。
擱座した「プリモゲ」から陸に逃れたラフォンド少将は、部下の生存者を集めて小銃を与え、上陸してくるアメリカ軍と戦うよう命じた。
シリアの戦いのときといい今回の戦いといい、ラフォンド提督は、フランス海軍の中にあって最も敢闘精神旺盛な猛将の一人であるといってもよいだろう。
カサブランカ港の戦闘では、二等潜水艦「ラ・プシシュ」「アンフィトリト」「オレアード」が失われ、損傷して脱出を図った「シディ・フェルシュ」は、護衛空母「スワニー」の艦載機によって撃沈された。
一等潜水艦「フレスネル」は、ツーロン港へ逃亡するのに成功した。
東では、オランにあったフランス艦隊が、イギリス艦隊に勇敢な抵抗を見せた。
駆逐艦「ティフォン」は、レンジャーを乗せて突入してきたイギリス護送船「ハートランド」をオラン港外で撃沈した。(一説には、英スループ2隻を撃沈したとする)
オランでは、大型駆逐艦「エペルヴィエ」が大破擱座し、連合軍と交戦した駆逐艦「トルナード」が沈没、「トラモンターヌ」が大破擱座した。
二等潜水艦「アルゴノート」は、オラン沖で英艦により撃沈された。
11月9日、駆逐艦「ティフォン」は、閉塞船として自沈した。
同日、二等潜水艦「ディヤーヌ」は、オランで自沈した。
アルジェでは、陸軍は抵抗しなかったが、艦艇と海軍の沿岸砲台は激しく戦った。
最終的に、未成戦艦1隻、軽巡1隻、駆逐艦9隻、潜水艦11隻、その他からなる艦隊は、連合軍の戦艦1隻、重巡3隻、軽巡1隻、空母2隻を相手に抵抗したが、駆逐艦1隻を除いて撃破された。
(アメリカ軍は、戦艦1隻、重巡4隻、空母1隻、駆逐艦14隻で、また、フランス艦隊で残ったのは潜水艦2隻とも)
「ドイツ空軍はフランス軍援助のために、直ちに手を貸す」旨、ヒトラーよりの申し入れがあったため、11月10日、ヴィシー政府の海軍大臣オーファン大将は、この電文を北アフリカのアルジェにいるダルラン元帥に打電し、戦闘を継続するよう命令した。
元ヴィシー政府の海軍総司令官であったダルラン元帥は、このとき、高等弁務官として北アフリカ行政の最高責任者であった。
(一説には、三軍総司令官だったダルラン元帥が、入院中の息子が危篤になったため、たまたまアルジェに来ていた、という)
しかし、ダルラン元帥はイギリス人も嫌いだったが、ドイツ人はなお嫌いであった。
再び「P219」を降りたクラーク大将は、11月10日、アルジェ港でダルラン元帥と会見し、ここに休戦条約が成立した。
この会談の際、ロバート・ダニエル・マーフィー駐ヴィシー政府アメリカ代理大使が通訳となった。
戦闘も一段落したこの11月10日(11日とも)、ダルラン元帥は、ペタン元帥と連絡の上、アフリカの全フランス軍に抵抗中止命令を発した。
カサブランカやオランも連合軍に降伏した。
アメリカ艦隊を相手に、圧倒的に少ない兵力、不利な態勢にあったにもかかわらず、勇敢にも戦いを挑み、フランス海軍の名に恥じぬ勇気と意地を見せた戦闘であった。
ダルラン元帥はアルジェーに政府をつくり、アフリカのフランス領地域は、ドイツ軍の駐留するチュニジアを除き、その支配下に入った。
ダルラン元帥は、米軍代表アイゼンハワー将軍、英軍代表カニンガム提督と協定を結び、アフリカのフランス軍が米英と協力して枢軸側と戦うことを承認した。
在アフリカのフランス艦艇もその指揮下に入った。
しかし、12月24日、ダルラン大将は執務室でフェルナンドー・ボネー・デ・ラ・チャペルに暗殺された。
チャペルは、アルジェにあったアメリカのOSS(戦略情報局)機関が使う自由フランス軍の破壊工作員で「フラン軍団」と呼ばれる順軍事組織に所属していた。
●
≪2次フ≫
1942年11月、二等潜水艦「セレス」「パラス」は、オランで自沈した。
●
≪2次フ≫
1942年11月19日、二等潜水艦「ダナエ」は、連合軍の北アフリカ上陸作戦の際、自沈した。
●ツーロン港の自沈
≪世界の軍艦≫≪大・地の戦い≫≪2次フ≫
ダルラン元帥が連合軍と休戦条約を結ぶや否や、即日、ドイツ陸軍はヴィシー・フランス領内に侵入を開始し、イタリア海軍も旧式巡洋艦「バリ」と6隻の駆逐艦、16隻の輸送船その他を送って、フランス領コルシカ島を2日ののち占領した。
11月11日、ダルラン元帥は、地中海の対岸南フランスのツーロン港にいる地中海艦隊に対して命令を発した。
「直ちに全艦隊を率いて、北アフリカの英・米軍占領の港へ急行せよ。途中、英国艦隊の一部は、フランス艦隊を護衛する予定である。至急、出港せよ」
チャップリンひげを生やした航洋艦隊司令長官ジャン・ド・ラボルド大将は、狂信的な反英主義者であった。
ド・ラボルド大将は、米英軍がフランス領北アフリカに上陸したことを知るや、全艦隊を率いてこれを攻撃したいと思ったほどだった。
ド・ラボルド大将は、ダルラン大将の命令にはヴィシー政府の裏づけがない以上、いかに上司とはいえ従うことはできない、とキッパリ拒絶したのである。
そのためイギリス艦隊は待ちぼうけを食わされた。
ツーロン港よりフランス一等潜水艦「カイマン」「マルスーアン」「フレスネル」などが出撃して、アルジェ沖で米輸送船団の偵察を行なっていた。
この3隻の潜水艦が持って来た情報は、11月14日、ツーロンで開催されたフランス・ドイツ海軍連絡会議において、ドイツ海軍のヴェーヴェル少将に報告されている。
また、フランスのスループ「ラムペテューズ」は、ツーロンの10浬沖で、偵察にやって来たイギリス潜水艦を発見、これに爆雷攻撃を加えた。
ツーロン港には、新戦艦「ストラス・ブール」を旗艦に、戦艦2隻、巡洋艦7隻、駆逐艦32隻、潜水艦16隻、その他の艦艇20隻以上という強力な艦隊が置かれていた。
A 外洋艦隊 司令長官ド・ラボルデ大将
新戦艦「ストラスブール」(旗艦)「ダンケルク」、旧式戦艦「プロヴァンス」
第1巡洋艦隊
第1巡洋戦隊
重巡洋艦「アルジェリ」(旗艦)「デュプレ」「フォッシュ」「コルベール」
第3巡洋艦隊
軽巡洋艦「マルセイエーズ」(Marseillaise)(旗艦)「ジャン・ド・ヴィエンヌ」(jean de Vienne)
第3軽戦隊
第6駆逐隊=「ヴォルタ」(旗艦)「アンドンプタブル」
第5駆逐隊=「タルチェ」「ヴォークラン」「ケルサン」
第7駆逐隊=「ゲルフォー」「カッサール」「ヴォートール」
第8駆逐隊=「ケパール」「ヴェルダン」
第10駆逐隊=「ラドロワ」「マムリュク」「カスク」
(軽戦隊は、第10駆逐隊以外はすべて大型駆逐艦である)
B 第3地区 海軍方面部隊
第1駆逐隊=「ブールドレイ」「ル・マルス」「ラ・パルム」
第13駆逐隊=「バリステ」「ラ・ベイヨネーズ」「ラ・プールシュヴィアンテ」
第3哨戒隊
哨戒艇「L・エパルジ」「ラ・ポノワズラ・アヴレイズ」
駆潜艇「1号」「4号」
潜水艦隊
航洋潜水艦「ヴァンジュール」「ルドウタブル」「パスカル」「アンリー・ポワンカレー」「アケロン」「レスポワール」「フレスネル」
中型潜水艦「シレーヌ」「ナイアド」「テティス」「ガラテエ」「ウーリディス」
敷設用潜水艦「デアマン」
新鋭中型潜水艦「オーロール」
航洋潜水艦「カイマン」
水上機母艦「コマンダン・テスト」
スループ「ダベルヴィユ」「ラムペテューズ」「ラ・キュリウーズ」「シャモワ」「イゼール」「デデニューズ」
設網艦「グラディアテュール」
運送艦「オード」「シャムプラン」「アメラン」「ゴロ」「ガロンヌ」
給油艦「デュランス」「ランス」「ラ・アヴレイズ」
哨戒艇「フォーヴェット2世」
駆潜艇「25号」
(これらの艦名は、自沈したもののみであり、脱出したものは除く)
11月18日、ドイツ軍は、フランス部隊すべてがツーロン地区から撤退することを要求してきた。
終日、フランスの高官は旗艦「ストラスブール」の甲板に集まって今後の方針を討議し、ツーロンの郊外にフランス海軍の憲兵と通信隊を送って、協定に違反してドイツ陸軍がこれ以上波止場に接近しないよう警戒させた。
設網艦「グラディアテュール」の艦長は、からになった金属柱を街から海岸への通路にうず高く積み上げさせた。
この障害物は、数日後、ドイツ兵の侵入を数分なりとも遅らせるのに役立った。
11月27日早朝、ドイツ陸軍の第1戦車軍団が、停泊中のフランス艦隊を接収しようとツーロンに進入してきた。
ヴィシー政府は、前日のヒトラーとの会談の結果、艦隊を必ず無傷
でドイツ軍に引き渡すようツーロン港へ電話したのだが、既に遅かった。
ドイツ兵とフランス憲兵とが撃ち合いを始めたのだ。
戦場に最も近かったのは、港内の東部にあった9隻の潜水艦である。
暗黒の中に銃の発射閃光が見えるや否や、4時30分、用意のよい5隻の潜水艦が逃亡を図った。
まず中型の「ヴェニュス」が防材の間をかろうじて抜け出たが、プロペラの1枚が鋼線に引っかかって動けなくなり、続いてきた大型の「カサビアンカ」に助けられて、ともに港外に出た。
次に「ヴェニュス」の横に停泊していた航洋潜水艦「ル・グロリュー」は、出港準備に手間がかかり、やむを得ず後退しながら波止場を離れた。
ドイツ兵が駆けつけ、「ル・グロリュー」に小銃を構えた。
艦長は次々と出港命令を下しながら、ピストルで応戦した。
「ル・グロリュー」も防材を抜けていった。
このころには、ドイツ機がフランス艦隊の頭上を旋回し、潜水艦「カサビアンカ」の後方に爆弾を投じ、水柱を立ち上らせた。
さらに2発が「ヴェニュス」の艦橋を横切って不発弾となり、艦を揺れ動かした。
艦長は「ヴェニュス」を自沈させようと決心し、15秒以内に転覆してしまった。
一番北側の埠頭にいた中型潜水艦「イリス」と「ル・グロリュー」は、出港が遅かったためにひどく爆撃され、潜没してからやっと乗組員は一息つくことができた。
かくして脱出した4隻は、艦長個人の発意で目的地を選ぶよりほかなかった。
「ル・グロリュー」は、北アフリカのオランに投錨した。
闘志に満ちた「カサビアンカ」は、戦闘準備を整えてツーロン沖をしばしパトロールしてから、潜水艦「マルスーアン」と同様アルジェに入港した。
潜水艦「イリス」は、2日後、中立国スペインのバルセロナに入港したが、国際法の規定により武装解除された。
潜水艦が脱出した午前5時20分、歩哨に立った憲兵から、旗艦「ストラスブール」に電話が入った。
「ドイツ軍は既に協定に違反し、境界線を突破中なり。波止場に向かう」
ド・ラボルデ大将は、「やったな」と唇を噛み締めた。
もはやボイラーに火を投じ出港準備をしているような暇はない。
しかも将兵の一部は市街に上陸していた。
戦艦「ストラス・ブール」は、重機関銃でドイツ戦車に攻撃をかけた。
しかし、すぐに射撃中止の命令が出た。
旗艦である「ストラス・ブール」のマストにある信号灯が点滅し、命令を繰り返した。
「全艦隊、自沈せよ、自沈せよ!」
ドイツ軍に艦を取られるくらいなら自沈しろというのである。
旗艦「ストラスブール」は港の最も西端の埠頭にあったが、70隻近い艦艇は、入り組んだ水道を経て、遠く北に広がる港内に散在しているため、その判断に迷う艦艇もあった。
「自沈せよ」と言っても、火薬庫に火をつけて爆発させるのか、艦艇の栓を開けて沈没させればよいのか、あるいは火災を発生させればよいのか。
「ストラスブール」の左舷には、重巡洋艦「コルベール」が停泊していた。
炎上し傾きかけた「コルベール」の艦尾から乗組員たちが岸辺に降りたころ、ドイツ兵が岸に現われた。
「ストラスブール」と「コルベール」の乗組員は、全艦隊の中で最も反ナチ的であったが、武器を持たぬ彼らがドイツ兵に罵倒の言葉を浴びせた瞬間、「ストラスブール」が大爆発を起こし、辺りを地震のように揺れ動かした。
「コルベール」の左舷にあった第1巡洋艦隊旗艦の重巡「アルジェリー」においても、乗組員が軍艦旗に最後の敬礼を終え、艦を降りた。
第1巡洋艦隊司令官に、ドイツ連絡将校が走り寄った。
「我々は貴官の艦を捕獲します」
「もう遅いです。転覆しますよ」
「仕掛けた爆薬は、すぐ爆発しますか」
「いや」
「それでは乗ってみましょう。貴官も御一緒にどうぞ」
このとき、「アルジェリー」から火柱が上がった。
旗艦「ストラスブール」の艦載水雷艇は、燃える水路を横切り、最も北の泊地に錨を下ろしている軽巡洋艦へ急行した。
司令官署名入りの命令文をこの艇が持って回ったのは、ドイツ軍のために電話線が切断されたためであった。
やや東方にあった水上機母艦「コマンダン・テスト」は、逃走する5隻の潜水艦を見たので、直ちに戦闘準備を命じ、泊地に飛来した最初のドイツ機に対して高角砲の火蓋を切った。
艦隊の頭上に現われた敵機が、イギリス機でもアメリカ機でもなく、黒十字をつけていたのに、フランス将兵は驚いた。
機関兵もいない状態であったため、艦長は「コマンダン・テスト」を自沈させようと決心した。
近寄ったドイツ兵は、艦長の名前を手帳に控えながら、「もし自沈させたら、銃殺すると言い残して走って行った。
各艦は皆、艦底の弁を開けた。
重油の流れ出した港内は、火炎と黒煙に包まれた。
ドイツ栓車隊が埠頭に侵入したときには、75隻のフランス艦艇は、ことごとく火災を発生したり、転覆したりしており、辺り一面は黒煙の地獄と化していた。
時折、爆発音が聞こえてくる。
かくして、戦艦3、巡洋艦5、特型駆逐艦16、駆逐艦3、潜水艦15、スループ6、その他13、フランス地中海艦隊の67隻は、枕を並べて自沈した。
次々と爆発を起こしていく艦艇に対し、将兵たちは涙に濡れた目で最後の敬礼を行なった。
水兵たちの歌うフランス国歌、ラ・マルセイエーズが流れる。
「愛国の士よ。いざ立て。栄光の日来たりぬ・・・」
自沈したとはいえ、損傷の小さい艦艇は引き揚げ後、修理を行えば十分に使用できるものがあった。
11月30日、ドイツはツーロン港の管理をイタリアに委任し、修理可能の艦艇のうち、約3分の2をイタリアに引き渡す協定がなされた。
イタリア海軍に接収されたものは次のとおり。
軽巡洋艦「ジャン・ド・ヴィエンヌ」「ラ・ガリソニエール」
駆逐艦「リヨン」「パンテレ」「ティグール」「ヴァルミイ」「ル・フリビュステュール」「カスク」「フードロイヤン」「ランスクネ」「ル・アルディ」「シロッコ」「トロムベ」
スループ「シャモア」「ラ・キュリュウーズ」
潜水艦「アンリー・ポワンカレー」
ドイツ海軍に接収されたものは次のとおり。
駆逐艦「ランドムプタブル」
水雷艇「バリステ」「ラ・バイヨネーズ」
スループ「アミラル・セネ」「エラン」「エンセーニュ・バランド」「マテロー・ルブラン」「ラゴー・ド・ラトゥーシュ」
掃海艇「グラント」
チュニジアのビゼルトでもフランス艦隊の自沈が予想されたため、12月8日、ドイツ軍はここを占領した。
Sボート部隊も派遣され、潜水艦9隻、小艦艇5隻を含む20隻が捕獲された。
12月8日、水雷艇「リフィジェニ」「ボンバルド」、一等潜水艦「ルカン」、二等潜水艦「シルセ」、機雷敷設潜水艦「サフィール」は、ビゼルトでイタリアに接収され、それぞれ「FR.43」「FR.41」「FR.113」「FR.117」「FR.112」と改名した。
その後、ツーロンは地中海におけるUボートの基地となったため、1944年8月6日、アメリカ陸軍中爆撃隊が大爆撃を実施し、Uボート数隻などを撃沈した。
その9日後、連合軍はツーロン付近に大挙上陸作戦(「大鎚」)作戦を敢行したが、その際、ドイツ陸軍は、自沈したフランス新戦艦「ダンケルク」の33�冕づ磴琉譴弔鮖藩僂靴同�戦した。
合計85隻
戦艦3「ストラスブール」「ダンケルク」「プロヴァンス」
重巡洋艦4「アルジェリー」「デュプレ」「フォッシュ」「コルベール」
軽巡洋艦3「マルセイエーズ」「ジャン・ド・ヴィエンヌ」「ラ・ガリソニエール」
大型駆逐艦17
モガドル級「ヴォルタ」
ル・ファンタスク級「ランドムプタブル」
ヴォークラン級「ヴォークラン」「ケルサン」「カッサール」「タルチェ」
エーグル級「エーグル」「ヴォートール」「ゲルフォー」
ゲパール級「ゲパール」「リヨン」「ヴォーバン」「ヴェルダン」「ヴァルミイ」
シャカル級「パンテレ」「ランクス」「ティグール」
駆逐艦12
ル・アルディ級「ル・アルディ」「フードロイヤン�供廖屮泪爛螢絅�」「カスク」「シクロン�供廖屮咼愁鶚供�
ラドロア級「ラドロワ」「ル・マルス」「ラ・パルム」「ブールドレイ」
ブーラスク級「シロッコ」「トロムベ」
水雷艇3「バリステ」「ラ・バイヨネーズ」「ラ・プールシュヴィアンテ」
一等潜水艦11
ルドゥタブル級「ルドウタブル」「ヴァンジュール」「パスカル」「フレスネル」「アンリー・ポワンカレー」「アケロン」「レスポワール」「ル・グロリュー」「カサビアンカ」
ルカン級「カイマン」「マルスーアン」
二等潜水艦8
オーロール級「オーロール」
ミネルブ級「ヴェニュス」「イリス」
アリアーヌ級「ウーリディス」
シレーヌ級「シレーヌ」「ナイアド」「ガラテエ」
シルセ級「テティス」
機雷敷設潜水艦1
サフィール級「デアマン」
水上機母艦1「コマンダン・テスト」
設網艦1「グラディアテュール」
運送艦4「オード」「シャムプラン」「アメラン」「ゴロ」
給油艦3「デュランス」「ランス」「ラ・アヴレイズ」
スループ11「ダベルヴィユ」「ラムペテューズ」「ラ・キュリウーズ」「シャモワ」「イゼール」「デデニューズ」「アミラル・セネ」「エラン」「エンセーニュ・バランド」「マテロー・ルブラン」「ラゴー・ド・ラトゥーシュ」
哨戒艇3「L・エパルジ」「ラ・ポノワズラ・アヴレイズ」「フォーヴェット2世」
駆潜艇3「1号」「4号」「25号」
掃海艇1「グラント」
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≪フ巡史≫
1942年11月、軽巡洋艦「モンカルム」は、自由フランス軍に参加した。
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≪フ巡史≫≪2次フ≫
1942年末(初頭とも)、サイゴンにあった軽巡「ラモット・ピケ」は日本軍に武装解除されて解役し、一部の機銃を陸揚げして現地人水兵の係留練習艦となった。
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ツーロンで自沈していた大型駆逐艦「パンテール」は、1943年3月、イタリアにより浮揚、ラ・スペチアに曳航され、「FR.22」と命名された。
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≪2次フ≫
ツーロンで自沈した設網艦「ル・グラディヤトゥール」は、浮揚後、1943年3月末、連合軍機の爆撃により沈没した。
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≪フ巡史≫
かつてのX部隊の一部は、ヴィシー・フランスの講和後からアレクサンドリアに抑留されていたが、1943年5月、アルジェー政府の艦隊と合同することになり、戦艦「ロレーヌ」、重巡「デュケーヌ」「トゥールヴィル」「シュフラン」、軽巡洋艦「デュゲイ・トルーアン」は、アフリカ南端を回ってダカールに廻航された。
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≪カラ世界≫
1943年5月13日、ドイツのアフリカ軍団が降伏した。
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≪2次フ≫
1943年5月、二等潜水艦「FR.117(前名シルセ)」は、ビゼルト港で自沈した。
1943年5月、敷設艦「FR.60(前名カストロール)」は、ビゼルト港で自沈した。
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≪2次フ≫
1943年5月27日、自由フランス海軍の大型駆逐艦「レオパール」は、トブルク付近で座礁して全損となり放棄された。
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≪フ巡史≫≪2次フ≫
アルジェー政府がアフリカ植民地に分散する艦艇を支配下に置くようになると、ド・ゴール将軍指揮下の自由フランス海軍との関係が問題となってきた。
自由フランス海軍は小艦艇で構成され、勢力的にも小規模であった。
人脈的には主流を占めるアルジェー政府側は、自由フランス海軍の下風に立つことを潔しとしなかった。
連合軍は、アルジェー政府の有力な艦隊を戦列に復帰させ、活用するため、ド・ゴール将軍に圧力をかけた。
1943年6月、アルジェー政府代表のジロー大将とド・ゴール将軍が会談し、自由フランス海軍をアルジェー政府の指揮下に置くようにすると同時に、全フランス艦艇は連合軍側に立って参戦することになった。
7月、統一されたフランス艦艇は、戦艦3隻、空母1隻、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦13隻、潜水艦19隻、通報艦以下の小艦艇95隻から成っていた。
在アフリカの艦艇は、長期にわたって動かなかった状態にあり、またアフリカではろくな整備もできなかったため保守も不良であったので、戦闘に参加するには大規模な補修が必要であった。
特に対空兵装の更新やレーダーの装備は不可欠とされ、多くの艦艇がアメリカの造船所に送られて改装された。
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≪フ巡史≫
1943年6月、練習巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」は、自由フランス軍に参加した。
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≪フ巡史≫≪幻母艦≫
仏領アンティル諸島のマルティニク島には、空母「ベアルン」、敷設巡洋艦「エミール・ベルタン」、練習巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」が在泊していた。
司令官ジョルジュ・ロベール(George Robert)大将は、アンティル諸島の高等弁務官を兼ねていた。
連合軍の北アフリカ上陸後は、島内に反枢軸の空気が広がったが、ロベール大将はあいまいな政治姿勢をとっていた。
かねてよりロベール大将の姿勢に不満を持っていたアルジェー政府は、1943年7月、新しい高等弁務官をマルチニク島に送り込み、ロベール大将は島の行政権を引き渡したため、在泊艦艇もアルジェー政権の手に移った。
この時以降「ベアルン」は、連合軍の一員として活動していた自由フランス海軍の乗組員の手によって運航されることになった。
「ベアルン」はその直後、アメリカで航空機輸送艦としての改造工事を受け、以後アメリカとイギリス本島との間の航空機運搬に使用された。
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≪2次フ≫
ツーロンで自沈した駆逐艦「ル・アルディ」は、イタリアによって浮揚され「FR.37」と改名、1943年9月、ジェノアに曳航された。
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≪2次フ≫
潜水艦「FR.113(前名ルカン)」はジェノアに曳航され、1943年9月、ドイツ軍の進駐に及んで自沈したが、浮揚されて後に解体された。
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≪2次フ≫
大型駆逐艦「FR.22(前名パンテール)」は、1943年9月9日、イタリア降伏に伴いラ・スペチア港で自沈した。
ツーロンで自沈した大型駆逐艦「リオン」は、1943年にイタリアによって引き揚げられ「FR.21」と命名されたが、イタリアの降伏に伴い、9月9日、ラ・スペチアで自沈した。
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≪2次フ≫
水雷艇「FR.43(前名リフィジェニ)」は、イタリアの降伏に伴ってドイツに引渡されて「TA.11」と改められたが、1943年9月10日、イタリア西岸ピオンビーノ沖で伊魚雷艇などと交戦し沈没した。
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≪2次フ≫
1943年秋、フランス軍単独でコルシカ島解放作戦を実施した。
練習巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」以下軽巡2隻、大型駆逐艦2隻、駆逐艦2隻、潜水艦3隻が参加してドイツ軍を駆逐し、10月4日、コルシカ島を解放した。
「ジャンヌ・ダルク」は、この際に、同島への陸兵輸送を行なった。
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≪2次フ≫
軽巡洋艦「ラ・ガリソニエール」は、ツーロンで自沈後、イタリア海軍が引き揚げ、「FR.12」と命名して保管していたが、1943年11月に連合軍の爆撃を受けた。
軽巡洋艦「ジャン・ド・ヴィエンヌ」は、イタリア海軍が引き揚げ「FR.11」と命名されたが、1943年9月9日、イタリアの降伏に伴いイタリアの手を離れ、ドイツの了解の下にフランスが保管していたが、11月24日、連合軍の爆撃によりドック内で転覆、破壊された。
ツーロンで自沈した大型駆逐艦「エーグル」は、1943年一旦浮揚されたが、11月24日、連合軍の爆撃を受けて沈没した。
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≪2次フ≫
1944年1月末、イギリス海軍は、1943年にイタリアから捕獲した潜水艦「P.714(前名ブロンツォ)」をフランスに引渡し、二等潜水艦「ナルヴァル」と命名された。
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≪2次フ≫
1944年2月、測量艇「アストロラーブ」は、仏印でアメリカ軍機の攻撃を受けて沈没した。
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≪2次フ≫
ツーロンで自沈した大型駆逐艦「ゲパール」、一等潜水艦「ルドゥタブル」は、一旦浮揚されたが、1944年3月11日、連合軍の爆撃により沈没した。
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≪2次フ≫
ツーロンで自沈した駆逐艦「カスク」は、1944年4月、連合軍機による空襲で損傷し、のち解体された。
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≪世界の軍艦≫≪フ戦史≫≪2次フ≫
1943年秋、新型戦艦「リシュリュー」は、アメリカのニューヨーク海軍工廠で損傷復旧工事と残工事を終えた。
主砲身は、カサブランカ在泊の「ジャン・バール」から持ってきた分を含め、内径を1�从錣辰�38.1cm、15インチとしてイギリス製砲弾を搭載した。
「リシュリュー」は、イギリス極東艦隊に加わり、1944年4月、対日戦のためにインド洋へ向かい、セイロン島からビルマ作戦やアンダマン海の諸作戦などに参加した。
スマトラ島のサバンには、日本の第1南遣船隊の第49根拠地があった。
「リシュリュー」は、ここを1944年7月に砲撃した。
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≪2次フ≫≪カラ世界≫
1944年6月6日に行なわれた連合軍によるノルマンディ上陸作戦(オーヴァーロード作戦)には、軽巡洋艦「モンカルム」「ジョルジュ・レイグ」と駆逐艦以下が参加した。
巡洋艦はオマハ海岸を砲撃して上陸を支援したが、上陸した「モンカルム」艦長を待っていたのは歓迎の辞ではなく、砲撃により牛が死んだという村長の苦情であった。
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≪2次フ≫
ツーロンで自沈した二等潜水艦「ガラテ」「シレーヌ」はイタリアによって引き揚げられたが、1944年6月、連合軍の爆撃を受けて沈没した
1944年6月、運送艦「ガロンヌ」は、ツーロン港を閉塞するため沈められた。
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≪2次フ≫
ツーロンで自沈した駆逐艦「マムリュク」は、その後浮揚されたが、1944年6月8日、連合軍の爆撃により大破し、そのまま放棄された。
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≪2次フ≫
二等潜水艦「ウーリディス」は、ツーロンで自沈した後、一旦引き揚げられたが、1944年6月22日、連合軍機の爆撃によりツーロン港沖で沈没した。
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≪2次フ≫
1944年8月、練習巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」は、シェルブールに仏臨時政府要員を輸送した。
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≪2次フ≫
一時浮揚された「ストラスブール」は、1944年8月、米軍機のB25の攻撃を受け、再び着底した。
1944年8月、軽巡洋艦「FR.12(前名ラ・ガリソニエール)」は連合軍のB25の爆撃により沈没した。
ツーロンで自沈した駆潜艇「CH-1」は、1944年8月、連合軍の爆撃を受け沈没した。
水雷艇「FR.41(前名ボンバルド)」は、ドイツに引渡されて「TA.9」と改められたが、1944年8月23日、ツーロンに在泊中、連合軍機の爆撃により沈没した。
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≪2次フ≫≪フ戦史≫≪カラ世界≫
1944年8月15日、連合軍は南フランスのプロヴァンス上陸作戦(アンヴィル・ドラグーン作戦)を行なったが、この作戦にフランス海軍は50隻が参加した。
戦艦「ロレーヌ」は、軽巡洋艦「グロアール」「モンカルム」「ジョルジュ・レイグ」「デュゲイ・トルーアン」以下の巡洋艦8隻とともに陸上支援射撃を行なった。
8月28日、フランス部隊のツーロンに対する陸上作戦は終了し、またマルセイユもフランス部隊によって占領された。
1944年8月、特設巡洋艦「ケルシィ」は、連合軍の南フランス上陸後、ツーロン港にフランス艦として最初に入港した。
9月13日、50mの大ペナントを檣頭に掲げたフランス艦隊がツーロン港に入港した。
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≪2次フ≫
10月に、地中海でフランク部隊が編成された。
この部隊には、通例、フランスの巡洋艦4〜5隻、駆逐艦6隻と小艦艇多数が加わっており、南仏沿岸、ジェノヴァ湾などの哨戒、砲撃、機雷処分などに活躍した。
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≪2次フ≫
アメリカの掃海艇「YM-78」はフランスに引渡されて「D-318」と命名されたが、1944年10月、触雷沈没した。
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≪フ戦史≫≪2次フ≫
1944年12月、戦艦「ロレーヌ」と重巡洋艦「デュケーヌ」を基幹としてフランス海軍機動部隊が編成され、ドイツ軍に占領された港湾の攻撃を行なった。
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≪世界の軍艦≫
1945年1月12日、係留練習艦「ラモット・ピケ」は、日本艦と間違えられサイゴンでアメリカ第38機動部隊の空母艦上機の爆撃を受けて沈没した。
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≪2次フ≫
1945年3月9日、河用砲艦「フランシス・ガルニエ」は、メコン河で日本軍の攻撃を受け、自沈した。
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通報艦「アミラル・シャルネ」は、仏印を脱出してフィリピンに向かうところを日本軍に攻撃され、1945年3月10日、自沈した。
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≪2次フ≫
1945年4月、英海軍は護衛空母「バイター」(Biter)をフランス海軍に引渡した。
アメリカは商船をベースとした護衛空母を英海軍に貸与したが、「バイター」は、これらのうち最初の「アーチャー」(Archer)級4隻に属する1隻である。
フランス海軍は、「バイター」を「ディズミュド」(Dixmude)と命名し、航空機輸送に使用した。
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≪2次フ≫
4月24日、駆逐艦「ランスクネー」と駆潜艇112号、122号が、魚雷艇6隻を撃沈した。
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≪世界の軍艦≫≪撃沈�窟笄�2次フ≫
イギリス極東艦隊には、戦艦「クイーン・エリザベス」(旗艦)「リシュリュー」(フランス海軍籍)、重巡「カンバーランド」、軽巡「ロイアリスト」「トロンプ」(オランダ海軍籍)、護衛空母「ハンター」「ケーダイブ」「シァー」「エンペラー」と、第26駆逐隊の駆逐艦「ソマレズ」「ベルラム」「ビジラント」「ビーナス」「ビラーゴ」ほか計8隻があり、これらはウォーカー少将に率いられて第61部隊と呼ばれていた。
1945年5月、第61部隊は、日本の小船団狩りやマレー半島の航空写真撮影支援のため、セイロン島コロンボを出港した。
「リシュリュー」は、アンダマン諸島へ向かっていた重巡「羽黒」を捕捉しようとしたが、「羽黒」はイギリス駆逐艦に撃沈されたので、「リシュリュー」は修理のためダーバンへ向かった。
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≪世界の軍艦≫
重巡洋艦「デュケーヌ」「トゥールビル」の2隻は、ドイツ降伏直前、フランス領内のドイツ小要塞に50口径20.3�冕い隆亘ぜ遊發鮃圓辰拭�
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≪2次フ≫
「リシュリュー」が対日戦線復帰のためインド洋を東進中、戦争は終わった。