風船爆弾(驚異の「ふ」号兵器作戦)
攻撃の開始は昭和19年11月3日の”明治節”を期して行われることとなった。
その日午前3時頃から、各基地部隊は放球の準備にかかった。
陸軍省、参謀本部その他の関係者も発射陣地に集まった。
午前5時、茨城県大津、福島県勿来、千葉県一宮の3地区の42の放球点からの一斉放球である。
昭和19年11月に始まった「ふ」号攻撃は、最初のうちは不慣れもあって、発射数も少なかったが、最も多くあげたのは昭和20年3月で、一日150個以上になった。
ところが3月のある日、4月以降の攻撃中止の命令が出た。
内地空襲が激しくなり、気球関係の工場も次々に破壊され、気球攻撃どころではないと判断されてしまったのである。
こうして5カ月間に総数約9000個の攻撃で、この作戦は終止符を打った。
戦後、アメリカ西海岸防衛参謀長ウイルバー代将は、次のように述べている。
「200個近くがほぼ完全な状態で発見され、75個の破片が別の地域で拾われた。また空中に発した閃光で、少なくとも100個の風船が上空で爆発したことを、人々が観測している。内輪に見積もっても900個から1000個の気球はアメリカ大陸に到着している」
だが、雪が多く火事の起こりにくい冬期であったため、実質効果は小さく、またアメリカ当局の防諜処置が適切で完全に報道が禁止されたため、宣伝効果もほとんどなかった。
もし諜報各機関によってより正確な到達数や戦果が確認できれば、陸軍指導部もさらなる「ふ」攻撃の強化を推進し、アメリカ指導部や国民に対して厭戦ムードを盛り立て、また対抗措置に手間取らせることも可能であったと思われる。
そして、アメリカのみならず同盟国であるイギリスやソ連などにも大きな政治的な影響を与えたであろうことは想像に難くない。
風船爆弾は、こんにゃくと和紙を使った陸軍式とゴム風船式の海軍のものがあり、制作の現場の技術者の間では意見の交換があった。