「法橋上人位」の略。僧位の第三位。法印大和尚位・法眼和上位に次ぐ。僧綱の律師に相当し、五位に準ぜられた。
一揆勢は、富田勢との決戦に備え、天正二年正月下旬、加賀より、七里三河守法橋頼周を招き、一揆の総大将とした。
頼周は近江七里の出身で、本願寺の青侍となった。
さらに元亀二年尾山に来て、本願寺尾山坊の坊官となった。
加賀一揆勢中、主戦派の中心人物であった。
頼周は越前に来て、長崎称念寺に陣取った。
のち豊原寺に移った。
一揆勢は、黒坂兄弟や一族の者などの首を、豊原寺の七里頼周のところへ持参した。
七里頼周は、命令もしないのに一揆が勝手に武士を殺すことは言語道断のことである、と怒り、首を持参した者を即座に殺害した。
同じ二月上旬のころ、富田長秀討伐のため、七里頼周指揮のもとに、大軍が北ノ庄に押寄せた。
翌十四日には、大将七里頼周の指揮のもとに、一揆勢は府中近辺へ押し寄せ、方々に陣取った。
金津溝江の溝江大炊允長逸(おおいのすけながやす)ら溝江一族は、一揆勢に襲撃されることを恐れ、長逸の子の春学侍者を本願寺坊官の下間筑後守法橋頼照・尾山坊官杉浦壱岐法橋玄任の両大将のもとへ人質に出しておいた。
二月十六日には、加賀より杉浦玄任が来越した。
総持寺に入り、溝江氏と一揆との和平の調停を行うこととなった。
二月十九日の溝江氏滅亡後、杉浦玄任は坂井郡御簾尾村の竜沢寺に陣営を移した。
ここに富田長秀の首が、粗末な籠に入れ届けられた。
杉浦玄任が首実検をした。
二月下旬、平泉寺攻撃のため、杉浦玄任が大将となり、下間和泉法橋頼俊・本覚寺・専授時・超勝寺・照厳寺そのほかの坊主らや国中の一揆が、大野郷へ押し寄せた。
攻撃軍の布陣としては、まず大将の杉浦玄任は荒川興行寺に陣取った。
大将杉浦玄任は、逃げる一揆を叱咤し斬ったので、漸く一揆勢は踏み止まった。
越前一向一揆は、さらに天正二年五月下旬、丹生郡織田村の朝倉兵庫助景綱の城砦を攻撃した。
大将七里頼周・本覚寺をはじめ、大坊主らが一揆を率い、朝倉景綱の城へ押し寄せ、包囲攻撃した。
そのあと、木ノ芽城観音丸には、大将の下間頼照勢が守った。
火燧城には超勝寺が、湯尾城には七里頼周がたてこもった。
本願寺は、下間ら本願寺の坊官を、越前の支配者として任命し、本願寺の領国としようとはかった。
まず下間頼照を越前の守護に任じた。
加賀の支配を兼ねさせるため、加賀寄りの坂北郡を知行させ、豊原寺に居らせた。
足羽郡司には、頼照の嫡子の下間和泉守を任命、北の庄においた。
杉浦壱岐を大野郡司とし、一乗谷に住まわせた。
七里三河法橋頼周に府中あたりを支配させ、湯尾城の守備をも担当させた。
この方面の海岸地帯に、城郭を構えるため、大将下間筑後法橋が豊原寺より下向し、三国湊の児島太郎次郎の家に居た。
これに対し、一揆側の布陣としては、下間筑後法橋が総大将となり、大坊主たちが、各要害の責任者となった。
木ノ芽峠・杉津口で防ごうとし、国中の門徒へ、この方面の陣営に早急に参加するよう触れ廻った。
まず木ノ芽峠の城砦には、和田本覚寺・石田西光寺やそのほか諸坊主ら三千余騎がこもった。
鉢伏城には、杉浦壱岐法橋・専修寺・真宗寺、そのほか阿波賀三郎兄弟や越前一揆ら二千五百余騎で防いだ。