永正17年(1520)〜文禄2年(1593)8月5日
彦右衛門、大蔵卿法印。昨夢斎と号す。もとは武士の出で実名は兼員(かねかず)。
和泉堺の商人として、納屋業を営むほか、火薬・鉄炮の生産にも関わる。
その一方、堺の豪商武野紹鴎(たけのじょうおう)に茶湯を習い、その娘婿となって、茶人としても大成した。
そして、茶湯を介して、実力者三好実休(長慶の弟)や松永久秀と親交を結び、彼らを利用して政商として活躍した。
納屋衆の今井宗久は、永禄11年(1568)の信長入京の翌月に、自家秘蔵の名物「松島の壺」と「紹鴎の茄子」を献上して信長に服従の意志を示した。
ちょうどこの頃、紹鴎の嫡子新五郎(宗瓦(そうが))と、紹鴎の遺産を巡る争いを起こしており、この年12月に信長の裁判により、全面的に勝訴となった。
永禄12年(1569)、信長が堺に矢銭二万貫を賦課したのに対し、堺の会合衆が抗戦を唱えたとき、これを説得して戦いを回避した。
その功により、二千二百石の地を与えられた。
そのほか、摂津の地の代官、但馬銀山への使者を務めるなど、信長に重用されている。
津田宗及(そうぎゅう)・千宗易(利休)らとともに、信長に仕えた。
彼らは茶人としても有名である。
こうして堺衆が信長の茶会にも招かれるようになり、千宗易は宗久の推薦で茶道者として仕えることになった。
反信長派が比較的多い堺商人の中で、宗久は早くから親信長派に踏み切って、何かと信長の天下統一に協力した。
宗久は、弘治から永禄年間にかけて、しばしば茶会を開き、津田宗及らの豪商をその席に招いている。
宗久は茶会を商談に使って商人たちをまとめ、信長の統一事業を助けたといってもよいだろう。
元亀元年(1570)5月、信長が浅井・朝倉の連合軍を近江に征討するに先立ち、部将の秀吉が、大至急鉄炮火薬の上質のもの三十斤、煙硝三十斤の送達を宗久(昨夢斎)に依頼してきた。
天正10年(1582)5月29日、徳川家康は穴山梅雪とともに堺に着き、6月1日は朝会を今井宗久、昼は天王寺屋宗及(そうぎゅう)、晩は宮内法印松井有閑と茶会ずくめで、有閑のもとではその後幸若の舞があり、酒宴となった。
信長の死後、秀吉に仕え、千利休・津田宗及と並んで茶頭(さどう)として重んじられた。
【家臣団、歴史11、12】