イタリア戦艦の魅力は?と問われれば、特に新戦艦は「力強さを兼ね備えた優美さ」にある、と答えるだろう。
 新戦艦の主砲は、当初406ミリとする予定であったが、当時のイタリアでは製造できず50口径381ミリとなった。
 「ヴィットリオ・ヴェネト」は1940年4月に竣工、1948年に除籍解体された。
 「リットリオ」(後に「イタリア」と改名)は1940年5月に竣工、1948年に除籍解体された。
 3番艦「ローマ」は1943年6月竣工、イタリア降伏後の9月9日、コルシカ島西方でドイツ空軍のグライダー爆弾により撃沈された。
 4番艦「インペロ」は1943年11月進水したが、工事中止となり戦後解体された。
 航空母艦「アキュイラ」は、1941年に着工した客船ロマを改名、休戦時にはほぼ完成状態にあった。
 駆逐艦「ナヴィガトリ(航海者)」級12隻(うち11隻沈没)
 「ジョヴァンニ・ディ・ヴァラツァーノ」「ルカ・タリゴ」ほか
 駆逐艦「フォルゴーレ」級4隻(全艦沈没)
 「フォルゴーレ」「バレーノ」「フルミーネ」「ランポ」

(事典)

 1940年6月10日、イタリアはドイツ側に立って参戦した。

イタリア艦隊の編成(開戦時)
 第1艦隊(タラント)イニゴ・カンピオニ大将
  「コンティ・ディ・カヴール」「カイオ・ジュリオ・チェザレ」
  第1戦隊「ザラ」「フィウメ」「ゴリズィア」
  第8戦隊「ルイジ・ディ・サヴォイア・デュカ・デグリ・アブルッツィ」「ジュゼッペ・ガリバルディ」
  第4戦隊「アルマンド・ディアス」「アルベルト・ディ・ギュッサノ」「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」
  第7、8、14、15、16駆逐隊(各駆逐艦4)

 第2艦隊(ナポリ)アンジェロ・イアチノ中将
  第2戦隊「レイモンド・モンテクッコリ」「バルトロメオ・コレオニ」
  第7戦隊「エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ」「ムツィオ・アッテンドロ」
  第12駆逐隊(駆逐艦4)

(ブリンディシ)
 駆逐艦2

在シチリア部隊(アウグスタ、メッシナ)
 第3戦隊「ボルザノ」「ポラ」「トレント」「トリエステ」
 第6戦隊「アルベリコ・ダ・バルビアノ」「ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレ」「ルイジ・カドルナ」
 第9、10、11、12駆逐隊(各駆逐艦4)

在リビア部隊(トブルク)
 第1、第2駆逐隊(各駆逐艦4)

紅海派遣部隊(マッサウ)
 第3駆逐隊(駆逐艦4)、第5駆逐隊(駆逐艦3)

エーゲ海のレロス島
 第4駆逐隊(駆逐艦2)

(空母)(撃沈V)

 1940年7月5日夕刻、空母「イーグル」のソードフィシュ雷撃隊はエジプトのイギリス空軍基地を発進した。
 かれらはイタリア植民地リビアの地中海沿岸のトブルク港において、イタリア駆逐艦「ゼフィロ」と、4000トンの輸送船「マンゾニ」を撃沈し、さらに駆逐艦「ユーロ」と15000トンの客船「リグニア」に損害を与えた。

(名艦)(ガイド)(空母)(事典)
●カラブリア岬沖海戦(伊側呼称プンタ・スティロ海戦)
 1940年7月7日、イギリス海軍の地中海艦隊司令長官で海軍大将のアンドリュー・B・カンニンガム卿は、艦隊をひきいてアレクサンドリアを出港した。
 これは、シチリア島の南にある英領マルタ島から地中海を横断してアレキサンドリアへ向かう2船団の航行を援護するのが目的だった。
 この出撃は、イタリア艦隊がリビアへ向かう1船団を援護するために出撃したのと同時であった。
 イタリア側は、艦隊司令長官イニゴ・カンピオニ大将が指揮した。
 両軍兵力は以下のとおり。
 イタリア海軍
  戦艦:「コンテ・ディ・カブール」「カイオ・ジュリオ・チェザーレ」
  重巡:第1戦隊「ザラ」「ゴリズィア」「フィウメ」第3戦隊「ボルザノ」「ポーラ」「トレント」
  軽巡:12隻
  駆逐艦:16隻
 イギリス海軍
  空母:「イーグル」
  戦艦:「ウォースパイト」(旗艦)「マラヤ」「ロイヤル・ソヴェレイン」
  軽巡:「ネプチューン」neptju:n「グロスター」glaster以下5隻
  駆逐艦:16(6?)隻
 双方の艦隊司令官は、潜水艦と飛行機の偵察によって、たがいに相手の行動を知っていた。
 カニンガム大将はイタリア艦隊をタラント港から遮断する航路をとった。
 イタリア軍のカンピオニ大将の方は、誘導戦術をとり、イギリス艦隊を味方の潜水艦散開線と陸上基地爆撃機の攻撃有効圏内に誘いこもうと計画した。
 (中略)
 7月9日早暁、対潜捜索機が発進し、まもなくイタリア南部のカラブリア州のスパルティヴェント岬沖でベンガジ行き船団の護衛任務から帰還中のイタリアの大艦隊を発見した。
 マルタから飛んだサンダーランド飛行艇も、これを発見した。
 11時45分までに、英伊両艦隊は160キロ以内に接近し、「イーグル」からソードフィッシュ9機からなる雷撃隊が発進した。
 イタリア艦隊が大きく針路を変えたため、触接していたサンダーランド飛行艇は、目標を見失った。
 1330時(午後1時?)、航空魚雷攻撃は、イタリア巡洋艦戦隊の最後尾艦にむけられた。
 イタリア側は砲火を浴びせたが効果はなく、経験のないパイロットも効果のない雷撃をし、1発も命中しなかった。
 飛行機は午後2時34分、「イーグル」に着艦し、いそいで雷装をほどこし、給油をした。
 午後3時45分、再び発艦して攻撃に向かった。
 この間に、両軍の巡洋艦部隊は接近し、午後3時に両艦隊は相互に確認して1515時にまず巡洋艦同士の大距離砲撃戦を開始したが、双方とも効果はあげられなかった。
 雷撃隊が発艦してから3分後に、イギリス艦隊旗艦「ウォースパイト」はイタリアの戦艦部隊を発見した。
 同艦は速力の出ない他の2戦艦を後方に残して急行してきたものであった。
 午後3時53分には「ウォースパイト」が26000メートルの距離から、カンピオニ大将の旗艦「カイオ・ジュリオ・チェザーレ」に向かって砲撃が開始された。
 イタリア戦艦2隻も、すぐに砲撃を始めた。
 午後4時に、「ウォースパイト」の発射した38センチ主砲の1弾は、イタリアの旗艦「カイオ・ジュリオ・チェザーレ」の煙突底部に命中した。
 下甲板に広がった火災によって、ボイラーの一部の火を消さざるをえなくなり、艦の速力は18ノット(約32キロ)に落ちた。
 カンピオニ大将は、撤退を決意し、直ちに戦闘をやめ、大がかりな煙幕を展張しながら、イタリアへむけて針路を変えた。
 ソードフィッシュ編隊を率いるデベナム少佐は、煙幕の中から2隻の大型艦が巡洋艦列の先頭となって現れたところを発見した。
 デベナム少佐は、これらを戦艦とみて攻撃を加えた。
 しかし、それが、20センチ砲を搭載した重巡であることがわかったのは、すでに攻撃行動に入ってからのことだった。
 これらの重巡は、第3戦隊の「トレント」と「ボルザノ」であった。
 2隻の重巡は、2度にわたる猛烈ではあるが効果のない砲火に遭遇し、そのうえ濃い煙に悩まされたが、1本の魚雷も命中しなかった。
 ただし、巡洋艦戦では重巡「ボルザノ」が中口径弾3発の命中を受けて小破していた。
 イタリア軍爆撃機が、午後4時40分に現れ、その後、3時間にわたって、激しい連続爆撃をつづけた。
 しかし、全艦とも1発の命中弾も受けなかった。
 イタリア軍の爆撃機隊は自国の艦隊に対しても、2時間にわたって、激しい爆撃を加えた。
 イタリア艦隊は、駆逐艦の魚雷によって援護されながら離脱していった。
 カンニンガム大将は、午後5時35分、追撃をやめマルタに向かった。
 イギリス側は軽巡「ネプチューン」が命中弾1発で軽い損害を被った。

(空母)

 1940年7月10日夕刻、「イーグル」のソードフィッシュ9機からなる攻撃隊は、シチリア島アウグスタ港内にいるという報告のあった、イタリア巡洋艦と駆逐艦攻撃のため発進した。
 しかし、薄暮時、目的地についたときには、1隻の駆逐艦と1隻の油槽船しかいなかった。
 2隻とも雷撃をうけ、駆逐艦「レオネ・パンガルド」は撃沈され、攻撃隊は全機帰艦した。

(ガイド)(大西地中)(2次海戦事典)(撃沈V)
●スパダ岬沖海戦
 1940年7月19日早朝、イギリス第二駆逐隊に属する駆逐艦「ハイペリオン」「ヒーロー」「アイレックス」の3隻はクレタ島の北西沖で、イタリア潜水艦の捜索に従事していた。
 0620時にイタリア軽巡「バルトロメオ・コッレオーニ」「ギョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネレ」の2隻と遭遇した。
 強敵に出会ったイギリス駆逐艦隊は直ちに味方の巡洋艦がいる北へ逃走し、火力と速力に勝る軽巡はこれを追撃した。
 イギリス駆逐艦隊が頼んだ味方は、オーストラリア軽巡洋艦「シドニー」と駆逐艦「ハヴォック」で、両艦は1時間半ほどで駆けつけてきた。
 イタリア軽巡は、互いに距離を置いて航行していたため、相互に支援することができず、ばらばらに戦うことになった。
 イギリス側は
 イタリア軽巡はこれを巡洋艦2隻と誤認し、直ちに退却を開始した。
 イタリア艦は高速であったが、退却方向が悪く、クレタ島のスパダ岬を避けるために航路を変更せざるを得なくなり、このためイギリス艦隊に追いつかれてしまった。
 「シドニー」の砲弾が「バルトロメオ・コッレオーニ」に命中し、同艦は機関に被弾し動けなくなったところを駆逐艦の魚雷攻撃で撃沈された。
 「ジョバンニ・デッレ・バンテ・ネレ」も被害を受けたが、速力は低下しなかったため、追いすがる駆逐艦を振り切って逃げ切ることに成功した。
 イタリアは急ぎ空軍機を差し向けてイギリス艦隊を攻撃したが、成果はなかった。
 翌7月20日、昨日の戦いで取り逃がした軽巡洋艦「ジョバンニ・デッレ・バンデ・ネレ」に、最後のとどめを刺そうと、イギリス航空母艦の「イーグル」は、北アフリカのイタリア領トブルク港に奇襲をかけた。
 その塔載機はフェアリー・ソードフィシュ雷撃機である。
 ところが、港内には昨日確かに逃げ込んだと思われる軽巡洋艦「ギョバンニ・デッレ・バンデ・ネレ」の影は見えない。
 仕方なく、停泊中の油槽船1隻と、駆逐艦「オストロ」と「ネムボ(ネボム?)」を爆撃し、撃沈させた。
 思う獲物にありつけなかった「イーグル」は淡い失望を感じつつ、アレキサンドリア港に帰った。

(欧州2)(空母)(2次戦イタ軍艦)

 英海軍は地中海艦隊増強のため戦艦「ヴァリアント」、空母「イッラストリアウス」、防空巡洋艦2隻などを8月下旬アレキサンドリアに送った。
 イタリア艦隊は全力をあげて出動したが英艦隊を補足できず、英地中海兵力の増強を食い止められなかった。
 「イッラストリアウス」は就役後の1940年8月末、地中海艦隊に配属された。
 アレキサンドリアを基地とした「イッラストリアウス」は、9月17日の夜、イタリア軍の北アフリカにおける補給港のベンガジ港を15機のソードフィッシュで攻撃した。
 この攻撃でイタリア駆逐艦「ボレア」「アキュイロネ」の2隻を撃沈し、他の艦にも損害を与えた。

(欧州)

 ゛イギリス海軍がマルタ島に戦艦をもち込んだらしい゛という情報を入手したイタリア海軍は、1940年10月12日、駆逐艦や水雷艇をマルタ島方面へ送った。
 そのうち3隻のイタリア駆逐艦は、たまたま近くを通過した船団の迎撃に出撃したが、イギリスの護衛部隊はたちまちこれを捕捉した。
 2隻の駆逐艦は軽巡「エイジャクス」eidzaksが仕留め、残る「アルティグリエーレ」へは重巡洋艦「ヨーク」の8インチ砲が火を噴いた。
 「アルティグリエーレ」は弾薬庫に直撃弾を受けたらしく大爆発をおこし、跡形もなく消し飛んでしまった。


 1940年10月21日、駆逐艦「フランシェスコ・ヌッロ」は紅海でイギリス艦隊と交戦、沈没した。

●タラント夜襲
 1940年11月11日二十時四十分、イタリア側にまったく察知されることなくタラントの南東一八○浬の地点に達した「イッラストリアウス」は、第一次攻撃隊一二機を発進させ、続いて五○分後に第二次攻撃隊九機が飛び立った。
 攻撃はまったくの奇襲となった。
 照明弾の投下で始まった雷撃機に対して、対空砲火は熾烈であったが、攻撃隊は偵察写真を検討して決めた攻撃パターンにしたがって沈着に行動した。
 わずか二一機の攻撃にしては損害は甚大だった。
 在港の戦艦のうち、新鋭艦「リットリオ」に3発、「カイオ・デュイリオ」に1発、「コンテ・ディ・カヴール」に1発の魚雷が命中し、他に内港の巡洋艦一隻、駆逐艦一隻が小破して、工廠施設にも若干の被害を受けたのである。
 これに対して英軍は二機を失ったのみで、残る一九機は無事母艦に帰投した。
 「リットリオ」と「カイオ・デュイリオ」は、曳航されてドック入りのうえ修理されたが、それぞれ、1941年3月末と5月中旬まで行動不能となった。
 最も大きな損害を被ったのは「コンテ・ディ・カヴール」で中央部にできた大きな破孔からの浸水によって港内に着底してしまった。
 伊戦艦3隻はいずれも浮揚、修理に時間がかかり、イタリア海軍は主力艦勢力から一挙に3隻を欠くことになったのである。
 「コンテ・ディ・カブール」は、のちに浮揚に成功して、修理のためトリエステに曳航されたが、復旧工事を完成させることができずに休戦となってドイツ軍の手に落ち、1945年2月連合軍の空襲より転覆した。
イタリア側は再度の英空母の攻撃を恐れて、残った艦隊をナポリに逃避させた。

(空母)(2次戦英戦)
●テウラダ岬沖海戦(カラー作戦)
 ジブラルタルを基地とするジェームズ・ファウネス・サマービル卿指揮下のH部隊は、中部地中海を通過するマルタ向け物資補給用の船団の援護に従事中だったが、1940年11月27日にはサルジニア島の南西に位置していた。
 そして、東方から来た旧式戦艦「ラミリズ」と2隻の巡洋艦と合流していた。
 そのとき空母「アークロイヤル」から出た航空偵察機が、イタリア艦隊が北方にいると報告してきた。
 イギリス船団阻止のために出現した戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」以下の有力なイタリア艦隊であった。
 船団を南方に避難させてから、サマービル大将は優勢なイタリア艦隊に挑戦した。
 両軍の巡洋艦戦隊は、遠距離から戦闘を開始したが、双方とも、なんの戦果もあげえなかった。
 イタリア艦隊のイニゴ・カンピオニ大将は「アークロイヤル」と2隻のイギリス主力艦が存在することを知り、直ちに戦闘を断念して後退した。
 これはイタリア海軍省からの指令に従ったものであった。
 イタリア海軍は、タラント港における打撃をうけて以来、わずか2隻の戦艦が作戦行動できるだけとなり、それ以上軍艦を減らすような危険は避けたのである。
 サマービル大将の、イタリア艦隊を戦闘に引き入れる狙いは、航空攻撃をかけて艦隊の速力を落とさせることであった。
 11機のソードフィッシュ雷撃機からなる攻撃隊は「アークロイヤル」を発進した。
 そしてイタリア戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」「カイオ・ジュリオ・チェザーレ」が縦に並び、その周囲を7隻の駆逐艦で取り囲みながら進んでいるのを発見した。
 攻撃隊が攻撃を始めるとイタリア艦隊は針路を急に反転したため目標が困難となった。
 しかし、駆逐艦の列でできた防壁があったにもかかわらず、英雷撃隊は魚雷をすべて、その内側に落とした。
 この攻撃でパイロットたちは、魚雷1本が確実に命中したと思っていたが、実際はイタリア戦艦が各個で回避運動をしたため魚雷は全部はずれていた。
 9隻の軍艦が近距離から発射する対空砲火は猛烈を極めたが効果はなく、全機無傷で帰還した。
 これで、退却するイタリア艦隊に戦闘を強要しようとした試みは失敗した。
 イタリア軍が多数機で航空攻撃をかけてくる可能性があるため、サマービル大将は追撃を中止して南方に反転した。
 一方、空母「アークロイヤル」に、イタリアの巡洋艦が損害を受けて停止しているという報告が入った。
 艦長のホーランド大佐は2回目の魚雷攻撃の準備を命じた、
 そこへ、魚雷1本が戦艦1隻に命中していると推定されるという報告があったので、ホーランド大佐は雷撃隊を戦艦戦隊にむけることとした。
 そして、同時にスキュア7機に爆弾を積んで巡洋艦攻撃にさし向けた。
 偵察や対潜哨戒からかえってきたソードフィッシュのうち、9機が使用可能であった。
 彼らの多くは、雷撃については、その基本を習った程度に過ぎなかった。
 彼らが発艦するころには、イタリアの戦艦戦隊はサルジニア島の南端のスパルティベント岬に接近しており、陸上基地戦闘機の援護下を航行中であった。
 飛行隊長には、彼の判断で攻撃目標を変更してもよいとの許可が与えられていた。
 そのため、アンジェロ・イアチノ中将の率いる巡洋艦隊に最初にであったとき、飛行隊長はこれを攻撃する決心をした。
 未経験なパイロットにできることは、前後に一列になって発射することであった。
 したがって魚雷が同一方向から進んでいく攻撃法となるが、それが精一杯だった。
 時機を見計らって、全巡洋艦が一斉に回避運動を行ったため、すべての魚雷は無効となった。
 飛行機は、艦隊の対空射撃からの脱出に成功したが、2機が軽い損傷を被った。
 7機のスキュア隊は、損傷しているはずの巡洋艦を発見することはできなかった。
 どうも損傷した艦などはいなかったように思われる。
 スキュア隊はイタリア巡洋艦戦隊を発見して攻撃し、「トレント」に至近弾5発を与えた。
 今度はイタリア側の航空兵力が威力を発揮する番となった。
 爆撃は正確で、いくつかは空母の3メートル以内に落下したが命中しなかった。
 これで戦闘は終わった。
 輸送船団は無事目的地に着き、H部隊はジブラルタルに帰港した。


1941年1月、イギリス空軍のウェリントン爆撃機によるナポリ港爆撃が行われ、イタリア戦艦「カイオ・ジュリオ・シェザレ」が損傷し、約1ヶ月間修理のためドック入りをせねばならなかった。

(ガイド)

ジェノヴァ湾にイギリス海軍のH部隊が侵入し、1941年2月9日に戦艦と空母で市街を艦砲射撃するとともに、艦載機でレグホンを爆撃した。
イタリア艦隊も迎撃に出たが捕捉に失敗した。


1941年2月25日、軽巡洋艦「アルマンド・ディアズ」は、駆逐艦とともにトリポリへの船団護衛中、ケルケナー島沖でイギリス潜水艦「アプライト」Uprightの雷撃を受けて沈没した。


1941年3月3日、駆逐艦「ナザリオ・サウロ」「チェザレ・バッティスティ」「ダニエレ・マニン」は、紅海で失われた。

(2次大戦艦)
●マタパン岬沖海戦
1941年3月27日、エジプトからギリシアのピレエフスへ向かうイギリス船団を攻撃すべく、イタリア艦隊はナポリ、タラント、ブリンディシの各軍港から出撃し、次の二つの艦隊に分かれてムロ岬沖九五キロを航行していた。
1 偵察艦隊
 司令官 カッタネオ少将
第1巡洋艦隊
重巡洋艦「ザラ」(旗艦)「ポラ」「フィウメ」
第4駆逐隊 四隻
第8巡洋艦隊
軽巡洋艦「ルイギ・ディ・サヴォイア・デュカ・デグリ・アブルツィ」「ジュゼッペ・ガリバルジ」
第二駆逐隊 二隻

2 主力本隊
 司令官 アンジェロ・イアチノ大将
戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」(旗艦)
第十三駆逐隊 四隻
第3巡洋艦隊
重巡洋艦「トリエステ」「トレント」「ボルザノ」
第十二駆逐隊 三隻
イタリア艦隊は当初、第1艦隊と第2艦隊の両司令部があったが、12月改編で、イアチノ大将が「ヴィットリオ・ヴェネト」に将旗を掲げて、単一の艦隊司令長官に昇格した。
この日、地中海は荒れて、両隊は互いにその姿が見えぬほど離れていたが、午後十二時二十五分、本隊の重巡洋艦「トリエステ」が二○ノットで前進中、イギリスのサンダーランド哨戒機に追跡されているのに気がついた。
「優勢なるイタリア艦隊東南に向かう!」
このニュースは、エジプトのアレキサンドリア軍港にいたイギリス地中海艦隊司令長官ジョン・カニンガム提督に、ただちに手渡された。
カニンガム提督はイタリア艦隊の目的が、ギリシャ援助のため、エジプトから出かけたイギリス輸送船団AG9の攻撃にあるか、あるいは北アフリカ向けのイタリア船団の援護にあると判断した。
もし前者であったら船団の一大危機である。
ただちにカニンガム提督は戦艦「ウォースパイト」に将旗を掲げて抜錨、北西に向かった。
その指揮する艦隊は次のとおりである。
主力本隊
戦艦「ウォースパイト」「ヴァリアント」「バーラム」
航空母艦「フォミダブル」
第十駆逐隊 四隻
第十四駆逐隊その他 五隻

さらにカニンガムは、ギリシャのピレエフス港にいたプライドハム・ウィッペル中将に、ただちにイタリア艦隊を補足するよう命令し、また船団AG9には、そのまま航路をとってピレエフスへ向かうふりをさせ、夜になったら反転、全速力で引き返すよう命じた。
ウィッペル中将の偵察艦隊は次のとおりである。
軽巡洋艦「オーライオン」o:raion(旗艦)、軽巡「エイジャクス」、軽巡「パース」Perth、軽巡「グロスター」
第二駆逐隊 四隻

このうち三番艦の「パース」にはオーストラリア海軍の水兵が乗り込んでいた。

イタリアの艦隊もまた戦艦1隻、巡洋艦8隻、駆逐艦14隻という有力なものだったが、英空母「フォミダブル」の第二次攻撃で、新鋭戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」が左舷後部に魚雷一本を受け、速力の低下をきたした。
戦いは退却するイタリア艦隊をイギリス艦隊が追うかたちになったが、英主力部隊とイタリア艦隊の距離はかなり離れており、そのままの状態では、これを捕捉することは困難だった。
日没近く、艦隊の期待を担って「フォミダブル」から第三次攻撃隊が発進した。
イタリア艦隊の対空砲火は濃密で、攻撃隊は戦果を確認する余裕もなく帰投したが、実は重巡「ポラ」が英雷撃機の魚雷一本を船体中央部に受けて停止してまったのである。
伊艦隊イアチノ提督は、第一戦隊の旗艦重巡「ザラ」と「フィウメ」に航行不能となった「ポラ」の救援を命じ、両艦は駆逐艦四隻とともにその現場に向かった。
イアチノ提督は、英主力艦隊の位置をまだかなり遠方と判断していた。
「ザラ」には第一戦隊司令官カッタネオ少将が座乗していた。
戦隊は「ザラ」を先頭に「フィウメ」が続き、夜間索敵の目となるべき駆逐艦は、その後方に単縦陣となって従った。
夜のとばりがおりた地中海は、月のない曇り空で、視界はわずか二浬半しかなかった。
暗闇のなかを手探りで進む伊重巡部隊の速力は低くおさえられた。
カッタネオ少将は「フィウメ」に「ポラ」の曳航を命じ、暗闇のなかでその作業にとりかかった時、英戦艦隊のレーダーにその所在をキャッチされたのである。
砲撃態勢を整えてひそかに接敵した「ウォースパイト」「バーラム」「ヴァリアント」の三戦艦は、二七○○メートルの近距離まで近付いた。
英艦隊の接近にまったく気付いていなかった「ザラ」は、突如まばゆいサーチライトの光を浴びて仰天した。
ほとんど息つく間もなく、一斉に三八・一センチの巨砲弾が襲ってきた。
不意をつかれた伊重巡はなすすべもなく、まず「フィウメ」が、続いて「ザラ」がその餌食になった。
二○・三センチ砲を首尾線方向に指向したままであった「ザラ」は、あわてて一○センチ高角砲を使用しようとしたが、相次ぐ命中弾がたちまちその機能を抹殺してしまった。
舵がきかなくなり、八つのボイラーのうち少なくとも五つが使用不能に陥り、一番砲塔は粉砕されてしまった。
射撃指揮装置も艦内の通話機構も破壊され、何とか応戦できたのは機銃だけであった。
それでも乗員は懸命に消火にあたったが、そのうち英駆逐艦の放った魚雷が相次いで命中し、もはや艦を救うことは絶望となった。
コルシ艦長は艦底のキングストン弁を開くとともに、「総員退去」を命じた。

「フィウメ」も火の塊となって沈み、29日早暁、行動不能の「ポラ」は最後は英駆逐艦によってとどめを刺された。
イタリア艦隊はこのほかにも大型駆逐艦二隻を失ったが、英艦隊はわずかに航空機2機を喪失したのみであった。
イタリアは空母の必要を認めていなかったが、この戦いでムッソリーニは空母「アキュイラ」の建造を承認した。
またイタリアが電子探知装置の分野で遅れていることがはっきりし、その研究が開始された(1台は「リットリオ」に搭載されたが、うまく作動しなかった)。
イギリスも勝つには勝ったが、レーダーにも問題があった。
イタリア巡洋艦隊を発見したのは、実は人間の目だったのである。


 1941年3月末、イギリス軽巡洋艦「ボナヴェンチュア」が、クレタ島南方で伊潜水艦アンブラの雷撃により沈没した。


 駆逐艦「レオネ」「パンテラ」「ティグレ」のレオネ級全3隻は、開戦後アビシニアのマッサウで孤立していたが、1941年3月31日、最後の抵抗を試みるべく出撃したものの、「レオネ」は港外で座礁沈没、「パンテラ」「ティグレ」も英軍機の攻撃を受けた後、アラビア沖で自沈した。

(ガイド)(太西地中)

 1941年4月11日、イギリスは、マルタ島を基地とする戦隊『マルタストライクフォース』を編成した。
 構成は、駆逐艦「ジャービス」「ジェイナス」「ヌビエン」「モホーク」の4隻であった。
 4月15日、アフリカ向け物資を満載したドイツ輸送船5隻がイタリア駆逐艦「ルカ・タリゴ」「ラムブ」「バレノ」の3隻に護衛されてトリポリへ向かう途中、チュニジアの東、キルケネス諸島沖で『マルタストライクフォース』に夜襲されて全滅した。
 「ルカ・タリゴ」は沈没した。
 駆逐艦「バレノ」は英駆逐艦と交戦、翌日沈没した。
 イギリスの損害は「ルカ・タリゴ」の魚雷攻撃を受けて大損害を受け自沈した「モホーク」1隻であった。


 1941年5月、駆逐艦「カルロ・ミラベッロ」は、アルバニア沖で触雷、沈没した。

(太西地中)

 1941年8月8日、擱座していた駆逐艦「ラムポ」は浮上に成功し、イタリア本国で修理を受けた。


 1941年8月12日の深夜、イギリス軽巡洋艦「エディンバラ」がチュニジア沖で伊魚雷艇2隻の雷撃を受けて大破し、翌日処分を余儀なくされた。

(ガイド)

 1941年10月に入ると、イギリスは優秀なレーダーを備えた小艦隊をマルタ島に編成した。
 「K戦隊」と呼ばれるこの部隊は、軽巡「オーローラ」o:ro:ra「パネラピ」panelapi、駆逐艦「ランス」「ライブリィ」の4隻から成っていた。
 2隻のタンカー、4万tの物資を輸送する貨物船からなる7隻のイタリア船団が6隻の駆逐艦に護衛されて北アフリカのトリポリに向かっていた。
 さらに重巡2隻、駆逐艦4隻からなる艦隊も間接護衛についていた。
 11月8日、「K戦隊」はこれを襲い、輸送船7隻すべてと、護衛の駆逐艦2隻を撃沈し、重巡艦隊にも捕捉されずに退避した。


 1941年11月、駆逐艦「マエストラレ」は、英潜水艦の雷撃を受け沈没した。


 1941年11月21日、重巡洋艦「トリエステ」は、マルタ・コンボイ阻止作戦行動中、英潜「アトモスト」Utmostの雷撃で大破した。

(欧州記)
●ボン岬沖海戦
(中略)
1941年12月、イタリア海軍は軽巡洋艦「ルイジ・カドルナ」にガソリンを詰めたドラム缶を満載し、輸送することにした。
同艦はシチリア島を基地とする軽巡3隻からなる第6戦隊のうちの1隻だった。
「ルイジ・カドルナ」はタラント軍港からアフリカのベンガジへ無事入港し、北アフリカのイタリア軍はこれを見て狂喜して歓迎した。
この成功により、イタリア海軍は、再度、燃料輸送作戦を計画した。
(中略)
3隻の艦艇は1941年12月9日の夜、シチリア島パレルモを出港した。
(中略)
12月13日の未明、イタリア艦隊は本国に向かっていた。
イタリア艦隊を発見したストークス中佐は単縦陣をとり、イタリア艦隊の頭をおさえるような格好で反抗戦に入った。
間もなく敵影を視認し、まず魚雷を発射した。
砲を撃つと発射の閃光で位置を敵に暴露してしまうからだ。
イタリア艦隊が転舵を完了したとき、魚雷が突進してきた。
先頭の「シーク」が発射した魚雷2発がイタリア艦隊の先頭の「アルベリコ・ダ・バルビアノ」に命中し、大きな火柱が上がった。
つづいて「マオリ」の放った魚雷のうち1本が命中して、「アルベリコ・ダ・バルビアノ」は溶鉱炉のように燃えだした。
「バルビアノ」の戦闘力は一瞬のうちに失われたのである。
まったくの奇襲だった。
もう1隻の軽巡「アルベルト・ディ・ギュッサノ」は、15・2センチ砲を旋回し、射撃を開始した。
艦上に満載されたガソリンに引火を覚悟の上での反撃であったが、正確な射撃とはいえなかった。
イギリスの4隻の駆逐艦は前後左右から「ギュッサノ」を砲撃して、「ギュッサノ」はたちまち被弾炎上する。
イギリス駆逐艦「リージョン」は四連装発射管から魚雷を発射し、魚雷1本を命中させて「ギュッサノ」は激しい爆発を起こした。
間もなく2隻の軽巡は炎の中に沈み、第4戦隊司令官トスカーナ少将以下900名以上の将兵が戦死した。

(撃沈U)
●第1次シルテ湾海戦
イタリア本国艦隊司令長官はアンジェロ・イアチノ大将で、一年前からこのポストについていた。
以降、約二年間の在職中、安全第一主義を墨守した。
陸軍の依頼を受けたイタリア海軍は、八隻の貨物船を三つの船団に分けて、北アフリカのシルテ湾へ送ることとなった。
これはM−42号作戦と作戦名がつけられ、船団は1941年12月16日、ナポリを出港した。
もちろん船団の直接護衛のほか、イタリアの大型艦もM−42号作戦を間接的に支援することになった。
このために出撃した艦隊は、タラントからの戦艦「カイオ・デュリオ」と第七戦隊の「デュカ・ダオスタ」「モンテクッコリ」「アッテンドロ」、そして駆逐艦四隻からなるものあった。
その司令官はC・ベルガミニ中将である。
ところが、この船団が出撃する前、マルタ島を航空偵察したシチリア駐屯のドイツ空軍の偵察機が、「マルタ島にイギリス戦艦2隻あり」という驚くべき報告を送ってきた。
この報告に驚いたイタリア海軍は「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「アンドリア・ドリア」「カイオ・ジュリオ・シェザレ」の戦艦をはじめとして、「ゴリズィア」「トレント」といった重巡と駆逐艦10隻をイアチノ大将の指揮下にナポリから南下させ、マルタ島にいるといわれているイギリス戦艦が、軍需品を輸送・補給する船団に接近するのを防ごうとした。
なお、この艦隊にはベルガミニ中将指揮下の艦もあったが、イアチノ大将指揮下に合流した艦も含まれている。
さて、イギリス海軍は潜水艦を配置していた。
その1隻「アージ」は12月14日夜、シチリア島とイタリア本土の間にあるメッシナ海峡で、イアチノ大将率いる艦隊を発見、魚雷3発をその艦隊に向けて放った。
そのうち1発が「ヴィットリオ・ヴェネト」の前部砲塔の下部に命中、そのため速力は20ノットに落ち、火災の発生によって多くの乗員が死傷、一時は火薬庫への引火の恐れもあったが、イアチノ大将は「ヴィットリオ・ヴェネト」をタラントに回航させ、かろうじて自力でタラントに帰港した。
しかし、その後、約半年にわたって行動不能となってしまった。
イアチノ大将は残りを率いて進撃した。
ところで先のドイツ偵察機の報告は誤りで、マルタに戦艦などは無く、おそらくK部隊の軽巡を戦艦と見誤ったのであろう。
ドイツもイタリアも海軍には有力な航空部隊はなく、そして空軍の偵察員の艦型識別能力は低かったのである。
12月17日、ドイツの偵察機がサー・フィリップ・ヴァイアン少将率いる軽巡や駆逐艦が西進中なのを発見した。
だが、このとき偵察機は「ブレコンシャー」を「戦艦1隻」と報告してしまった。
この報告を受けたイアチノ大将は獲物の発見に飛びつき、24ノットでイギリス艦隊攻撃に向かった。

ヴァイアン少将は、イタリア戦艦がはるか北方にいることは、味方潜水艦からの報告で知っていた。
だが、北アフリカやマルタ島から発進している偵察機がずっと接触しているわけでもなかったため、敵戦艦がどれくらいの”近さ”にいるのかわからず、今一つ不安であった。
一方、イタリア海軍のイアチノ大将は日没前にイギリス戦隊と遭遇することはとてもできないと諦めかけていた。
9ヶ月前のマタパン岬沖の海戦で、イタリア海軍はイギリス海軍のレーダー射撃による痛打を受けていたので、夜戦には自信が無かったのだ。
イアチノ大将がとかく消極的だったのはそういうことも原因であった。
ところが、夕方五時半ごろに、はるか東の水平線に対空砲火の閃光が確認された。
これはドイツ空軍とイタリア空軍の爆撃機がヴァイアン少将の艦隊を攻撃していたものであった。
イアチノ大将は、夜になるため攻撃よりも自分の艦隊の守りを固めなければと思っていた矢先に、イギリス艦隊の位置を確認できたため、方針を変更して即座に「撃ち方はじめ」の号令を出した。
新戦艦「リットリオ」は、32000メートルもの遠距離から38センチ砲の射撃を開始した。
「アンドレア・ドリア」と「ジュリオ・シェザレ」も32センチ主砲を撃ったが、砲身に27度の仰角をいっぱいにかけても30000メートルに届かぬほどの距離だった。
イアチノ大将が砲撃を急いだのは、早くしないと夜になって、照準が定まらなくなる可能性があったからである。

バイアン少将は、突然付近に立ち上がった水柱に驚いた。
駆逐艦2隻を「ブレコンシャー」につけて南に退避させると、煙幕を展開させて反撃の準備に取り掛かった。
さらに駆逐艦の一隊を前進させ魚雷攻撃の準備を整えさせた。
彼にとって多少心強かったのは、K部隊の軽巡や駆逐艦がすでに合流して、彼の指揮下に入っていたことであった。
「ブレコンシャー」を護衛している艦艇の中で、一番砲撃力のあるのはK部隊の「ネプチューン」で、ヴァイアン少将指揮下の艦は対空巡洋艦であった。
「ネプチューン」は一五・二センチ砲を八門装備していたが、その「ネプチューン」の砲弾さえも、敵にとどくことはなく、イギリス艦隊はイタリア艦隊に撃たれっ放しであった。
三万メートルも離れていれば砲撃の際の照準の誤差は大きく影響してしまう。
だが船体の大きい戦艦にとって、夜間の接近戦は禁物である。
イギリス軍にはレーダー射撃という方法もある。
イアチノ大将は接近戦に備えて重巡と駆逐艦に突撃命令を出した。
イギリス艦隊の全滅を計ったイアチノ大将は、麾下の重巡や駆逐艦を南方に向かわせ、イギリス艦隊のうち、南方へ避難した艦の撃沈を命じた。
イタリア艦隊がイギリス艦隊より圧倒的に優勢であり、肉薄しても有利であろうと考えたのである。
すでにイギリス駆逐艦も接近してきて、イタリア戦艦に魚雷を発射しようとし、これを防ごうとするイタリア駆逐艦との小競り合いが展開された。
イタリアの重巡「ゴリズィア」は僚艦に続航を求める信号を出しながら、本隊から別れてイギリス艦隊に接近、肉薄した。
その20・3センチ砲弾がイギリス駆逐艦に命中、イギリス駆逐艦は損害を受けたが、沈没には至らなかった。
イタリア駆逐艦の「マエストラーレ」も12センチ4門の一斉射撃で、別の駆逐艦一隻を損傷させた。
撃たれ続けたイギリス軍は、駆逐艦の何隻かが「リットリオ」への魚雷攻撃を試みたが、魚雷攻撃をするスキを見出せず、魚雷攻撃を諦めて退却した。
実際の砲撃は11分であった。
6時4分になると、日はとっぷりと暮れ、辺りは暗闇に包まれていた。
自分の艦隊が心配になったイアチノ大将は退却を命じた。
海戦の場所はシドラ湾のベンガジの西北の海域で、海戦の時間は約四十分間、主として反航戦だった。
辛くも逃げ切ったイギリス艦隊は、途中予定どおりK部隊の軽巡や駆逐艦が、バイアン少将の艦隊から「ブレコンシャー」の護衛を引きつぎ、12月18日に無事マルタ島に入港した。
このおかげでマルタ島のハリケーン戦闘機は、ドイツ空軍やイタリア空軍の空襲を迎撃することができるようになった。

イアチノ大将の艦隊がイギリス艦隊を相手に勇戦したその隙にイタリアの三隻の貨物船団が、ロンメル軍団への貴重な軍需品を積んでシルテ湾の西方にあるトリポリに入港することができた。
さらにもう一隻のドイツ貨物船もベンガジに護衛なしでたどり着くことに成功した。

(事典)
●第2次シルテ湾海戦
1942年3月、イギリス軍は空母「アーガス」「イーグル」から7日、21日、29日の3回に別け、合計31機のスピットファイア戦闘機をマルタに送り込んだ。
その上で、ほとんど飢餓状態にまで追い込まれていたマルタ島に物資を送り込むため、貨物船4隻からなる補給船団を送る作戦を実行した。
輸送船は護衛艦隊と船団を組み、26,000dの物資を組み込んでアレクサンドリアからマルタへ出港した。
護衛は直衛の改造防空巡洋艦「カーライル」ca:rlailと駆逐艦7隻のほかに、新型防空巡洋艦「クリアパトラ」kliapatra「ダイドウ」daidouと駆逐艦15隻も随伴した。
マルタ島からも軽巡1隻が応援に出ることになっていた。
船団の行動は厳重に隠されていたが、出港から2日後には潜水艦と航空機によって発見された。
船団発見の報を受けたイタリア海軍は、アンジェロ・イアチノ大将の座乗する戦艦「リットリオ」と駆逐艦4隻、及び第3戦隊の重巡「ゴリズィア」「トレント」、軽巡「ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレ」、駆逐艦4隻の艦隊をタラントとメッシナから出撃させた。
3月22日1427時、船団と迎撃艦隊はシルテ湾で遭遇した。
だが、海は大時化に近い状態で、両軍とも波と強風にあおられながら戦闘を繰り広げることとなった。
「リットリオ」は長時間にわたってイギリス艦隊と交戦し、戦闘は対艦戦闘能力に勝るイタリア艦隊に有利に展開して、軽巡3隻、駆逐艦4隻に命中弾を与えた。
しかし、敵に決定的な打撃を与えるには至らなかった。
嵐の中、両艦隊は数時間にわたって砲火を交えたが、日没とともにイタリア艦隊は戦闘を切り上げた。
戦闘終了後に起きた嵐の中で、駆逐艦「ランチェーレ」「シロッコ」が遭難沈没し、軽巡「ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレ」も大きな損傷を受けてしまった。
翌日、ドイツ、イタリア空軍も攻撃に加わり、マルタ島に陸揚げできた積み荷は5000トン程度であった。


1942年4月1日、軽巡洋艦「ギョバンニ・デッレ・バンデ・ネレ」はストロンボリ島沖でイギリス潜水艦「アージ」の雷撃を受けて沈没。
同艦は3月23日に嵐に遭って損傷し、修理のためメッシナからラ・スペチアに回航の途中であった。
これにより、最も旧式で小型である「アルベルト・ディ・ギュッサノ」級は、すべて沈没したことになった。

(事典)
●『ヴィガラウス』作戦
1942年6月はじめに『ハープーン』『ヴィガラウス』と呼ばれる2つのマルタ島輸送作戦が立案された。
『ハープーン』船団はジブラルタルを、『ヴィガラウス』船団はアレクサンドリアを出発し、両船団は東西からマルタ島へ向かった。
(中略)
イギリス船団は突入を中止して反転した。
アレクサンドリアへの帰路は、両軍の潜水艦戦となった。
『ヴィガース』船団は軽巡、駆逐艦各1隻を失い、イタリア艦隊は戦艦、重巡、軽巡各2隻を基幹とする有力なものであったが、6月15日の早朝にクレタ島西方で最初のイギリス軍機の航空攻撃を受けた。
重巡洋艦「トレント」はこの時中央部に魚雷を受けて航行不能となり、翌日イギリス潜水艦「アンブラ」の雷撃により撃沈された。
また、戦艦「リットリオ」も被雷した。
イタリア艦隊は、この戦いではじめてイギリス艦隊を退却させることに成功したのである。

(空母)(ガイド)(事典)
●パンテレリア岬沖海戦 (『ハープーン』作戦)
ジブラルタルから出港した『ハープーン』船団は、輸送船6隻と改造防空巡洋艦「カイアロウ」kaierouと駆逐艦「ベドウィン」「パートリッジ」以下9隻を中心とする船団で、他に戦艦「マラヤ」と旧式空母「イーグル」「アーガス」、軽巡「ケニャ」kenja「リヴァプール」liverpu:l、新型防空巡「カリブディス」karibdisが間接護衛に当たることになっていた。
だが、間接護衛部隊は敵の航空攻撃を避けるためにチュニジアのボン岬東方で引き返すことになっていた。
イギリスは危険水域に空母、戦艦などの主力艦は入れない方針をとっていたのである。
作戦開始後、船団はまずサルディニア島を基地とするイタリアの航空部隊から攻撃を受けた。
空母艦載機は上空直衛に全力をつくしたものの、数が少なく、敵攻撃隊を阻止するには至らなかった。
1942年6月14日、まっくらになってから、『ハープーン』船団と直接護衛部隊は、支援部隊の空母、戦艦、軽巡からわかれ航海をつづけた。
6月15日朝、『ハープーン』船団はパンテレリア岬沖でイタリア艦隊の迎撃を受けた。
イタリア艦隊は、第7戦隊の軽巡「ライモンド・モンテ・クッコーリ」「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」、駆逐艦「ビバルディ」以下5隻から成っており、イギリスの直衛艦隊より有利だった。
前夜、すでに間接護衛部隊が分離していたため、船団を護衛していたのは防空巡洋艦「カイアロウ」と9隻の駆逐艦、そして大小の掃海艇のみであった。
そのうえ、「カイアロウ」の主砲は射程の短い対空砲で、駆逐艦も4隻が小型かつ砲の射程の短い防空駆逐艦であったため、護衛部隊の水上戦闘力は非常に小さかった。
そのため、ダ・ザーラ少将の率いるイタリア巡洋戦隊は、0630時イギリス護衛部隊の射程外より射撃を開始することができた。
がイタリア艦と交戦している間に、独伊両軍は飛行機による攻撃で、さらに脅威を加えた。
もっとも、マルタから戦闘機が飛来して上空警戒をしたが、連続的に哨戒するわけにはいかなかった。
その後、ドイツの急降下爆撃機が哨戒網をくぐりぬけ、3隻の貨物船に命中弾を与えて撃沈した。
形勢は枢軸側に傾きつつあったが、ここでイタリア艦隊はいったん撤退してしまった。
イタリア艦隊は間もなく再攻撃を開始して駆逐艦1隻を撃沈し1隻に損傷を与えたが、イギリス船団はすでに態勢を立て直し、残る2隻の貨物船をマルタ島へ送り込むことに成功した。
しかし、15000トンの物資しか届けられなかった。

(巡洋艦史)(事典)
●『ペデスタル』作戦
1942年8月、イギリスはマルタ島へ再び強行輸送船団を送ることを決定した。
作戦は『ペスタデル』と名付けられた。
『ペスタデル』作戦はジブラルタルからマルタ島へ向けて船団を送り込む作戦で、以下のような艦船で構成されていた。
貨物船(高速)14隻
軽巡「ナイジェリア」naidzieria「ケニャ」「マンチェスター」mantester
改造防空巡洋艦「カイアロウ」「カリビス」
駆逐艦「ペン」「ブラナム」「ライキ」以下12隻
戦艦「ネルソン」「ロドネイ」
空母「イーグル」「ヴィクトリアス」「インドミタブル」
新型防空巡洋艦「シリアス」sirias「フィービ」fi:bi
駆逐艦「ウルバリン」「イシュリアル」以下12隻
J-21船団は、8月10日、ジブラルタル海峡を通過して地中海に入ると、まずUボートが攻撃をしかけた。
船団がボン岬に近づき12日の夜の帳がおりるころ、イギリスの戦艦と空母はUターンして帰路についた。
13日、日が昇るとイタリア艦隊がサルディニア島とシチリア島のメッシナを出港し船団攻撃に向かった。
第7、第5戦隊の重巡「ボルザノ」以下3隻、軽巡「ムツィオ・アッテンドロ」以下3隻、駆逐艦10(12?)隻の艦隊である。
ところが、この艦隊はドイツが上空援護をしてくれないことに不満を持って出撃しており、イギリス空軍が攻撃の姿勢を見せると、すぐに引き返した。
同日にはイギリスの潜水艦「P-42」がストロンボリ島付近の海域で巡洋艦4隻からなる艦隊を雷撃し、重巡「ボルザノ」と軽巡「ムツィオ・アッテンドロ」がそれぞれ1発の魚雷を受けた。


1942年11月、「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」はタラント港からナポリに移動した。


1942年12月4日、軽巡洋艦「ムツィオ・アッテンドロ」はナポリ湾で爆撃を受け沈没した。
この結果、開戦時に12隻であった15.2センチ砲搭載の軽巡洋艦は「ルイジ・カドルナ」級の「ルイジ・カドルナ」、「ライモンド・モンテクッコリ」級の「ライモンド・モンテクッコリ」、「エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ」級の「エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ」「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」、「ルイジ・ディ・サヴォイア・デュカ・デグリ・アブルッツィ」級の「ルイジ・ディ・サヴォイア・デュカ・デグリ・アブルッティ」「ジュセッペ・ガリバルディ」の6隻となってしまった。
 1942年5月14日に軽巡洋艦「アッティリオ・レゴロ」が竣工するが、これは13.5センチ砲搭載艦である。


 1942年8月12日、イギリス軽巡洋艦「カイロ」が、チュニジアのビゼルト沖で伊潜水艦アクスムの雷撃を受けて沈没した。


 1942年9月14日、イギリス軽巡洋艦「コヴェントリ」が、リビアのトブルク沖で伊軍機の爆撃で沈没。


 1943年1月9日、駆逐艦「コルサロ」は、ビゼルタ沖で触雷、沈没した。


 1943年1月17日、駆逐艦「ボムバルディエレ」は、シチリア島西方で英潜水艦の雷撃を受け、沈没した。


 1943年2月3日、駆逐艦「サエッタ」は、触雷、沈没した。


1943年3月1日、駆逐艦「ジェニエレ」は、パレルモで爆撃により沈没。


1943年4月10日、重巡洋艦「トリエステ」はサルジニア島マッダレーナ港で4発重爆撃機による爆撃によって沈没した。
この結果、開戦時に7隻であったイタリア海軍の重巡洋艦は「ゴリズィア」と「ボルザノ」の2隻となってしまった。

(大西地中)

1943年4月19日、駆逐艦「アルピノ」は、ラ・スペチアで爆撃により沈没。


 1943年4月23日に軽巡洋艦「スキピオネ・アフリカノ」が竣工するが、これは13.5センチ砲搭載艦である。


 1943年4月30日、駆逐艦「ラムポ」は、英空軍機の爆撃により、ラス・マスタプラ沖で沈没。
 休戦時に残った駆逐艦は、「フランシェスコ・クリスピ」「トゥルビネ」「ニコロソ・ダ・ノリ」「アントニオ・ピガフェッタ」「ニコロ・ツェノ」「ダルド」「グレカレ」「マエストラレ」「アルフレド・オリアニ」「アルティグリエレU」「カラビニエレ」「コラッツィレレ」「フチリエレ」「「グラナティエレ」「レジオナリオ」「ミリタリグリエレ」「ヴェリテ」の17隻となってしまった。


 6月4日に軽巡洋艦「ポンペオ・マグノ」が竣工するが、これは13.5センチ砲搭載艦である。


 1943年6月5日、ラ・スペチア港への連合軍の大爆撃によって、所在の「リットリオ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「ロマ」はすべて命中弾を受け、特に「ヴィットリオ・ヴェネト」は損害甚大でジェノアに回航、そこでドック入りをした。
 ラ・スペチアの造修施設が爆撃で破壊されてしまったからである。

(巡洋艦史)

 1943年8月、シチリア島の戦闘支援のため、4隻の軽巡が出撃した。
 第1陣は「エウジェニオ」と「モンテクッコリ」の2隻でラ・スペチアより8月4日に出撃、いったんサルデニア島のマッダレーナ港を経てシチリア島北方に位置する小島、ウスチカ島に向かった。

(欧州)

1943年、イタリア国内には敗戦ムードがただよい、町で見るドイツ兵に対して露骨に反感を示す市民も多かった。
すでにイタリアの各都市は、米英軍の爆撃下にある。
シチリア島にはパットン将軍の米軍とモントゴメリー将軍のイギリス軍が上陸して、ドイツ軍を追いはらった。
もはや、イタリア本土に連合軍が上陸してくるのは時間の問題だった。
本土が戦場になったら一大事である。
そこで72歳の老将バドリオ元帥は、1943年8月末、ひそかにムッソリーニを逮捕して自ら首相の座にすわり、ファシスト党を解体した。
「われわれは依然、ドイツと協力しつつ連合軍と戦う」とバドリオ新首相は宣言したが、陰では降伏について相談していたのである。
降伏文書は9月3日に調印された。
9月8日、イギリス軍がイタリア半島の先端に上陸し、他の連合軍もナポリの南東サレルノに上陸するため、大船団を組んで北アフリカから北上しつつあった。
その8日に全世界に向け、「戦争が終わった!」旨が発表された。
イタリア本国艦隊司令長官はC・ベルガミニ大将だった。
彼は数日前に、旗艦の戦艦「ロマ」に各部隊指揮官を集め、「英・米軍のサレルノ上陸を阻止するため、わが艦隊は断固出撃する!」と訓示したばかりだった。
基準排水量4万1650トンの新鋭戦艦「ロマ」は、「リットリオ」型の3番艦であった。
イタリアの威信をかけた同艦が、トリエステのリウニティ造船所で進水した1940年6月、日本からの経済使節団も招待されて式典に臨席したものだった。
1942年11月に完成したが、実際に艦隊に編入されたのは1943年5月になってからのことであった。
「ローマ」はイタリア北西部のラ・スペチア基地にながらく投錨していた。
同地はイタリア最大の海軍基地であり、1861年から軍港となり、造船所や造兵廠も設けられていた。
旗艦「ローマ」の付近には、同型艦の「ヴィットリオ・ヴェネト」「イタリア」(1943年7月、「リットリオ」を改名)の2隻も投錨していた。
休戦直前のイタリア艦隊は燃料が不足して、思うように行動できなかった。
しかし、ベルガミニ大将は、「ロマ」「ヴィットリオ・ヴェネト」「イタリア」を駆ってイギリス艦隊と砲戦を交えるのを夢みていた。

9月8日、ロマの軍令部次長サンソネッチ大将から、ベルガミニ大将に電話がかかってきた。
「連合軍と休戦の条件を打ち合わせているんだが、明朝、全艦隊をひきいてイギリス領のマルタ島へ南下してくれたまえ。戦争は、もう終わったのだから、やむをえん。君は、そこで降伏するんだ。」
ベルガミニ大将は、われとわが耳を疑った。
降伏など、それまで考えたこともなかったからだ。
彼は考えあぐねた。
全艦隊をひきいてマルタ島に行くのが、イタリアのために最善の方法か。
そうしなければ、昨日まで戦友だったドイツ軍が港に侵入し、イタリア艦隊を接収するだろう。
事実、のちに重巡「ボルザノ」はラ・スペチア港で修理中のところをドイツ軍におさえられてしまう。
残るもう1隻の重巡洋艦「ゴリズィア」は、ラ・スペチア港で自沈する。
そこへ、こんどは海軍大臣兼軍令部総長ド・クールテン大将から電話がかかってきた。
「いいかね、ベルガミニ君。君は全艦隊をひきいて、サルディニアのマダレーナ島へ行くんだ。イギリス軍へは私から、その許可をもらうように取り計らう。じつは国王陛下とイタリア政府も、そこへ移そうという案がある。だから……いま、駆逐艦『ヴィヴァルディ』と『ダ・ノリ』の2隻はラ・スペチアから出港、国王陛下をお迎えに行く予定なのだ。」
この電話はベルガミニ大将をますます混乱させずにはおかなかった。
しかし彼は各級指揮官を「ロマ」艦上に召集して命令を伝達し、イタリアは敗れたが、艦隊さえ健在ならば将来のイタリア再建の礎石となりうるのだ、と激励した。

9月9日の未明、ラ・スペチアでは曳船がいそがしく往来していた。
どの艦も゛出港準備゛の旗旒信号をマストにかかげている。
午前3時、戦艦部隊がゆっくりと動き出した。
一部の駆逐艦は、すでに沖に出て対潜哨戒についている。
戦争が終わったといっても、まだ戦闘状態は続いているからだ。
脱出兵力は、次の14隻であった。
  第9戦隊 戦艦「ロマ」(旗艦)「ヴィットリオ・ヴェネト」「イタリア」
  第7戦隊 軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」「エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ」「ライモンド・モンテクッコリ」
  第12駆逐隊 「ミリタグリエレ」「フチリエレ」「カラビニエレ」「ヴェリテ」
  第14駆逐隊 「レジオナリオ」「アルフレド・オリアニ」「アルティグリエレU」「グレカレ」
やがて南下中の艦隊の左後方から、別の部隊が見えてきた。
ジェノヴァからやってきた次の艦艇、第8戦隊ほかの4隻であった。
  軽巡「ルイジ・ディ・サヴォイア・デュカ・デグリ・アブルッツィ」「ジュゼッペ・ガリバルディ」「アッティリオ・レゴロ」
  水雷艇「リブラ」
イタリアは重巡や軽巡は3隻で1個戦隊を、駆逐艦は4隻で1個駆逐隊を編成していた。
こうして18隻もの兵力となった。
ほかにタラントやアドリア海のブリンジンにも部隊があったが、別行動をとったりドイツ軍に出港を阻止されてしまったり、あるいは通信が混乱して連絡がとれなかったのである。
イタリア艦隊は、まずコルシカ島の西方を南下した。
9日の朝、太陽が顔を出したころ、イギリス偵察機はイタリア艦隊を発見した。
イギリス機はイタリア艦隊が打ち合わせどおりの針路を航行しているのに満足した。
そして、そのまま上空から監視をつづけた。
ところが9日の午後、ベルガミニ大将が東へ変針してサルディニア島の北東岸にある小島マダレーナに向かったので、イギリス軍は驚いた。
実は海軍大臣兼軍令部総長ド・クールテン大将からイギリス軍司令部に対して、当初のマルタ島入港をとりやめてマダレーナ島に変更する旨の連絡は入っていなかったのである。
「イタリア艦隊は裏切ったのか?」イギリス軍司令部は一瞬殺気だった。

イタリア方面担任のドイツ空軍部隊は、リヒトホーフェン空軍元帥の第2航空軍であった。
彼は前大戦中の撃墜王リヒトホーフェン男爵の従弟である。
圧倒的に強力な連合軍のため、いまや彼の兵力はごくわずかしか残っていなかったが、そのなかに第100爆撃航空団の第3飛行隊があった。
この部隊は双発のドルニェDo217爆撃機を持っていた。
ドイツ軍はイタリア艦隊が脱出をくわだてていることに感づいていた。
南フランスのマルセイユに近いイストルの飛行場に展開中の第三飛行隊に対し、第2航空軍司令部から出撃命令が下った。
イタリア艦隊が降伏すれば、連合軍の手にわたり戦力となるのは火を見るよりもあきらかである。
したがって、その前に撃沈してしまおうというのであった。
第3飛行隊の指揮官ベルンハルト・ヨーペ少佐は、11(9?)機のDo217を指揮して南下した。
しかし、めざすイタリア艦隊の姿はなかなかみつからない。
いっぽうマダレーナ島に向かっていたベルガミニ大将は、無線連絡に驚いた。
「ドイツ軍は、ほとんどのイタリア諸港を占領しつつあり。コルシカ島、サルディニア島についても同様なり。なお、国王陛下、及びイタリア政府はマダレーナ島への亡命を中止し、ブリンディシに移る予定なり。」
もうサルディニア島も間近くなった9月9日の午後4時直前、ベルガミニ大将は間一髪のところで西へ変針した。
やはりマルタ島へ向かい、英軍に降伏するよりほかに方法がなかった。
上空から監視をつづけていたイギリス偵察機はイタリア艦隊の再変針を報告、イギリス軍司令部を安心させた。
ところが、そのとき北方からドイツ機がやってきた。
ドイツ爆撃機はフリッツXという誘導爆弾1発を、右のエンジンと胴体との間に懸吊していた。
この新兵器は重量1565キログラムもあり、中央部に4枚の主翼がついている。
尾部のフィンは投下後、母機から無線操縦でコントロールできる。
つまり爆弾はグライダーのように滑空しながら降下して、母機からの無線操縦で誘導されるのである。
小さく、かつ動きまわる軍艦に対して、高々度からの水平爆撃ではなかなか命中弾を与えられない。
といって高度を下げれば対空砲火の命中率が上がってしまう。
この問題を解決するためドイツ空軍は何種類かの誘導爆弾を開発したが、その一つが「フリッツ」Xであった。
ドイツ空軍は、すでに2〜3カ月前からマルタ島攻撃に、この新兵器を使用していた。
しかし、第3飛行隊ではこれまで大した戦果をあげていなかった。
先頭のヨーペ少佐は、翼を振って列下に突撃の合図を送った。
サルディニア島の西岸を南下中のイタリア艦隊は、飛行機を見て歓喜した。
イギリス軍機が出迎えに来てくれたものと思ったのだ。
しかし、どうも様子が変だ、と気づいたとき、Do217K双発爆撃機は、すでに「フリッツ」Xを放っていたのだ。
9機の狙いは、もちろん戦艦である。
爆弾は途中で針路を変えて、一直線に戦艦に向かっていく。
艦隊は、直ちに回避運動に入った。
フリッツXは落下の最終段階では秒速250mにも達する。
誘導爆弾は尾部から閃光を発するが、この閃光は照準手が爆弾の位置を確認するためのものである。
1発が「ロマ」の後部マストに命中、厚さ162oの防御甲板を貫通して艦底で爆発した。
フリッツXは、もともと徹甲弾を改造したものなので、厚い装甲を破る威力は十分である。
「ロマ」は右舷の主機械をやられ、速力も16ノットまで落ちてしまう。
2、3分後に2発目のフリッツXが同艦に吸い込まれた。
今度は第2砲塔と艦橋との間に命中した。
船体の下方で炸裂、大火災が発生した。
左舷の主機械もやられたらしく停止してしまう。
必死の消火作業が行われたが、火災はなかなか鎮火しない。
約20分間、人間と火との苦闘が続けられた。
ついに火は前部火薬庫に入った。
火薬庫の大爆発は「ロマ」の船体を真っ二つに折り、アッという間に沈没した。
他の艦は呆然として「ロマ」の消えた海面を眺めた。
ほとんどの乗員、特に艦橋付近にいた士官の大半が艦と運命をともにした。
乗員は士官80名、下士官兵1850名で、このほか司令部要員30名がいたという。
戦死者は1400名を数えた。
ベルガミニ大将も艦と運命をともにした。
同型の「イタリア」も艦首にフリッツX1発が命中、900トンの海水が侵入したが自力航行は可能だった。
「ロマ」の沈没後、軽巡「エウジェニオ・ディ・サヴォイア」の第7戦隊司令官ロメオ・オリヴァー少将は軽巡「アッティリオ・レゴロ」と駆逐艦3隻を現場に残し、「ロマ」の生存者を救助するよう命じた。
一方、ドイツ機は爆弾が命中したのを確認すると、引き返した。
これ以上飛ぶと北アフリカのイギリス戦闘機の行動圏内に入ってしまうからだ。
したがってヨーペ少佐らは、「ロマ」が沈んだことは知らなかった。
イタリア艦隊は翌10日朝、イギリス戦艦「ウォースパイト」や「ヴァリアント」と合流、11日にマルタ島へ入港した。

(巡洋艦史)

タラント軍港にはすでに少数の艦艇が残っていたに過ぎなかったが、戦艦「アンドレア・ドリア」と「ジュリオ・チェザレ」、軽巡「カドルナ」と「ポンペオ・マーノ」を基幹とする艦隊があり、この部隊は9月10日、無事にマルタ島に入港した。
また、軽巡「スキピオネ・アフリカノ」は国王や政府要人を乗せたコルベットの「バイオネッタ」を護衛する任務を帯びてタラントからいったんブリンディジに回航し、要人護衛の任務を果たしてマルタ島に到着している。

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