陳勝らの挙兵が伝えられると、沛も動揺した。
蕭何、曹参らは、すぐさま劉邦を招いた。
犬殺しで力の強い樊噲が、迎えに行った。
劉邦は、百人ばかりの手下を連れて出かけた。

項梁は8千の兵を率いて北上し、山東の薛(せつ)(曲阜)に至ったところで、陳勝の死を聞いた。
そのため各地で割拠している諸将を招き、今後の方策をはかった。
沛で兵を挙げた劉邦も、このときに来た。

しかし楚の騎兵が追い迫ってきたため、劉邦は二人の子を車から突き落とした。
夏侯嬰が、二人の子を拾い上げては車に乗せ、これを繰り返すこと3度に及んだ。

劉氏以外で王となった者は、斉王から楚王に転封された韓信など7人であった。

恵帝2年、丞相の蕭何が死んだ。
代わって曹参が丞相に任ぜられた。

曹参は、丞相たること3年で死んだ。
呂后は、高祖の遺言のとおり、王陵を右丞相に、陳平を左丞相に立てた。
王陵も学はなかったが、まっすぐな性格であった。

恵帝は、その7年(前188)8月に死んだ。

周勃は大尉に任ぜられてはいたが、長安における兵権は、呂氏に占められた。

丞相の陳平も、大尉の周勃も、機会をうかがっていた。