宮本武蔵の史実として信じてよいのではと考えられている文献は二つある。
武蔵本人の著作とされている「五輪書」の序文と、武蔵の養子である伊織の建立した小倉碑文に刻まれた碑文。
この二つを最も信頼できる歴史的資料とするのが通例であるようだ。
武蔵の出生を直接記述した記録はない。
定説となっている天正12年にしても「五輪書」の序文の記述から割り出したもの。
「五輪書」を書き始めたのが寛永20年(1643)。
このときの年齢が60歳と書かれているので、逆算すれば天正12年(1584)生まれとなる。
その結果、関ヶ原の戦いは17歳、巌流島の決戦は29歳のときということになる。
しかし、ほかの資料が存在する。
それは武蔵の両親の墓に刻まれた年号。
武蔵の母の死亡年が天正元年と刻まれているのだ。
必然、武蔵の誕生は天正元年より前、となってくる。
そうなると、通説より12歳以上、年齢が上になってしまう。
関ヶ原は30歳で出陣、巌流島は40歳をすぎてということになる。
根拠になっている「五輪書」の序文は、後から誰かが書き加えたという説もある。
やはり、墓石に没年を偽って刻むなんて考えにくい。
「五輪書」の序文と「小倉碑文」には武蔵の出生地は播州と明記されている。
さらに、播州説を後押しする資料も発見された。
武蔵の養子である伊織が寄進した棟札で、自分が播州米堕村の出身であり、作州に養子に出されたこと。
宮本家系図が示すように伊織と武蔵は同じく田原家の出身で、ともに作州に養子に出された。
田原家は赤松家の一族である。
田原姓に変わったのは、6代前の持貞のときだった。
持貞は、播磨一国の守護職を任されるほど、将軍義持に目をかけられていた。
田原家は、後の秀吉の重臣、黒田官兵衛の家臣だった。
天正6年(1578)羽柴秀吉は毛利方の播磨三木城を攻めた。
武蔵の実父である田原家貞は前の年に亡くなっていて、武蔵の兄、久光が家を継ぎ、三木城に立てこもっていた。
田原家は黒田官兵衛の部下であるのに、秀吉側につかず、毛利方の三木城に身を寄せていたのである。
これにはお家の複雑な事情が絡んでいたらしい。
当時武蔵は6歳。
幼い武蔵も串刺しにされるかもしれない。
そんなことになったら田原家の血筋は絶えてしまう。
そこで、兄、久光は武蔵を養子に出すことにした、というのが真相らしい。
養子に出された先は、宮本無二之助だった。
無二之助は作州の地の小領主で、新免伊賀守宗貫に仕えていた。
娘はいたが、男子はなく、田原家から養子として武蔵をもらう。
元禄2年(1689)に著された「宮本村古事帳」に「宮本武二、武蔵父子がこの地に住んでいた」という記述があるとのこと。