その頃、ヨーロッパ列強の間に発達してきた資本主義経済は、植民地を求めて膨張し、過熱していた。
 日清戦争に清国が敗れ、それまで“眠れる獅子”として大国グループに入っていたものが、実は弱い国だと分かってしまった。
 ドイツは山東半島の膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは威海衛と九竜半島、ロシアは旅順、大連とその背後地である遼東半島南部をそれぞれ99年間租借した。
 これを見た日本は、三国干渉により涙を呑んで清国に還した遼東半島を、ロシアが手に入れたことに痛憤し、ロシアこそ正義の敵だと、対露戦備に拍車をかけることとなったが、清国の中でも、これら外国を排斥しようという動きが起こって来た。
 その一つは、西太后を中心とする右翼強硬路線であり、清国政府を近代化することで頽勢を立て直そうという改革派を抑え、1898年に真正面から外国排斥を打ち出した。

 北清事変で、大兵を満州に送りつけたロシアは、事変が片付いても兵を退かず、清国政府と条約を取り結んで、満州独占を画策した。