天正2年(1574)、最上義時が、兄の最上義光に反抗して兵を挙げた。
このとき、米沢の伊達輝宗が兵を動かして最上領に侵入し、天童氏や寒河江氏など山形周辺の諸氏たちもこれに応じて立ち上がり、さらには庄内の武藤義氏まで動こうとした。
しかし、伊達輝宗にはあまり進攻の意図がなく、まもなく最上義光と和して相馬氏との戦いに赴いたため、最上領内の諸氏たちも最上義時を見放して義光につき、危機は去った。
天正5年(1577)、最上義光は、天童城主の天童頼澄を攻撃して追い払い、翌天正6年(1578)には、上ノ山城主の上ノ山満兼を暗殺し、天正8年(1580)には、小国城主の細川三河の守を倒した。

天正9年(1581)6月、南部家津軽郡代の石川高信が、居城の石川城で死んだ。
津軽郡代職は、石川高信の次男の石川政信が継ぎ、浪岡城に入った。
天正10年(1582)正月、南部晴政が亡くなり、嫡男の南部晴継があとを継いだ。
しかし、それから20日余り後の同じ月のうちに、南部晴継も死んでしまった。
年はわずか13歳であった。
当然のことながら、南部の家督を誰が継ぐかが大問題となった。
三戸城に集まった南部の一族は、それぞれの思惑や利害も絡んで、石川高信の長男で南部晴政の長女の婿である田子九郎信直を推す者、九戸政実の弟で南部晴政の次女の婿である九戸実親を推す者、田子信直の弟で津軽郡代の石川政信を推す者など、意見は対立した。
しかし、このとき、一門の実力者、北信愛と八戸政栄は、熱弁をふるって田子信直を支持した。
また、北信愛は、侍百人、鉄砲百挺の実力行使で相続会議を主導した。
この2人の熱心な支持により、天正10年(1582)、田子信直は、南部家26代当主の座に就き、南部信直となった。
南部信直は、前当主の南部晴継の葬儀の帰途に狙撃されるなどしたが、家臣の総登城を命じ、命に服さぬものは叛逆者として処罰する、と布告した。
これにより、九戸実親を擁立しようと反抗を続けてきた九戸政実以下10人の武将たちも鳴りをひそめた。

天正10年、最上義光は、庄内へ兵を進めた。

当時、志和郡一帯は探題家の斯波氏が領有していたが、天正11年(1583)、南部信直は、斯波氏の重臣、河村秀重と戦ってこれを破った。

天正12年、最上義光は、谷内城主の白鳥長久を山形城に誘い込んで殺した。

天正14年(1586)には、岩井郡雫石城を攻めて、斯波氏の支族、雫石氏を滅亡させた。
斯波氏は、南部信直の激しい南下侵略により次々に領地を失っていった。

天正15年(1587)、最上義光は、庄内に攻め込んで武藤義興を敗死させ、庄内領有に成功した。
このとき、庄内を侵した最上義光に対して、義光の甥で米沢城主の伊達政宗が、武藤慶興の頼みを受けて仲裁に入ってきたが、義光は表面では政宗の仲裁を受けて油断させ、不意に軍をもよおして庄内へ侵入したのだった。
伊達政宗は、「面目丸つぶれ、筆に尽くし難い」と激怒した。
天正15年、豊臣秀吉は、全国に令して諸大名の私闘を禁じた。
天正16年(1588)正月、大崎氏の領内で反乱が起こった。
伊達政宗は反乱軍を助け、最上義光は本家の大崎氏に味方した。
こうして両雄は、戦場で相まみえることとなったが、結局和睦となった。
最上義光は、庄内を手中に収めたが、代官の統治がつたなく、民心の支持を失いつつあった。
天正16年5月、豊臣秀吉は、最上義光と上杉景勝の抗争を停止するよう命じてきた。
天正16年(1588)、武藤義興の遺児、武藤義勝らが上杉景勝と結び土民の協力を得て奪回に乗り出し、最上義光は十五里原の合戦で敗退して庄内を手放すこととなった。

天正16年(1588)3月、南部信直の弟で津軽郡代の石川政信が急死すると、津軽郡代執事職の大浦為信は、信直に反感を持っていた秋田氏や南部氏の支族九戸政実と内通して反乱を起こした。
大浦為信の謀叛に激怒した南部信直は、九戸政実に先陣を命じて兵を出そうとしたが、既に為信に内通していた政実は病気を理由に動こうとはしなかった。
仕方なく南部信直は、根城の八戸政栄を反乱鎮圧に向かわせたが、七戸・久慈・大里・大湯氏らは、九戸政実同様動こうとしなかった。
天正16年(1588)7月、斯波氏は、南部信直に高水寺城を占領され滅亡した。
主家の滅亡により斯波氏の家臣らは、ほとんど抵抗することなく南部信直に降り、豊穣な平野部地域は、すべて南部氏の所領となった。
天正16年から17年にかけて、南部信直は、閉伊郡に進出し、さらに比内郡、鹿角郡にも勢力範囲を広げていった。

天正18年(1590)3月、大浦為信は、浪岡城を急襲してこれを手中にした。