劉備の戦いでもなく、諸葛亮の戦いでもない。
蜀が滅亡までに至る間、宿敵・魏に対して戦いを挑み続けた武将がいた。
その名は、姜維、字は伯約。
これは、最後は蜀の大将軍にまで昇り詰め、凄絶に生き抜いた男の軌跡である。
234(12)年秋8月、諸葛亮が渭浜で亡くなった。
征西大将軍魏延と丞相長史楊儀が指揮権を争って協調せず、兵を挙げて互いに攻撃し合い、魏延が敗走した。
魏延が反乱を起こしたとき、一度の戦いで撃ち破ったのは討冦将軍で亭侯の王平の手柄である。
魏延の首を斬り、楊儀は諸軍を統率して成都に帰還した。
大赦が行われた。
高陽郷侯で左将軍の呉壱は、車騎将軍・仮節・漢中の都督となり、雍州刺使を兼任し、済陽侯に爵位を上げられた。
丞相留府長史の蔣琬を尚書令とし、国事を統括させた。
235年春正月、中軍師楊儀が免職となって漢嘉郡に流された。
夏4月、蔣琬の位を上げて大将軍とした。
236年、劉禅が武都の氐族の王苻健と氐族の民四百戸余りを広都に移住させた。
237(15)年、済陽侯で車騎将軍の呉壱が、死去した。
この年、漢中太守、後典軍・安漢将軍で亭侯の王平が、安漢侯に爵位を上げられ、車騎将軍の呉壱に代わって漢中の総指揮官となった。
238(延煕元)年、大赦を行い、年号を改めた。
この劉璿を立てて太子とし、子の劉瑶を安定王とした。
冬11月、大将軍の蔣琬が出陣して漢中の沔陽に駐屯した。
その際、尚書僕射で平陽亭侯の李福は、前監軍として司馬を兼任したが、死去した。
また、安漢将軍の王平はあらためて前護軍となり、蔣琬の幕府の事務を司った。
また、右監軍・輔漢将軍で平襄侯の姜維は、大将軍蔣琬に随行して漢中に駐屯した。
前領軍で関内侯の張翼が、尚書となった。
239年春3月、蔣琬の位を上げて大司馬とした。
240年春、越嶲太守の張嶷に越嶲郡を平定させた。
姜維VS郭淮
この年(魏正始元年)、司馬で輔漢将軍の姜維が隴西に出陣した。
魏の雍州刺史で建威将軍の郭淮は軍を進めて、彊中まで追撃し、姜維は退却した。
そのまま羌族迷当らを討伐して、従順な氐族3千余集落を鎮撫し、移住させて漢中を充実させた。
241年冬10月、尚書令の費褘が漢中に行き、蔣琬と計策を相談したが、年末になったため帰還した。
242(延煕5)年春正月、監軍の姜維が一軍を率いて、漢中より涪県に帰り駐屯した。
この年、尚書僕射の姚伷が、死去した。
243(延煕6)年冬10月、大司馬蔣琬が漢中より帰途につき、涪に滞留した。
このとき、王平を前監軍・鎮北将軍に任命し、漢中の指揮を執らせた。
11月、大赦が行われた。
尚書令費褘を大将軍とした。
この年、侍中で虎賁中郎将の董允が、輔国将軍の官位を加えられた。
この年、司馬の姜維が鎮西大将軍に昇進し、涼州刺史を兼任した。
この年、前軍師・前将軍、兗州刺史、陽武亭侯、督江州の��芝が、任地で辞令を受けて車騎将軍に昇進した。
244年閏月、魏の大将軍曹爽・夏侯玄らが蜀討伐のため漢中に向かったとき、雍州刺史で前将軍の郭淮は諸軍を指揮して先鋒となった。
蜀の鎮北大将軍王平が興勢囲で抵抗し、大将軍費褘が諸軍を統率して救援に駆けつけたため、前将軍の郭淮は形勢不利と判断し、魏軍は撤退した。
夏4月、安平王の劉理が亡くなった。
秋9月、費褘が成都に帰還した。
この年、輔国将軍の董允が、侍中守尚書令の官位のまま大将軍費褘の次官となった。
245年12月、大将軍費褘が漢中に行き、守備の陣営を視察した。
246年夏6月、費褘が成都に帰還した。
秋、大赦が行われた。
冬11月、大司馬蔣琬が亡くなった。
この年、侍中守尚書令で輔国将軍の董允が、逝去した。
247(延煕10)年、姜維は衛将軍に昇進し、大将軍費褘とともに禄尚書事となった。
この年、汶山郡平康県の蛮族が反乱したので、姜維は軍勢を率いて討伐に赴き、これを破って平定した。
姜維VS郭淮、夏侯覇
隴西・南安・金城・西平の諸羌族餓何・焼戈・伐同・餓遮塞らが結託して魏に反乱を起こし、城邑を攻撃包囲し、南方から蜀の兵を招いた。
涼州の蛮族の名家治無戴もまた魏に反乱を起こしてこれに呼応した。
討蜀護軍の夏侯覇は諸軍を指揮して為翅に駐屯した。
郭淮の軍が最初狄道に到着したとき、論者は皆、先に枹罕を討って平定し、内は暴悪な羌族を平らげ、外は賊の計画をうち砕くべきだ、と主張した。
郭淮は、姜維が必ず押し寄せて夏侯覇を攻撃すると判断し、そのまま渢中に入り、南に転じて夏侯覇を迎えた。
姜維ははたして為翅を攻撃したが、ちょうど郭淮の軍が到着したので、姜維は逃走した。(第1回)
追撃して反乱の羌族を討伐し、餓何・焼戈を斬った。
降伏する者は一万余の集落にのぼった。
この年、侍中の宗預が、屯騎校尉となった。
248年、蛾遮塞らは河関・白土の古城に駐屯し、河を根拠として抵抗した。
郭淮は上流地域で行動すると見せかけておき、ひそかに下流から兵を渡し白土城を占拠し、攻撃して大いにこれを撃ち破った。
治無戴は武威を包囲したが、その家族は西海に留まっていた。
郭淮は軍を進めて西海に赴き、襲撃してその妻子を奪取せんとした。
たまたま治無戴が敗れて帰途についたので、彼と龍夷の北で戦い、敗走させた。
令居の蛮人が石頭山の西に居を構え、街道に出て、王使を絶っていた。
郭淮は帰途立ち寄って討伐し、これを大いに撃ち破った。
姜維、廖化VS郭淮、夏侯覇
涼州の蛮王白虎文・治無戴らが全集落をあげて蜀に降伏してきた。
衛将軍姜維は石営に出陣し、彊川を通り、西方に向かって治無戴らを出迎えて慰撫し、陰平の太守廖化を成重山に留めて城を築かせ、敗れた羌族から確保していた人質を収容した。
郭淮は兵を分けてこれを奪取せんとした。
諸将は、
「姜維の軍勢は西方の強力な蛮族と接しており、廖化が要害を占拠している。軍を分けて西方に対処すれば兵の勢力を弱化させ、進んでは姜維を制御し得ず、退いては廖化を陥落し得ず、計画としては成り立たない。兵力を結集して西方に向かい、蛮族と蜀がまだ連絡しないうちに、その内と外を遮断する方がよい。これこそ連合している敵を討伐する戦である」
と主張した。
郭淮は言った。
「今、出かけていって廖化を落とし、賊の不意をつけば、姜維は必ず狼狽する。姜維が自分で駆けつける頃には、廖化を平定できるであろう。そのうえ姜維をして奔命に疲れさせる結果となる。兵を遠くまで征西させずとも、蛮族との連合は自然と離れる。これこそ一挙両全の策である。」
そこで別に夏侯覇らを派遣して、沓中に姜維を追わせ、郭淮は自身で諸軍を率いて廖化の元へ行き攻撃した。
姜維ははたして馳せ帰って廖化を救った。
郭淮は都郷侯に昇進した。
姜維は、白虎文・治無戴らをつれて帰還して、繁県に居住させた。
この年の夏5月、大将軍費褘が出陣して漢中に駐屯した。
秋、涪陵郡の属国都射管轄下の民衆が反乱を起こしたので、車騎将軍の��芝が討伐に赴き、すべて撃破してこれを鎮圧した。
249年春正月、魏が大将軍の曹爽らを処刑したため、右将軍の夏侯覇らが来降した。
この年、前将軍の郭淮が、征西将軍・都督雍涼諸軍事に昇進した。
夏4月、大赦が行われた。
姜維、句安、李歆VS郭淮、陳泰、徐質、��艾
秋、衛将軍姜維は軍勢を引き連れ麴山を利用して二つの城を築き、牙門将句安・李歆らにそれを守備させ、羌族の人質などを集めて諸軍に進入したり威圧をかけたりした。(第2回)
征西将軍・都督雍涼諸軍事の郭淮は、雍州刺史で奮威将軍の陳泰にそれを防御する手段について相談した。
陳泰は言った。
「麹城は堅固ではありますが、蜀から険しい道を隔てて遠く離れており、当然兵糧の運送を期待しなければなりません。羌族は姜維の労役を厄介がっており、積極的に味方をしていないに違いありません。今、包囲してそれを奪えば、刃を地に濡らさずにその城を陥落できましょう。彼らに救援があったとしても、山道は険阻で、兵を動かせる土地ではございません。」
郭淮は陳泰の計略に従い、陳泰に討蜀護軍の徐質、南安太守で参征西軍事の��艾らを統率させ、軍を進めて彼らを包囲させ、その運送路と城外の流水を断ち切らせた。
句安らが戦いを挑んでも応戦を許さなかったので、将兵は困窮し、食料を配分し、雪を集めて月日を引き延ばした。
姜維は予想どおりに救援に来、牛頭山から出て陳泰と対峙した。
陳泰は「兵法では戦わずに敵を屈服させることを高く評価する。今、牛頭の道を断ち切り、姜維の帰路が無くなれば、我々の虜になる」と言い、諸軍に各自砦を固めて戦いを交えてはならぬと命令した。
使者を遣って郭淮に進言し、自分は南方に進んで白水を渡り、水路に沿って東に向かうつもりだから、郭淮は牛頭へ向かい、その帰路を遮ってほしい、ただ句安らだけでなく姜維も併せて捕らえるべきだと述べた。
郭淮はその策に賛成し、諸軍を率いて進み、洮水に軍を置いた。
姜維は恐れて逃走したので、牙門将句安と李歆は孤立無援となり、かくて全員が魏に降った。
姜維が退却すると、郭淮はそれにつけ込んで西方の羌族攻撃に向かった。
��艾は、
「賊軍はまだ遠くまで行っておりませんから、引き返してくるかも知れません。諸軍を分けて思いがけぬ事態に備えるのが適当かと存じます」
と述べた。
その結果、��艾を留めて白水の北に駐屯させた。
三日後、姜維は廖化を派遣し、白水の南から��艾に向かい陣を構築させた。
��艾は諸将に対して言った。
「姜維が今、突如引き返してきたのに、我が軍は少人数だ。戦法から言っても当然渡河してくるべきなのに橋を造ろうとしない。これは、姜維が廖化を我が軍と対峙させ、帰れなくさせておき、姜維自身は東へ向かい洮城を襲い取るつもりに違いない。」
洮城は白水の北にあり、��艾の陣営から60里離れていた。
��艾はその夜、ひそかに軍を動かし、直行した。
姜維は予想どおり渡河して押し寄せたが、��艾が先に着いて城に立て籠もったため、敗北せずにすんだ。
関内侯の爵位を賜与され、討冦将軍の号を加えられた。
この年、鎮南将軍で彭郷侯の馬忠が亡くなり、子の馬脩が後を継いだ。
この年、鎮北将軍の王平が亡くなり、子の王訓が後を継いだ。
250年、姜維は再び西平に出撃したが、勝利を得られず帰還した。(第3回)
251年夏、大将軍費褘が成都に帰った。
冬、再び北方に赴き漢寿に駐屯した。
大赦が行われた。
この年、車騎将軍、兗州刺史、陽武亭侯、督江州、仮節の��芝が、死去した。
252年、呉王孫権が逝去した。
子の劉��を立てて西河王とした。
253(16)年春正月、大将軍費褘が魏の降人郭循によって、漢寿で殺害された。
姜維VS陳泰
夏4月、衛将軍姜維が数万の軍勢を率いて石営に出、董亭を経て、南安を包囲したが、魏の雍州刺史・奮威将軍陳泰が包囲を解かんとして洛門に到達し、姜維は兵糧が尽きて撤退帰国した。(第3回)
254(17)年春正月、姜維が成都に帰還した。
大赦が行われた。
姜維が督中外軍事の官位を加えられた。
姜維VS徐質
魏の狄道を守備していた県長の李簡が密書をよこして降伏を願い出た。
夏6月、衛将軍の姜維は盪冦将軍の張嶷ら軍勢を率い、李簡の軍資を頼みとして隴西に出陣した。(第4回)
狄道に到着すると、李簡は城下の吏民を率いて軍を出迎えた。
軍を進めて襄武を包囲して、魏の将徐質と合戦し、張嶷は陣中で落命したが、徐質の首を斬り、味方の損害の倍以上の敵兵を殺傷し撃ち破ったため、魏軍は敗退した。
冬、狄道・河関・臨洮三県を陥落させてその住民を緜竹県と繁県に居住させた。
255(18)年春、衛将軍姜維が、征西大将軍で都亭侯の張翼とともに成都に帰還した。
この年、魏の車騎将軍・都督雍涼諸軍事の郭淮が逝去し、大将軍を追贈された。
郭淮が逝去すると、陳泰は代わって征西大将軍・仮節都督雍涼諸軍事となった。
姜維、夏侯覇、張翼VS陳泰、王経、��艾、胡奮、王秘
(魏の毋丘倹・文欽の反乱に乗じて出兵す)
姜維が再度の出兵を提議したとき、ただ張翼だけが朝議の席で反対論を述べ、国家の弱小と民衆の労苦を根拠に、みだりに武力を行使してはならないと主張したが、姜維は聞き入れなかった。
夏、姜維がまた車騎将軍夏侯覇、征西大将軍の張翼らとともに諸軍を率いて狄道に出撃した。(第5回)
雍州刺史の王経は陳泰に進言して「姜維と夏侯覇が三つの街道から祁山・石営・金城に向かおうとしているから、兵を為翅に進め、涼州の軍を枹罕に行かせ、討蜀護軍を岐山に向かわせたい」と述べた。
陳泰は「賊の勢いからして絶対に三つの道を進むことは不可能だ。そのうえ軍の勢力を分散させることは避けるべきだし、涼州の境界を越えるのは適当でない」と判断し、王経に答えた。
「定期の報告書を検討し、ご趣旨は承知した。東西の勢力が号するのを待ってから進軍しよう。」
そのとき姜維らは数万人を引き連れて枹罕まで来、狄道に向かった。
陳泰は王経に軍を進めて狄道に駐屯し、軍の到着を待ってから計画によって彼らを攻略することを命令した。
陳泰は陳倉に軍を進めた。
たまたま王経配下の諸軍は古い関所のあたりで蜀軍と戦闘を交え負け戦となった。
王経はすぐに洮水を渡った。
陳泰は王経が狄道を占拠して固めないことから別の変事が起こるに違いないと判断し、五軍営の兵をすべて派遣して前を行かせ、陳泰は諸軍を率いてそれに続いた。
姜維は王経と洮西で戦い、大いにこれを撃ち破った。
王経の軍勢の死者は数万人に及んだ。
王経は一万余人を連れて引き返し、狄道城に立て籠もったが、他の兵は皆散り散りになって逃げた。
張翼が、
「留まるべきです。これ以上進攻してはなりません。進攻すれば、あるいはこの大殊勲に傷を付けることになるかも知れません」
と言うと、姜維は多いに腹を立てた。
「蛇の絵を描いて足を書き加えるようなものですぞ」と言った。
姜維は結局、勝利に乗じて狄道城にいる王経を包囲した。
陳泰は王経が包囲されたと聞いたとき、州軍の将兵が平素から皆心を一つにしており、それに加えて城を保持する力があるから、姜維が急に陥れられるものではないと考えた。
軍を進め夜を日に継いで、早急に到着する旨上奏文を奉った。
多数の人の意見では、
「王経は逃走し、城は固守する力はない。姜維がもし涼州への交通路を遮断し、四郡の人民・蛮族を併せ、関・隴の要害を占拠すれば、王経の軍を全滅させ、隴西を攻略できるであろうから、大軍が四方から集結するのを待って、それから攻撃討伐を行うのが適当である。」
と考えた。
大将軍の司馬昭は言った。
陳泰は上邽に軍を置き、兵を分けて要所を守らせると、夜を日に継いで前進した。
行安西将軍の��艾・胡奮・王秘もまた到着したので、さっそく��艾・王秘らと兵を分けて三軍とし、進軍して隴西に到達した。
��艾らは主張した。
「王経の精鋭兵は西方で敗北を喫し、賊の軍勢はたいそう勢いづいております。勝利に乗じた軍は敵対することが難しい上に、将軍は烏合の兵を率い、敗軍の後を受け、将兵は気力を失い、隴西はひっくり返っております。古人は『蝮蛇が手をさせば、ますらおはその腕を切り離す』と言っており、『孫子』には『敵軍も攻撃してはならない場合があり、土地も守ってはならない場合がある』とあります。つまり小さい所で損失があっても大きな所で安全を保ちうるからです。今、隴西の害毒は蝮蛇よりも甚だしく、狄道の地は別に守っていないと言うわけではございません。姜維の軍は、それこそ避けるべき鋭い勢いがあります。要害の地を切り取って安全を保ち、隙をうかがい衰えるのを待って、その後で進軍して救助するのです。これが計略のうち最適のものです。」
陳泰は言った。
「姜維は軽装の兵をひっさげ深く侵入しており、まさしく我が軍と原野で鉾先を争い、一戦の勝利を求めようと願っている。王経は城壁を高くし、砦を深くして、その鋭気をくじくべきであったのだ。それなのに今、戦を交えたのだから、賊は計略どおりにいき、王経を敗走させ、狄道に閉じこめたのだ。もし姜維が戦勝による武威を示しつつ兵を進めて東に向かい、櫟陽に蓄積された十分な穀物をよりどころとし、兵を放って降伏者を収容し、羌族を招いて味方につけ、東方で関・隴の地を争い、四つの郡に檄文を飛ばすことにでもなれば、それこそ我が軍にとってやっかいなこととなる。ところが姜維は勝利に乗じた軍をもって、険固な城の下で頓挫しており、鋭気を持った兵卒は、力をくじかれ命を投げ出している。攻守の形勢が変わって、主客転倒したのだ。兵書に『櫓や轒轀を整え、三カ月かかってやっと完成し、土塁は三カ月たった後にやっと土盛りを終わる』とある。実際、軽装の軍をもって深く侵入しているのだから、姜維の人を欺く策略でも早急に用意できるものではない。本拠地を遠く離れた軍は、糧食がつながらないもので、今こそ我が軍が直ちに進撃し賊を撃ち破るときである。いわゆる『急な雷鳴は耳をふさぐひまがない』というやつで、自然の勢いである。洮水がその外を巡り、姜維らはその中にいる。今、高所に登り、有利な地勢を占め、敵の首根っこに臨めば、戦わずとも必ず逃走する。侵略者を野放しにするわけにはいかぬし、包囲を長く放置するわけにはもいかぬ。君らはどうしてこのような言を吐くのだ。」
かくて軍を進めて高城嶺を越え、こっそり行動して、夜に狄道の東南にある高い山の上に到達した。
たくさん狼煙を上げ、太鼓と角笛を鳴らした。
狄道の城中にいる将兵は救援の到着を見て、皆、心を高ぶらせ躍り上がった。
姜維は最初、救援の魏軍は軍勢の集結を待ってから出発するに違いないと思っていた。
ところが突然もう到着していると聞き、前から練られた奇計があるものと思いこみ、上も下もふるえおののいた。
軍が隴西を出発してから、山道は深く険しかったので、蜀軍は必ず伏兵を設けていると考え、陳泰は南道を通る振りをした。
姜維は予期どおり三日の間伏兵を置いていた。
正規軍はひそかに行動し、突然その南に姿を現した。
姜維はそこで山によりそいながら突撃してきた。
陳泰は姜維と交戦し、姜維は涼州に引き退いたが、軍は金城を通って南に向かい沃干阪に到達した。
陳泰は王経とともに内密の約束を交わし、一緒にその帰路に向かうことにしていた。
姜維らはそれを聞くと引き退いて鐘題(提)に留まり、城中の将兵は外に出ることができた。
王経は歎息して言った。
「食糧はあと十日分にも足りませんでした。先に危機に瀕したとき救援に来てくれなかったら、城を挙げて壊滅し、一州を喪失したでしょう。」
陳泰は将兵を慰労し、前後に分けて帰還させ、あらためて軍兵を選んで守備につけ、同時に城壁を修理させると、帰還して上邽に駐屯した。
そこで行安西将軍の��艾を安西将軍・仮節領護東羌校尉に任命した。
256(19)年春、遠征先において姜維の位を進めて大将軍とし、兵馬の指揮を執らせた。
姜維VS��艾
魏の多くの論者は、姜維の力は尽きているから再度の出撃はないと主張したが、��艾は言った。
「洮西の敗戦は小さな失敗ではない。軍は敗れ将は殺され、米倉は空になり、住民は流浪することとなり、ほとんど危機滅亡の状態と言ってよい。今、作戦の点から言えば、敵には勝ちに乗ずる勢いがあり、我が方には虚弱な体質がある。これが第一の点だ。
敵は上下ともによく訓練されていて、武器も鋭利であるが、我が方は将軍が交替し兵卒も新たに派遣されてきた者で、武器もまだ不十分なままである。これが第二の点だ。
敵は船によって行動し、我が方は陸地を行軍してきたのだから、苦労は同じではない。これが第三の点だ。
狄道・隴西・南安・祁山には、それぞれ守備を置かなければならない。敵が一方に集中できるのに対して、我が方は四箇所に分散することになる。これが第四の点だ。
南安・隴西に向かえば、羌族に食料を頼ることになるが、もし祁山へ向かえば、千頃に渡って成熟した麦がある。それが敵をつる餌となるだろう。これが第五の点だ。
賊軍はこざかしい策略を労するから、その来攻は間違いない。」
しばらくして、姜維は戦闘準備を整え、予想どおり祁山へ向かったが、��艾が既に備えをしていると聞くと、方向を変えて董亭を通って南安へ進んだ。(第6回)
��艾は武城山に立て籠もって対峙した。
姜維は��艾と要害の地を占拠せんと争ったが勝利を得られなかったので、その夜、渭水を渡って東へ進み、山に沿って上邽へと向かった。
鎮西大将軍の胡済と示し合わせて上邽で落ち合う手はずであったが、胡済は約束を破ってやって来なかった。
このため、秋8月、姜維は��艾と段谷において戦って撃ち破られ、軍兵は散り散りになって逃げまどい、多大な戦死者を出した。
姜維は軍勢を撤退させて成都に帰った。
そのため、人々は非常に怨み、隴以西の地でも騒乱が起こり不安定になった。
姜維は過ちを謝し責めを負って、自ら官を下げてほしいと願い出、後将軍・行大将軍事となった。
この年、子の劉瓚を立てて新平王とした。
この年、安平王劉胤が死去した。
大赦が行われた。
この年、安西将軍の��艾は、鎮西将軍・都督隴右諸軍事に任命された。
姜維、楊戯VS司馬望、��艾
(魏の諸葛誕の反乱に乗じて出陣す)
257(延煕20)年、魏の征東大将軍諸葛誕が、漢中の兵を分けて東方へ下り、寿春を根拠地として反逆した。
姜維はその挙に乗じて秦川へ向かおうと欲し、射声校尉の楊戯ら数万の軍勢を率いて駱谷に出、沈嶺に到達した。(第7回)
当時、長城には大変多くの穀物が貯蔵されていたのに、魏の守備兵は少数であったので、姜維がやって来たと聞き、人々は恐れおののいた。
魏の大将軍の司馬望が守備に当たり、鎮西将軍の��艾もまた隴右より駆けつけ、皆長城に陣を張った。
姜維は前進して芒水に駐屯し、すべて山を利用して陣営を築いた。
司馬望、��艾は渭水に沿って防御の砦を固めた。
姜維は何度も戦いを挑んだが、二人は応戦しなかった。
射声校尉の楊戯は、平素から姜維に心服していなかったため、酒が入った後の談笑の席で、いつも嘲笑的な言辞を吐いた。
姜維は表面は寛大な態度をとってはいたが内心では嫌悪し、耐え難い気持ちを抱いていた。
この年、大赦が行われた。
この年、安平王劉殤が死去した。
この年、鎮西将軍の��艾は、征西将軍に昇進した。
258(景耀元)年、姜維は諸葛誕の敗北を聞くと、引き退き成都に帰還した。
軍が帰還すると、姜維の意を受けた担当官吏が、射声校尉の楊戯を上訴し、免官して庶民に落とした。
史官が景星が現れたと言上し、そのため大赦が行われ、年号が改められた。
侍中守尚書令で鎮軍将軍の陳祗が逝去した。
宦官の黄皓が初めて政治権力を握った。
259(景耀2)年夏6月、子の劉�遒鯔銘浪Δ法⇔�恂を新興王に、劉虔を上党王に立てた。
この年、鎮南大将軍の張翼が左車騎将軍に昇進し、冀州刺史を兼任した。
261年冬10月、大赦が行われた。
この年、諸葛瞻が行都護衛将軍となり、輔国大将軍・南郷侯の董厥とともに平尚書事となった。
262(景耀5)年春正月、西河王劉��が亡くなった。
姜維VS��艾
この年、大将軍の姜維は軍勢を率いて侯和に出たが、��艾に撃ち破られ、引き返して沓中に駐屯した。(第8、9回)
司馬昭は、姜維がしきりに国境地帯を騒がしていることから、蜀の国土は小さく人民は疲弊し、財力も尽き果てたと計算し、大挙して蜀を片づけようと考えた。
司隷校尉の鐘会の方でも蜀を取れると判断していたので、前もって両者で地形を調査し、状況を検討していた。
この年の冬、鐘会を鎮西将軍・仮節都督漢中諸軍事に任命した。
司馬昭は青・徐・兗・豫・荊・揚の諸州に命じて、ともに船を建造させ、同時に唐咨に海上用の大型船建造を命じ、表向きは呉討伐の準備と見せかけた。
姜維、諸葛瞻、張翼、廖化、董厥VS��艾、鐘会、諸葛緒
263年秋、魏の諸軍に蜀征討の詔勅が下った。
大将軍司馬昭が全指揮を執り、征西将軍��艾・雍州刺史諸葛緒にそれぞれ諸軍三万余人を指揮し、��艾は甘松・沓中に向かい姜維と全戦線に渡って対峙せよ、諸葛緒は武街・橋頭に向かい姜維の帰路を断てと命じられた。
鎮西将軍鐘会は十余万の軍勢を指揮して斜谷・駱谷を通って侵入することになった。
まず牙門将の許儀に命じて先発隊として道路を整備させ、鐘会は後から続いたが、橋に穴があき、馬の足が陥ち込んだ。
そのため許儀を斬った。
許儀は、武衛将軍であった許褚の子で、王室に勲功があったが、それでも容赦しなかった。
諸軍の将兵はそれを聞いて、ふるえおののかない者はなかった。
蜀は包囲の諸軍に命じて戦うことを許さず、引き返して漢と楽の二城を守備させた。
魏興太守の劉欽は子午谷へと向かい、諸軍は数本の街道を同時に進軍し、漢中へ到達した。
蜀の監軍王含が楽城の守備に当たり、綏武将軍・漢城護軍の蔣斌が漢城の守備に当たっており、それぞれ五千の兵を抱えていた。
蔣斌は、大司馬であった蔣琬の子である。
鐘会は護軍荀��と前将軍李輔にそれぞれ一万人を指揮させ、荀��に漢城を、李輔に落城を包囲させた。
……………………………………………………………………………………
��艾は天水太守の王頎らに命じて真っ直ぐに姜維の陣営に突き進ませ、隴西太守の牽弘らにその手前で待ち受けさせ、金城太守の楊欣らを甘松に差し向けた。
姜維は鐘会の諸軍が既に漢中に侵入したと聞くと、引き退いて帰国の途にのぼった。
また、劉禅は、左右の車騎将軍張翼と廖化、輔国大将軍の董厥らを漢中へ派遣して防がせようとした。
大赦が行われた。
楊欣らは彊川口まで追跡して大会戦を行った。
姜維は敗走したが、諸葛緒が既に帰路を塞いで橋頭に駐屯していると聞き、孔函谷を通って北道に入り、諸葛緒の後ろへ出ようとした。
諸葛緒はそれを聞くと、三十里後戻りした。
姜維は北道に入って三十余里進んだところで、諸葛緒の軍が後戻りしたと聞き、すぐに引き返して橋頭を通過した。
諸葛緒は急いで姜維の退路を遮ろうとしたが、一日遅く間に合わなかった。
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鐘会はそのまま通過して西方の陽安口へ出ると、人を遣って諸葛亮の墓の祭祀を行わせた。
護軍胡烈らに命じて先行させ、関城を打ち破って倉庫に蓄積されていた穀物を手に入れた。
姜維は沓中から東へ引き揚げ、陰平に辿り着き、軍勢を集結し、関城へ駆けつけんとしたが、到着する前に、関城が既に敗れたとの情報を得、退いて白水へと向かい、張翼・廖化らと兵を合わせ、剣閣を守備して鐘会に抵抗した。
諸葛緒も軍を進めて白水に向かい、鐘会と出会った。
鐘会は諸葛緒の軍と剣閣に向かった。
鐘会は軍勢を独占したいと思い、「諸葛緒が怖じ気づいてひるみ前進しない」と内密に告発したので、囚人護送車によって召還され、軍はすべて鐘会に帰属した。
鐘会は前進して剣閣の姜維を攻撃したが勝てず、引き退いた。
蜀軍は要害に立て籠もって守りを固め抵抗した。
鐘会は蜀の将兵・官民に布告を発した。
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��艾は姜維を追撃して陰平に到達すると、上奏して述べた。
冬10月、��艾は、精鋭の兵を選んで、陰平の街道から無人の地を七百余里に渡って行軍した。
山に穴をあけて道を通じ、橋を架けた。
山は高く谷は深く、作業は困難を極めた。
また兵糧輸送も行き詰まり、危機にさらされた。
��艾は毛氈で自分の身体を包み、転がって下った。
将兵は皆木に掴まり崖をよじ登り、相連なって進んだ。
鐘会は将軍の田章らに命じて剣閣の西を通って江由へ出る道をとらせた。
江由の手前百里の地点で、田章は蜀の伏兵三部隊を撃破した。
先陣が江由に到達すると、蜀の守備隊長馬邈は降伏した。
��艾は陰平から景谷道を経、漢徳陽を通って江由・左儋道へ入り、冬、緜竹へ辿り着いた。
蜀の衛将軍の諸葛瞻は諸軍を率いて涪に赴き駐留していたが、先鋒隊が敗北したので、緜竹県へ引き返し、陣を連ねて��艾を待ち受けた。
��艾は手紙を送り、諸葛瞻を誘って「もしも降伏したならば、必ず上表して瑯邪王に取り立てよう」と言ってきた。
諸葛瞻は激怒し、��艾の使者を斬った。
かくて��艾は子の恵唐亭侯��忠に敵の右陣を、司馬の師纂に左陣を攻撃させた。
��忠・師纂は戦いに負け、いずれも退却してきて、「賊はまだ攻撃不可能です」と言った。
��艾は腹を立て、
「存亡の分かれ目は、この一戦にかかっているのだ。どこに不可能などということがある。」
と、��忠・師纂を怒鳴りつけ、斬罪に処そうとした。
��忠と師纂は馳せ戻ってもう一度戦闘を交え、敵をさんざんに撃ち破って、諸葛瞻と尚書張遵らの首を斬った。
時に37歳。
軍勢は散り散りになって逃亡した。
諸葛瞻の長男諸葛尚は、父とともに戦死した。
��艾は田章に先鋒を命じ、長駆し進んだ。
姜維らは諸葛瞻が既に敗れたと聞くと、部下を率いて東に向かい、巴に入った。
鐘会はそこで軍を進めて涪まで来ると、胡烈・田続・龐会らを派遣して姜維を追撃させた。
��艾は軍を進めて成都に向かった。
劉禅は、光禄大夫の譙周の策を用いて、��艾に降伏することを決定した。
��艾が雒まで来ると、劉禅が使者に皇帝の玉璽と綬を奉げ持たせて��艾の元に出頭させ、降伏文書を差し出した。
この日、北地王劉�遒�国の滅亡を傷んで、まず妻子を殺し、ついで自殺した。
劉禅は��艾の元に赴いて降伏すると、使者を派遣して姜維らに命じ、鐘会に降伏させた。
姜維は広漢郡の?県まで来ると、兵士に命じて武器類をすべて捨てさせ、割符などを胡烈の元に送ると、すぐさま東の街道を通って鐘会の元に赴き降伏した。
鐘会は上奏して述べた。
鐘会はこのとき部下たちを厳しく取り締まって略奪を許さず、虚心な態度で呼びかけて蜀の官僚たちを受け入れ、姜維とは極めて親密な間柄となった。
��艾が成都に到着すると、劉禅は太子・諸王及び群臣64人を引き連れ、手を後ろに縛り棺桶を担いで軍門に出頭した。
十二月、詔勅が下った。
264(咸煕元)年正月、鐘会が成都で反乱を起こし、劉璿、張翼は乱兵のために殺害された。
春、廖化、宗預はともに洛陽に移住させられたが、途中で病気のために亡くなった。