魏主曹芳は司馬懿を丞相に封じ、九錫を加えたが、司馬懿は謙遜してどうしても受けようとしない。
曹芳は許さず、父子共々に国事を司るよう命じた。
二人の息子も重任を授かり、司馬懿は感謝して家へ戻ったが、ふと思い起こした。
《曹爽の家族は残らず誅したものの、夏侯覇が雍州などの地を守備しており曹爽の親戚である。もし親族の情義より、にわかに謀反を起こしたならば、いかに防備したものか。これは早く片をつけずばなるまい》
すぐさま使者を雍州に差し向け、征西将軍夏侯玄に、評定のため上洛するよう命じた。
夏侯玄は曹爽のいとこである。
このとき夏侯覇は、ちょうど雍州にいて、要所を固めていたが、甥の夏侯玄を司馬懿が都へ召し上せたと聞くや、肝をつぶし、恐れるあまりに疑念を抱き、あわてて手勢三千をもって謀反した。
雍州刺史郭淮は、夏侯覇の謀反を知るや、直ちに手勢を率いて押し寄せ、馬を乗り出して、
「貴様は大魏の王室につながり、天子も貴様に恨みを買うような仕打ちをなされもせぬのに、何故あって謀反した」
と、さんざんに悪態をつけば、夏侯覇もののしり返す。
「儂の父は国に随分と手柄を立てたに、司馬懿の下郎めが、曹爽兄弟を亡き者にし、その一族を平らげて、何と親子三人、国政をその手に握り、この儂をも捕まえようとする。遅かれ早かれ謀反して帝位を狙う料簡に違いないわ。儂が今、義によって賊を討ってくれる。この儂を謀反呼ばわりするとは洒落臭い」
郭淮は腹に据えかね、槍をひねり馬を飛ばして、まっすぐ突いて掛かった。
夏侯覇も馬の勢い激しく、刀を振りつつ立ち向かったが、十合も切り結ばず、郭淮は逃げ出した。
夏侯覇がその後を追うて行くうち、後詰めの方からわっと声が起こり、急ぎ馬を返すと、陳泰の軍勢がどっと押し寄せ、郭淮も引き返してきた。
前後より挟み撃ちにされ、夏侯覇は大敗して逃げたが、手勢の大半を失い、思案に暮れて、遂に漢中に向かい、蜀に降伏した。
その知らせを受けた姜維は、心にあやしみ、人をやり真偽の程を十分に聞きたださせて実情がわかったので、城内に引き入れた。
挨拶が終わると、夏侯覇は涙ながらに事の次第を物語った。
姜維は、
「昔、微子は周の国に去り、万代にその名を伝えた。貴公が漢室をお扶けなさるとあれば、古人に恥ずるところはござらぬ」
と、宴を設けてもてなした。
かくて姜維は夏侯覇を案内して成都に至り、参内して劉禅に目通りすると、言上するには、
「司馬懿は、計りごとをもって曹爽を殺し、次に夏侯覇をたばかろうとしましたによって、降伏して参りました。今や司馬懿親子は、ほしいままに権力をふるい、曹芳は気が弱く、魏の国は行く末危うしと見えまする。それがし、漢中にあって年久しくなりまするが、糧秣は豊かにて数年分の蓄えがあり、兵は強く馬は肥え、兵器も整いましたるゆえ、勅命を得て攻め取りたく存じていた矢先でござりまするが、幸い、夏侯覇が降伏して参りましたれば、道案内といたし、軍勢を賜り、丞相の志になろうて、中原を取り戻し漢室を再興して、陛下の御恩に報いたく、万死をもいといませぬ」
尚書令の費褘がそれを諫めて、
「近ごろ蔣琬・董允の方々、相継いで身まかり、内政にこれという人物がおりませぬ。伯約どの、徳を養い時機をうかごうて、天命を待つがよろしゅうござる。軽々しゅう動いてはなりますまい」
姜維「そうではござらぬ。人の一生は短く、白駒が戸の隙間を駆け過ぎるようなもの。さように月日が延び延びになっては、中原を取り戻すは何時の事とも知れませぬ」
費褘「『彼を知り己を知れば、百戦百勝』とは、孫子の言葉。我等は、到底丞相の足元にも及び申さぬ。丞相でさえ、中原を取り戻すことはできなんだものを、まして我等にはかなわぬ事でござる。それよりは国を保ち民を安んじて、よくよく社稷を守るこそ肝要。万一を願って、のるかそるかを行ってはなりませぬ。もしこの企てが失敗したならば、取り返しはつきませぬぞ」
姜維「それがし、久しく隴上に住まい羌人の心や西方の風俗は深く存じておりまする。今もし、外に羌人と結んで助けを借り、内に人民をなつけるならば、中原の回復はかなわずとも、隴山より西は断ち切って我がものにできまする」
劉禅「御身、魏を伐つ所存とあれば、身命をなげうって忠義の程を尽くすがよい。意気込みが挫けて、朕の申しつけに背いてくれるな」
かくて姜維は勅命を受けて朝廷を退出し、夏侯覇と直ちに漢中に戻り、出兵の協議をした。
姜維「使者をまず羌人の所へやり誼を通じたうえで、西平関より出て、雍州に迫ろうと存ずる。その前に、麴山の麓に二つの城を築き、守備兵を置いて、互いに助け合う態勢とした後、我らはことごとく蜀の国境まで送り出し、丞相のこれまでの仕方通り、順次、兵を進めるといたそう」
夏侯覇「山路は険しく、進むに難く、退くにも容易ならぬゆえ、ゆるゆると兵を進めるがよろしゅうござる」
この年の秋八月、金銭・糧秣・武器の類は一切ととのい、句安・李歆の二大将に一万五千の兵をもって先発させ、麴山の前に二つの城を築いて、句安に東の城、李歆に西の城を守らせた。
この由、早くも間者が雍州刺史郭淮に知らせたから、郭淮は洛陽に報告させる一方、副将の陳泰を遣わし、雍州の兵五万と将校数十名をもって蜀軍と戦わせた。
句安・李歆は、魏の軍勢が押し寄せるのを見るや、それぞれ手勢を率い、城を出て迎え撃った。
魏軍は二手に分かれ、乱戦となったが、寄せ手は将兵多く、句安・李歆は兵少なく大将一人で、歯が立たず、城内に引き揚げた。
陳泰は四方を包囲して攻めつけるとともに、漢中よりの糧道を断ち切ったため、句安・李歆の城中では兵糧に事欠く始末となった。
郭淮自ら兵を率いて到着すると、地勢を眺めて喜びの色を顔にあらわし、陣に戻って早速陳泰に相談した。
「あの城は、高みの地勢にある故、定めし水は乏しく、汲みに出ねばなるまい。もし川をせき止めたならば、敵はことごとくのどが渇いて死んでしまうわ」
陳泰「いかにも」
かくて郭淮は兵士に土を盛って川上をせき止めさせたので、果たして城中には水が出なくなった。
李歆が兵を従えて城外へ水を汲みに出るところ、雍州の軍勢が厳しく取り囲み、李歆は必死に戦ったが、囲みを破れず、やむなく城内に引き下がった。
句安の城中も水が出ず、そこで李歆としめし合わせ、城を打って出ると、兵を一つに合わせ、しばらくの間、激しく渡り合ったが、またもや負けて城内に引き返し、兵士たちはいよいよ水枯れに苦しんだ。
句安が、
「姜都督の軍勢は、今になっても到着せぬとは、何とした事であろう」
と言うと、李歆は、
「一か八か、城を打って出、救いを求めに行ってみよう。いかがであろう」
句安「なるほど、よかろう」
かくて李歆は数十騎を従え、城門を開いて切って出たものの、敵兵にひしひしと取り囲まれ、死に物狂いで突きまくった末、やっと切り抜けたが、李歆ただ一人、身に深手を負うて生き残り、他はことごとく乱戦のうちに切り死にした。
その夜、北風が烈しく吹き、黒雲が空を覆って、大雪が降った。
そのため城内の蜀兵たちは、雪を溶かして兵糧を使い、食いつなぎをした。
さて李歆はただ一騎、重囲を突破し、西山の間道を二、三日たどるうち、ばったり姜維の軍勢に出遇い、馬を下りて平伏した。
「麴山の城は二つながら敵に囲まれ、糧道も水の手も絶ち切られました。幸い大雪が降ったため、雪を溶かして食いつないではおりますけれど、もはや一刻の猶予もなりませぬ」
姜維「儂は救援を遅らせたわけではない。羌族の軍勢を呼んでいるのに、まだ到着せぬ故、延引したのじゃ」
かくて李歆を養生のため西川へ送って生かせた後、姜維が夏侯覇に尋ねた。
「羌族の軍勢はまだ到着せず、敵が麴山をひしひしと包囲した由。将軍、何か良い思案はござらぬか」
夏侯覇「羌兵が麴山に到着するを待っていては、二つの城とも落ちてしまおう。思うに、雍州の兵は残らず麴山を包囲攻撃し糧道を絶つために参ったに相違なく、雍州の城は定めし空でござろう。将軍は兵を率いてまっすぐ牛頭山に向かい、雍州の背後に回り込むがよろしゅうござる。郭淮・陳泰が雍州を救援に引き返すは必定。しからば麴山の囲みは、自ずと解け申そう。これぞ魏を苦しめる漢を救う手立てにて、魏軍があしらいかねるようになれば、雍州は我が物でござる」
「それは至極妙計でござる」
と、姜維はいたく喜び、かくて兵を従え牛頭山さして打ち立った。
陳泰は李歆が切って出たのを見るや、すぐさま郭淮に言った。
「敵の大軍が後にいながら救援に来ぬのは、羌兵の到着が遅れたためでござる。もし羌族の軍勢が用意万端整えて到着いたさば、直ちに雍州攻略に向かいましょう。今、李歆がもし姜維に急を告げたらば、姜維は、我が大軍がことごとく麴山におるものと考え、牛頭山に回り込んで我が背後を襲うに相違ありませぬ。将軍には兵を率いて洮水を固め、敵の糧道を絶って下さりませ。それがし、軍勢の半ばを割き、一気に牛頭山に出て迎え撃ちまする。敵がもし糧道は既に絶たれたと知れば、そのまま退却して行くでござりましょう」
郭淮は同意し、一軍を率いて密かに洮水に陣を張り、陳泰の一軍は牛頭山へ急行した。
姜維の軍勢が牛頭山に迫る頃、突然、先鋒の方でわっと声が上がり、
「魏の軍勢が行く手を遮った」
との報告があった。
姜維はあわてて、自ら陣頭に乗り出して眺めると、陳泰が大声に呼ばわった。
「貴様ら、我が雍州を襲う料簡であろうがな。儂はここで長らく待っておったぞ」
姜維は激怒し、槍をひねりつつ馬を飛ばせ、陳泰めがけて突き掛かった。
陳泰は刀を振るってこれに応じたが、三合も切り結ばぬうち、陳泰が負けて逃げ出し、姜維は兵を指揮して追撃した。
雍州の軍勢は退却して山の頂に陣取り、姜維は兵をまとめ牛頭山の山裾に陣を構えて、連日、戦いを挑んだが勝負がつかない。
ある夜、夏侯覇が姜維に言うには、
「ここは一時、陣を取るのはよいが、久しく留まる処ではござらぬ。連日、戦いを交えながら勝負のつかぬは、これこそおびき寄せる計略にて、別にたくらみがあるに相違ない。ここは暫く退いたうえ、妙策を立てるがよろしゅうござる」
と言う折しも、
「郭淮が一軍を率いて洮水を固め、味方の糧道を絶った」
との急報があった。
姜維は仰天し、
「陣中、兵糧に詰まっては、命をつなげようや」
と、急ぎ夏侯覇を先手として退却を命じ、自ら後詰めしてゆるゆると退いた。
陳泰は既にこれを知り、兵を五路に分けて後を追わせた。
姜維は五路の総口を固めて、魏軍を食い止めたが、陳泰は軍勢をまとめて山に上がらせ、矢を雨の如く浴びせた。
姜維が急いで洮水まで退き下がってくると、郭淮の一軍が殺到した。
姜維は兵を率いて縦横無尽に突きまくったが、敵は退路を遮り、鉄桶の如く厳しく取り囲んだ。
姜維は死に物狂いで切って出、兵の大半を失ったが、陽平関目指して馬を飛ばした。
と、前方より、またもや一軍が殺到してきた。
これを率いる大将が、馬を飛ばし刀を横たえて現れた。
その者は、丸顔に大きな耳、四角な口に厚い唇で、左の目の下に黒いこぶができ、こぶには数十本の黒い毛が生えている。
これぞ司馬懿の長男、驃騎将軍司馬師である。
姜維が雍州を攻略した折り、郭淮の急報によって、魏主は司馬懿と協議の末、彼の長男司馬師に、五万の兵をもって雍州まで進んで戦いに加わるよう命じたのである。
司馬師は、郭淮が蜀の兵を撃退したと聞くや、
《蜀軍の勢いは衰えているはずであるから、その途中で一撃を加えよう》
と考え、陽平関まで追いすがってきたのである。
司馬師に路をふさがれた姜維は烈火の如く怒り、
「小僧めが、よくも儂の帰路を邪魔立てしたな」
と、馬に鞭をくれ、槍をしごいて、まっしぐらに司馬師に突き掛かった。
司馬師は刀を振るって立ち向かったものの、姜維はただ三合で打ち破り、逃げ延びて陽平関へ突っ走った。
見張りが門を開いて姜維を迎え入れた後へ、司馬師が来て内に押し入ろうとするや、両側に伏せてあった石弓が一斉に放たれた。
これぞ武侯・諸葛亮より、今はの際に伝授された「連弩」の法であり、路の両脇に石弓を百張り余り伏せておいた。
一張の弓より十本の鉄の矢を放つ仕掛けで、矢じりにはすべて毒薬を塗ってある。
この矢が一度に放たれるや、前方へ進んできた者は、人も馬も一様に射殺された者無数で、司馬師は混乱した隊の間をくぐり、ようように命だけは助かって洛陽に帰って行った。
麴山の城内にあった大将句案は、援兵が来ないため、城門を開いて魏に降伏した。
姜維は数万の兵を失い、敗残の兵を率いて漢中に戻り、ここに屯した。
孫権の死後、諸葛恪は孫亮を守り立てて帝位に即け、天下に大赦令を出し、改元して建興元年とし、孫権のおくりなを大皇帝として、蒋山の陵に葬った。
このことを早くも探知した間者が、洛陽へ報告した。
司馬師は、孫権が死んだと聞くや、呉を征伐する軍を起こそうとはかった。
呉の太傅諸葛恪は、魏の兵が三路に分かれて押し寄せたとの報を聞き、皆を集めて協議した。
冠将軍丁奉が言った。
「東興は我が国の最も要所でござる。かしこを失えば、南郡も武昌も危うござるぞ」
諸葛恪も応えて言った。
「それは、儂もさように思う。御身、三千の水軍を率いて長江の水路を進まれたい。儂はその後、呂拠・唐咨・留賛におのおの一万の歩兵と騎兵をもって、三手に分かれて後詰めさせよう。連珠砲の音を合図に、一斉に進め。儂は大軍をもって、その後より出る」
丁奉はこの命を受けると、直ちに三千の水軍を率い、三十隻の船に分乗して、東興へ向かった。
胡遵が大将達を集め酒宴を開いているところへ、にわかに、三十隻の戦船が水路を進んで来るとの報告があった。
すると、連珠砲が三声響くや、丁奉は刀を抜いて先頭に立ち、ただ一飛びに岸へ上がった。
兵士らも皆刀を抜き、続いて岸へ上がり、魏の陣へ切り込んだ。
魏の兵士らは一斉に浮橋へ殺到したが、既に切り断たれていたから、大半は水に溺れて死に、雪の中に斬り倒された者も無数であった。
さて諸葛恪は、兵を率い東興まで来て、全軍をまとめ、功を賞し労い終わったところで、大将達を集めて言った。
「司馬昭は負けて北へ帰って行く。この時こそ、つけ込んで中原に進出する好機じゃ」
かくて、書状を持たせた使いを立てて蜀へやり、姜維に、
「出兵して敵の北を攻めるよう。うまく運べば天下を分け取りにする」と言い送る一方、二十万の大軍を繰り出し、中原の征伐に進んだ。
丁奉が、
「魏の国の要害の要は新城でござる。まず、彼処を落とせば、司馬昭の肝を取りひしぐ事ができまする」
と言うや、諸葛恪は喜んで、兵を急がせ、真っ直ぐに新城まで来た。
姜維は成都において諸葛恪の書面を受け取ると、彼を助けて魏を伐たんものと、朝廷に出て劉禅にその許しを乞い、再び大軍を繰り出して、北の方中原を伐とうとはかった。
蜀漢の延煕十六年(253)秋、衛将軍姜維は二十万の兵を繰り出し、廖化と張翼を左右の先鋒、夏侯覇を参謀、張嶷を糧秣運送監督官に命じ、またもや大軍をもって陽平関を出、魏を討伐に向かい、姜維は夏侯覇と協議した。
「前かた、雍州を奪おうとして果たさずに帰ったが、今、我らが再び出向かうとなれば、敵も必ず備えがあるであろう。まず何処を攻め取って足場とするか、貴公、良い思案がござろうか」
夏侯覇は言った。
「隴上の諸郡のうち、南安郡ばかりは、金銭も糧秣も豊かにござる故、まず彼処を取れば、足がかりとなりましょう。前かた、勝ちを得ずお戻りなされたは、羌族の軍勢が舞らなんだためでござる。まず人を遣って羌族と隴右にて落ち合った上、兵を進めて石営に出、董亭より一気に南安を攻めるがよろしかろう」
「それは妙案。もっともじゃ」
と、姜維はいたく喜び、かくて郤正を使者に立て、黄金・真珠・蜀の錦を持って羌族の地に入り、その王と誼を通じ、まず援軍を隴右に進めるようにさせた。
羌族の王迷当は進物を受け、また劉備の恩、武侯諸葛亮の徳を偲んで、姜維の要請どおり、すぐさま五万の軍勢を催し、大将俄可焼戈を大先鋒として南安へ押し出した。
さて魏の車騎将軍郭淮はこの知らせを聞くや、洛陽に急報した。
司馬師が、
「誰か蜀の軍勢を相手にする者はあるか」
と諸将に尋ねると、輔国将軍徐質が進み出た。
「それがし、参りとう存知まする」
かねて徐質の人並み優れた武勇を知っていた司馬師は、心中いたく喜び、直ちに徐質を先鋒、また弟の司馬昭を大都督に命じ、隴西目指して進発させた。
軍勢が董亭まで来ると、ぱったり姜維と出合い、両軍は陣形を整えた。
魏軍は鬨の声を上げ、徐質が開山大斧を打ち振りつつ、馬を乗り出し、戦いを挑んだ。
蜀の陣中より廖化がこれを迎え撃ったが、五、六合も切り結ばぬうちに、刀を引いて逃げ返り、張翼が馬を飛ばせ槍を構えて向かったが、五、六合とも切り結ばぬうち、又もや陣へ逃げ込んだ。
徐質は兵を駆ってどっと攻め掛かり、蜀軍は大敗し、三十里余り退却して陣を構えた。
司馬昭も軍勢をまとめて帰陣した。
姜維は夏侯覇に相談した。
「徐質は一体何者かな」
夏侯覇「司馬昭配下の勇士でござる」
姜維「あれを生け捕る計略がござろうか」
夏侯覇「さればでござる。明日、打って出、この度も負けた振りで逃げ、そこへ埋伏の計を用いれば、勝利は必定でござる」
姜維「いや、司馬昭こそは仲達の倅。兵法を知らぬはずはない。入り組んだ土地の有様を見ては、追うては来るまい。敵に糧道を絶たれた事は幾たびとなくあった。その計略を逆手にとって誘い出せば、徐質を討ち取る事ができるであろう」
かくて廖化を呼んで、かようかくかくと言いつけ、また張翼を呼んでしかじかと言い含めた。
二人が計を授かり、兵を率いて打ち立つと、兵士達に命じ、道に鉄蒺藜を撒き、陣の周りにさかもぎを結い回させて、持久の構えを取らせた。
徐質は連日、戦いを挑んできたが、蜀の軍勢は打って出ない。
「蜀軍は鉄籠山の裏より木牛・流馬をもって糧秣を運び、長陣の構えとし、ひたすら羌族の助けを待っております」
と早馬の報告を受けた司馬昭は、徐質を呼んで言った。
「以前に十分の勝ちを得たのは、彼らの糧道を絶ったためである。今蜀の軍勢が鉄籠山の山陰で兵糧を運んでおると申す。御主は今夜、五千の精兵をもって、敵の糧道を絶て。蜀の軍勢は自ずと退くであろう」
命令を受け、徐質は一番太鼓の頃、兵を率い鉄籠山指してやって来ると、いかにも蜀の兵士二百余人が百頭余りの木牛・流馬に糧秣を乗せて追うて行くのが見える。
孫権の裏切りを知った曹丕は、自ら大艦隊を率いて河を下った。
淮河の隘路から長江に出ようとしたとき、呉の都督徐盛の反撃に遭い、その上、にわかに烈風が吹いて魏軍は大混乱に陥った。
曹丕はかろうじて陸上の陣に逃れたが、その夜、長安からの急使が本国の大事を告げにきた。
蜀の趙雲が陽平関を越えて長安に迫っていたのである。
曹丕は直ちに全軍に引き上げを命じた。
魏が呉に大敗を喫した翌年、225年3月、諸葛亮は、この機に南方辺境の不安を一掃して後顧の憂いを絶つべく、50万の遠征軍を起こして南下した。
南蛮王の孟獲を心服させた諸葛亮は、南蛮国のすべてを孟獲に任せ、全軍を引き上げた。
諸葛亮が魏の重臣たちの中で常にその動きに心を配っていたのが、司馬懿であった。
諸葛亮は司馬懿を魏第一の人材とみなし、もし蜀にわざわいをなす者があれば必ず司馬懿であろうと考えていた。
226年5月、魏では曹丕が死んでその子曹叡が帝位を継いだ。
諸葛亮は、自分の死後に丞相たるべき者として第一に蔣琬を挙げ、もし蔣琬が受けないときには費褘を用いるように遺言していた。
姜維とともに諸葛亮の霊柩を護って成都に帰った楊儀は、大命は自分に降ると自負していたが、蔣琬が挙げられ自分は中将軍師に任ぜられたに過ぎないことを不満として叛意を抱き、235年、それが露見して官職を剥がれて官嘉へ流刑となり、その地で自決した。
238年、蔣琬は軍を起こして漢中へ進んだ。
諸葛亮が常に陸路による食糧輸送に苦しんでいたことに鑑み、蔣琬は水路を利用して魏に攻め入ることをはかったが、朝議の反対にあって決行することができず、漢中にとどまって進攻の機をうかがっていた。
244年3月、魏の曹爽は十数万の兵を率いて激しく漢中に攻め込んできた。
しかし、その前々年から涪に駐屯していた姜維が、救援にきた費褘とともに、各地に魏軍を反撃してこれを敗退せしめた。
その翌年の11月、蔣琬が没し、続いて12月に尚書令の董允が没した。
247年秋、姜維は魏を攻め、翌248年には費褘も漢中に進駐した。
253年正月、費褘が漢中の陣内で魏の降将郭循に刺されて死んだが、4月、姜維は魏を攻めた。
255年8月、魏では司馬懿が死んだ。
姜維はそのとき魏を攻めて王経の軍に大勝したが、翌256年7月には、魏の名将��艾と戦って惨敗した。
翌257年6月、姜維は軍を立て直してまた魏に攻め入ったが、��艾・司馬望らに鋭鋒をかわされて空しく引き返した。
263年秋、時きたると見た魏は、��艾・鐘会の率いる数十万の大軍をもって漢中へ押し寄せた。
蜀の前線はひとたまりもなく押しつぶされた。
姜維は剣閣の峻険に拠って必死に魏軍を防いだ。
さすがの大軍もこれを落とすことはできなかったが、��艾は鐘会をそこにとどめ、自らは南下して、一路成都に突入した。
劉禅は狼狽してなすすべを知らず、��艾の軍門に降った。
ここに蜀は二代43年をもって滅んだ。
剣閣で鐘会と戦っていた姜維は、成都の陥落を聞くと、部下の将兵に武器を捨てさせた。
姜維自身は後、鐘会に反抗し、妻子とともに首を刎ねられて死んだ。
劉禅
◆蜀漢二代皇帝。凡庸温厚な人物。晩年は酒色にふけり、宦官の黄皓を寵愛。蜀漢を滅ぼす一要因となった。幼名「阿斗」は暗愚の代名詞とされる。
◆(後嗣)宦官の黄皓を信任し、酒食に溺れて国政を顧みず、ついに魏に降る。後主とよばれる。
尹賞
天水郡の主簿。第一次北伐の際、友人の姜維が蜀漢に降ったために、自らも城門を開いて降る。のち執金吾となった。
郭攸之
蜀漢の臣。侍中。北伐前に諸葛亮が上奏した「出師の表」では、董允、費褘と並び誠実純忠の人物とされ、宮中での諸件はすべて任された。
関彜
関興の庶子。関興の嫡子である関統に子がないために家督を継いだ。鐘会の反乱の際に魏兵に殺された。漢寿亭侯。