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「・・・ソ連を打倒し得ることを・・・各課は疑わないのに、ロシア課だけが反対しているんだ。ソ連は・・・短期間に打倒されることはない。戦争は相当長期になる、というんだ」
中略
「南部仏印に進駐するんだって」
中略
「うん、まあ。海軍が熱心でね」

(戦車連隊の標準編成)
5式中戦車 14両
4式中戦車 33両
5式軽戦車 20両
内訳
連隊本部
5式中戦車 3両
5式軽戦車 2両
第1中隊
5式軽戦車 12両
第2中隊
4式中戦車 11両
5式軽戦車 1両
第3中隊
4式中戦車 11両
5式軽戦車 1両
第4中戦車
4式中戦車 11両
5式軽戦車 1両
第5中隊
5式中戦車 11両
5式軽戦車 1両

大正14年5月1日、千葉県の歩兵学校に、ルノーFT型5両とホイペットA型3両からなる「教導隊戦車隊」が創設され、一方、福岡県の久留米に、ホイペットA型の中隊と整備補給を担当する材料廠からなる「第1戦車隊」が編成された。(長は大谷歩兵少佐)
昭和6年11月、久留米の第1戦車隊と、千葉の歩兵学校の教導隊戦車隊から人員と車両の差し出しを受け、臨時派遣戦車小隊が編成された。
この小隊は早速満州に派遣され、関東軍装甲車隊と合体して、独立戦車第1中隊と命名された。
独立戦車第1中隊(長は百武俊吉歩兵中尉、当初、戦車は89式中戦車<甲>とルノー乙型軽戦車の混成6両で構成)は、第2師団に配属され、翌7年2月3日から5日にわたるハルピン付近の戦闘に参加して、初陣を飾った。
久留米の第1戦車隊では、独立戦車第2中隊(長は重見伊三雄歩兵大尉、戦車は89式中戦車<甲>とルノー乙型軽戦車の混成10両で構成)を編成し、派遣した。
戦車はもっぱら歩兵を支援し、歩兵の先頭に立って勇戦した。
中でも今村小隊と兵2名には軍司令官から感状が授与された。
8年3月、第8師団の川原挺身隊に配属された独立戦車第1中隊(長は百武俊吉歩兵大尉、89式中戦車11両と92式中装甲車2両)は、山岳の重畳する長隘路において、常に兵団の先頭に立ち、電撃突破の原動力となった。
引き続き長城突破などの作戦に活躍して、軍司令官から感状を授与された。
昭和8年8月1日には、久留米の第1戦車隊が戦車第1連隊に、同時に千葉の歩兵学校教導隊の戦車隊は戦車第2連隊に改編された。
また、戦車第1連隊を母体として、戦車第3、第5、第7の奇数連隊が増設され、戦車第2連隊を母体に、第4、第6、第8の偶数連隊が逐次、生まれた。
こうして昭和13年7月には、内地に3個、満州及び中国大陸に5個、計8個の連隊が設立された。
連隊の編成は当初、89式中戦車10両の中隊2個と材料廠1個から成っていた。
だが、その後は編成の時期や部隊によってはまちまちで、中・軽戦車、軽装甲車の混成の場合もあり、中隊数が3〜5個のこともあった。
しかし、事変に参加した連隊は各所で善戦し、歩兵支援の役割を忠実に果たした。
また徐州会戦では、戦車連隊を骨幹とする諸兵連合の車両化支隊を編成し、遠く挺進して瀧海線遮断の大任を果たし、また南昌作戦では、戦車2個連隊をもって臨時に戦車団(歩兵・工兵などを配属)を編成し、機動的に運用して大きな戦果を挙げている。
独立混成第1旅団は、熱河作戦における川原挺身隊の偉功をヒントに、昭和9年4月、部外への公表を避けて隠密裏に満州の公主嶺に設立された常設の機械化兵団である。
その編成は、戦車第3、第4の2個大隊(後に連隊)、自動車化の歩兵連隊、砲兵大隊、工兵中隊各1を基幹とし、人員4750名と戦車を含み744両の車両から成っていた。
ところが北支に出動する段階で、歩兵連隊1に対し、戦車は中戦車、軽戦車、軽装甲車中隊各1の3個中隊(戦車など35両)に減らされ、各種の車両を持つ歩兵主体の車両化旅団に変わってしまったのである。
しかも広大な地域で各隊バラバラに使用され、東奔西走したものの戦果は挙がらず、他部隊からは罵声を浴びる始末だったという。
中央部は、昭和13年8月には満州に帰還させ解隊した。
旅団が解隊された直後、新たに第1戦車団(長は安岡正臣中将、戦車第3、第4、第5連隊から成る)が設立された。
実はこの戦車団は機動兵団の機能を持たず、単なる部隊管理の便宜から設けられたといわれている。
昭和14年6月、第2次ノモンハン事件で日ソが激突した。
応急派兵により第1戦車団は、臨時に戦車第3、第4連隊を骨幹とする諸兵連合の安岡支隊(車両化)を編成し、第23師団の作戦に策応して、急遽、行動を起こすことになる。
支隊は、悪戦苦闘の末、第3連隊長以下多くの将兵と40%の戦車を失い、戦闘半ばにして命により帰還した。
ノモンハン事件が起こる前に、関東軍には戦車部隊増強計画があった。
戦い半ばに第1戦車団を現地復帰させたのもこのためだった。
その第4連隊と留守をしていた第5連隊の人員・車両をもって、昭和14年8月、公主嶺学校教導戦車連隊を編成したのである。
翌15年3月には、戦車第3、第5、第9連隊をもって第1戦車団(長・木村民蔵中将)を、戦車第4、第10(新設)、第11(新設)連隊をもって第2戦車団(長・山路秀男少将)を編成、それぞれ第3軍(司令部は綏陽)及び第5軍(司令部は東安)に所属して、満ソ国境の護りについている。
一方、中国戦線においても、昭和14年10月28日、軍令陸甲第32号により、戦車第12連隊(北支那方面軍)、第13連隊(第11軍)及び第14連隊(第21軍)が、独立軽装甲車中隊を基幹として編成された。
以上のほか、昭和16年9月13日、軍令陸甲第60号により牡丹江に戦車第23連隊が新設されたので、内地の戦車第1、第2、第6連隊、北支の戦車第7、第8連隊を含めて、15個の戦車連隊がそろった。
さらに独立軽装甲車中隊3個と師団戦車隊及び各師団の捜索(連)隊を含めるなら。
昭和16年12月8日未明、タイ国境シンゴラに上陸した第5師団主力の先頭に立ち、一路タイ・マレー国境に向かって突進したのは、佐伯中佐の指揮する捜索第5連隊と戦車第1連隊第3中隊で、翌9日の夜には早くも国境の陣地帯を突破した。
この直後に佐伯隊は、戦車中隊その他の配属を受けて支隊を編成し、11日正午から戦車第3中隊を先頭に、チャンルンを突破し、敵に混入して突進を続け、敵(英印第11師団基幹)が日本軍を3カ月は阻止すると豪語したジットラの連続陣地(ジットラライン)を、わずか1昼夜の12日夕刻には完全に瓦解させた。
この挺進奇襲は、緒戦の快勝と発表され、戦車第3中隊は軍司令官から感状を授与された。
マレー作戦に参加した戦車部隊は、第1、第6、第14戦車連隊を基幹とする第3戦車団で、戦車第6連隊の第1及び第4中隊はスリム(中部マレー)の殲滅戦の功績により、また戦車第14連隊(95式軽戦車装備)の第3中隊はパグリ(南部マレー)の死闘により、それぞれ軍司令官から感状を授与された。
作戦は昭和17年2月15日のシンガポール陥落で幕を閉じた。
一方、フィリピン作戦は、第48師団に配属された戦車第4連隊(軽戦車主体)が、その先頭を切ってアグノー河にかかるカルメン橋梁を目指し、中部ルソンを突進した。
昭和16年12月22日、我が軍がリンガエン湾に上陸した第1日目のこと。
米比軍はM3軽戦車10両で反撃してきた。
戦車第4連隊の95式軽戦車1個小隊(3両)は、直ちに迎撃態勢をとり、縦隊で前進してくる敵の先頭戦車を狙い、徹甲弾の集中を浴びせたが、一向に貫徹しない。
逆に敵の37ミリ砲で、瞬時に1両が破壊された。
カバナツアン方面に作戦軸を変更した後においては、園田大佐の指揮する戦車第4、第7連隊(89式中戦車主体)をもって挺身隊を編成し、マニラに向かい突進した。
昭和17年1月2日、マニラを占領。
この直後に戦車第4連隊は蘭印作戦に転用され、コレヒドール要塞攻略では、戦車第7連隊が敵前上陸を敢行し、敵の降伏を早めた。
また蘭印作戦においても、戦車第2連隊主力と第4連隊がそれぞれ西と東に分かれて攻略部隊の先頭に立ち、あっという間に蘭印軍降伏の端緒を開いた。
さらにビルマ方面では、シンガポール陥落後に転用された戦車第1、第14連隊が、マンダレーに向かって怒涛の進撃を行い、昭和17年5月末にはビルマ全土を戡定した。
ビルマにおいては、昭和17年3月4日、ペグー北方バヤジイで20両あまりのM3軽戦車と遭遇した戦車第2連隊の軽戦車中隊の6両が、次々と炎上して玉砕した。
同じ頃、戦場に進出した我が対戦車砲も全然歯が立たず、蹂躙された。
南方進攻作戦が成功に終わり、陸軍は本来の北方に備える必要があるとして、昭和17年中に緒戦に参加した6個の戦車連隊のうち3個(第1、6、7)を満州に、1個(第2)を内地に引き上げた。
従って南方には2個(ビルマに第14、ジャワに第4)が残された。
昭和17年7月、戦車2個師団と教導戦車旅団からなる機甲軍を満州に創設した。
戦車師団は戦車戦力を中核とし、これに歩兵、砲兵、工兵などの諸兵種を加えたものである。
編成上の定員と定数は、兵員13,000名、装軌車約1,500両、装輪車約800両という堂々たる機甲兵団だった。
(ただし実態は違っていた。)
機甲軍の編成(昭和17・6・24、軍令陸第42号)は次のとおり。
軍司令官 中将 吉田悳
隷下部隊
戦車第1師団 少将 星野利元
戦車第1旅団
戦車第1連隊
戦車第5連隊
戦車第2旅団
戦車第3連隊
戦車第9連隊
機動歩兵第1連隊、師団速射砲隊、師団捜索隊、機動砲兵第1連隊、防空隊、工兵隊、整備隊、輜重隊
戦車第2師団 中将 岡田資
戦車第3旅団
戦車第6連隊
戦車第7連隊
戦車第4旅団
戦車第10連隊
戦車第11連隊
(以下第1師団に同じ)
教導戦車旅団
戦車第23連隊
戦車第24連隊
(以下略)
また、17年12月には中国戦線で戦車第3師団が、駐蒙の騎兵集団を改編して設立された。
戦車第3師団 中将 西原一策
戦車第5旅団
戦車第8連隊
戦車第12連隊
戦車第6旅団
戦車第13連隊
戦車第17連隊
(以下第1師団に同じ)
以上のほかに、昭和17年には、戦車第15、第16連隊が満州で、第17(戦車第3師団隷下へ)、第18、第19、第22の各連隊が内地で新たに編成された。
こうして昭和17年末には、戦車連隊は22個(第20、21は欠番)を数えるに至った。
その配置は、満州に12個連隊(第1、3、5、6、7、9、10、11、15、16、23、24)、内地に4個(第2、18、19、22)、中国に4個(第8、12、13、17)、南方は2個(第4、第14)だった。
戦車連隊の編成は、本部、軽戦車1個中隊、中戦車3個中隊(47�誓鐚嵋づ觝�)、砲戦車1個中隊(75ミリ戦車砲搭載)、整備中隊からなっていた。
が、その実態は、主力の中戦車にしても、97式中戦車または一部(改)で、砲戦車にいたってはほとんど旧チハ車で代用されていた。
18年9月には「絶対国防圏確保」の方針が決定され、これに伴い機甲軍も10月には解隊された。
編成から解隊まで1年数カ月の幕切れだった。
戦車第1師団では、第2旅団の第3連隊が19年4月に南支方面の第11軍に転属、衡陽、桂林などの作戦に参加し偉功を立てた。
また第2旅団の第9連隊(長・五島正大佐)は19年4月に、主力はサイパン、第1・第2中隊はグァムに渡り、いずれも守備兵団と運命をともにした。
師団主力(第1・第5連隊基幹)は20年3月に本土決戦のため内地に転用され、終戦を迎えた。
戦車第2師団では、戦車第4旅団の第11連隊(長・池田末男大佐)が19年2月に北千島に渡り、終戦後、不法上陸してきたソ連軍を迎えて占守島で戦った。
また戦車第3旅団の第6(長・井田君平大佐)、第7(長・前田孝夫中佐)、戦車第4旅団の第10連隊(長・原田一夫中佐)を基幹とする戦車第2師団主力は、岩仲義治中将統率のもと、19年7月にルソン島に渡り、20年1月、リンガエン湾に上陸した米軍、特にM4戦車と死闘、玉砕に近い損害を受けた。
旅団長の重見伊三雄少将、各戦車連隊長はともに散華した。
「絶対国防圏確保」のため、以上のほかに戦車第1師団捜索隊を強化改編した戦車第26連隊(長・西竹一中佐)は19年6月に牡丹江を出発して硫黄島へ、また第2師団捜索隊を改編した戦車第27連隊(長・村上乙中佐)は19年6月に勃利を出発して沖縄に派遣され、いずれも優勢な米軍と死闘の末、玉砕した。
山路秀雄中将の指揮する戦車第3師団(戦車第13・第17連隊、捜索隊、移動歩兵連隊、機動砲兵連隊、工兵隊その他)は、支那派遣軍が19年春から開始した大遠征の1号作戦に参加して長躯、支那中原を踏破した。
第3師団は終戦時、北京地区の警備を担当していた。
隷下の戦車第5旅団の戦車第8連隊は17年9月にはラバウルに渡り、また同じ第5旅団の第12連隊は20年4月に本土決戦の一環として朝鮮の京城に移駐、それぞれ終戦を迎えた。
また機甲軍の隷下にあった戦車教導旅団(戦車第23、第24連隊基幹)は、20年4月に独立戦車第8旅団に改編、内地に移動して第13方面軍の隷下に入った。
満州には、質量ともに劣る次の4個連隊が残った。
戦車第2師団主力の比島への転用後、その残留員を基幹として19年10月に、戦車第34、第35連隊からなる独立戦車第1旅団を編成、当初勃利に配置、20年8月に奉天に移動し、終戦を迎えた。
四平戦車学校及び解隊された旅団からの転属者を基幹とし、在満召集者をもって20年7月に急遽、戦車第51、第52連隊からなる独立戦車第9旅団を編成、四平地区でソ連の侵入に備えたが、当地区で終戦を迎えた。
これら在満4個の戦車連隊は、ほとんど戦いを交えなかった。

大正14年5月1日、戦車第1連隊が久留米に創設。
昭和8年8月1日、第1戦車連隊に改編され、第12師団に編合。

大正14年5月1日、千葉の陸軍歩兵学校教導隊に戦車隊が付設。
昭和8年8月1日、戦車第2連隊に改編され、第1師団に編合。

昭和12年4月1日、戦車第4大隊が編成完了。