昭和13年1月26日、大阪で受験、学科、身体検査ともに合格し、呉鎮守府海軍志願兵徴募官村山清六名で、第1希望航空兵(偵察)、第2希望航空兵(乙種予科)の合格証書を受け、6月1日、呉海兵団に入団することになった。

海兵団長加藤盛治大佐からそれぞれ海軍4等水兵、海軍4等航空兵に任命され、ここに海軍生活のスタートを切った。

昭和13年8月30日、3ヶ月の新兵教育を修了した私たち掌電信兵は3等水兵、偵察兵は航空兵になって横須賀海軍通信学校に入校するため、教官、教員、教班長、助手の見送りを受けて海兵団を後にし、呉駅から乗車した。

昭和14年11月1日、2等航空兵に進級し、「扶桑」が南洋行動をとるとかで、私たち偵察3名は退艦、重巡洋艦「加古」に移ることになった。

昭和15年11月1日、私たちは1等航空兵に進級した。

昭和16年6月1日、この日、海軍入団以来満3年、普通善行章が一線ついた(これは3年ごとに1本ずつ右腕の階級章の上につく山形の線)。

この日、勅令第625号で、従来私たち航空兵と呼ばれていた兵種の名称が、飛行兵と変わった。

昭和17年5月1日、私たち13年志願の飛行兵はそろって海軍3等飛行兵曹に任官して、4年間着慣れたセーラー服を脱いだ。

昭和17年11月1日、勅令601号によって下士官兵の階級呼称の改正があった。
各階級の3等がなくなって、2等、1等、上等と変わったので、私は海軍2等飛行兵曹と呼ばれることになった。

昭和20年5月1日、大野兵曹長が少尉に、私と同期生の吉原、甲飛4期の植村兵曹が、それぞれ兵曹長に任官して、准士官室に入った。