【P23】
昭和16年11月18日、この夜、我が伊16、18、20、22、24の5隻の潜水艦からなる「特別攻撃隊」は、思い出多き故国を後に決死の出撃を行ったのである。

夏以来、私はこの艦の艤装員として夾竹桃の咲き匂う佐世保軍港にあって、新造工事に多忙であった。

【P53】
昭和17年2月3日、戦勝気分の母港横須賀に入港、2ヵ月半ぶりで、故障続出の艦をそれでも何とか引きずるようにして、内地へ持って帰った。
入港直後、私は潜水学校甲種学生(潜水艦長学生)を命ぜられた。

【P147】
昭和17年7月、私は潜水学校甲種学生卒業後、呂号第31潜水艦長を拝命した。
同艦は横須賀鎮守府配属の唯一の潜水艦であり、当時は訓練と緊急な研究の実験艦として一日も休む暇とてなかった。
ある日、陸軍のトラック1台が米袋を満載して横須賀軍港の奥深い田浦の波止場に来た。
海軍省軍務局の堀之内中佐、軍令部の井浦祥二郎中佐が二十数名の陸軍将校を案内して来て、あらたまっての話は、米袋を潜水艦の魚雷発射管から射出してみてくれという。

【P219】
昭和18年2月、私は水上艦艇捕捉用電探の実験準備中の伊158潜水艦長として着任した。

【P240】
呂44潜(艦長は私)の艤装を終わって訓練に入ったのは、昭和18年の9月であった。

【P245】
昭和19年5月15日、呉出港直前の呂号44潜水艦を退艦して呉鎮守府という閑職に就いた。
それは伊号58潜水艦の艤装委員長予定というのだが、1ヵ月ほど休養の期間を与えるという有り難い計らいからであった。

【P259】
昭和19年の4月、遂に当局はこの必殺兵器の採用を決し、呉工廠水雷工場で、魚雷実験部長頼技術大佐の指導のもとに製作を開始した。
この兵器の生産を待って、昭和19年9月5日、徳山湾内の大津島に大量訓練基地が設けられた。
長井海軍少将が全小型潜水艦教育部隊の司令官に着任、その下に参謀兼大津島特攻隊長には潜水艦長出身の板倉少佐が当たって直接指揮をすることになった。

【P264】
伊58は佐世保軍港で最後の出撃準備を完了して呉に回航、燃料、糧食、魚雷を満載して、昭和19年も押し詰まった12月29日、大津島に入港した。