【P24】
 昭和十三年九月十六日、第二十一軍司令部の動員下令。
 司令官は古荘幹郎中将。
 参謀長は田中久一少将であった。

【P42】
 この年(昭和十三年)五月下旬、出征時以来の師団長・板垣征四郎中将は、近衛首相の強い要望で陸軍大臣に就任。
 同期生(十六期)の安藤利吉中将が第二十七代師団長となっていた第五師団の各部隊は、徐州作戦に引き続いて徐州の西南方地区に分散駐留して警備にあたっていたが、急遽第二十一師団に任務を申し送って青島付近に集結。

【P51】
 第二十一軍司令官・古荘中将は病気のため、参謀本部付となって内地帰還。
 代わって第五師団長・安藤利吉中将が第二十一軍司令官として転出。
 第二十八代第五師団長には、板垣、安藤より陸士三期後輩(第十九期生)の今村均中将が、十一月十八日付で陸軍省の兵務局長から転出・就任した。

【P54】
 昭和十一年三月、板垣を関東軍の参謀長に任命するとき、同軍の参謀長から参謀本部の次長に栄転した西尾寿造中将と、陸軍次官の梅津美治郎中将が協議して、とかく中央の統帥を無視して暴走しがちな板垣のブレーキ役として、今村少将を参謀副長として、板垣の下に送り込んでおり、両人の親密さも、今村の器量も、ほぼ軍部内で公認されていたものだ。
 同年十二月三日、板垣は第二十六代第五師団長に転任。
 今村も陸軍省の兵務局長として中央に復帰した。

【P55】
 その目玉が、外相を広田弘毅から宇垣一成に、陸相を杉山元から板垣征四郎に、代えることだった。

【P89】
 その伝令――第二小隊の第三分隊長・佐田野良造伍長――が、支隊司令部で弾薬補給のことを申し入れると、大男の大尉参謀(辻政信)が、「弾薬の代わりに肉弾でいけ!」と、どなりつけられただけで、居合わせた者は誰一人、口をきかないのだった。

【P201】
 ほかに重砲五個大隊、野砲三個大隊、山砲七個大隊、速射砲一個連隊、戦車一個連隊(戦車そのものは多くはなかった)、それに飛行機(十機以内?)と、予備四個師という、途方もない大兵力で、総計二十九万といわれているのである。

【P208】
 この日は、友軍機が飛び去ると間もなく十九時三十分(日没直後)、戦車を先頭にして、敵が松本大隊正面に攻撃してきた。
 これを速射砲小隊が向かえ撃ち、七両まで擱座させると、敵は一斉に後退した。
 このあたり、歩戦連合の戦闘法が、まるきり未熟だったことが日本軍に幸いしたわけだ。
 第五師団砲兵は十センチ榴弾砲を装備していた(この前線へは進出していなかった)が、敵は十五榴を展開して二十日以来、わが方の各陣地を砲撃し始めた。
 (中略)
 また二十日の夕刻、わが方の飛行機が去ると、敵機が六機飛来して、第一線陣地に攻撃を加え、当方の被害はほとんどなかったが、地上軍の士気を大いに高めて飛び去った。

【P209】
 前述の、及川支隊の竜州作戦(十二月十五日発起)が「行きは、よいよい、帰りは、こわい」という状況に陥ったのも、補給路の維持に当たっている塩田兵団が、大々的な討伐作戦を決行せざるを得なくなったのも、支那軍の冬季大反攻の一連の動きによるものだったわけで、当然、福山第十一連隊の守備している、南寧の北方わずか十五キロほどの要点、大高峰隘に対しても、十二月十九日未明から、戦車四両を先頭に、およそ一個師(一万人弱)の大軍が攻め寄せて来た。

【P263】
 しかし、これまでに
 アメリカの日米通商航海条約の廃棄通告(昭和十四年七月二十六日)によって、石油・屑鉄などを禁輸される恐れが現実問題として、日本の進路上にクローズアップされると、日本の南方に横たわっている大産油地「蘭印」が、日本の「しかるべき人たち」に注目されるのは、しごく自然の勢いであった。
 特に罐油で死命を制せられる海軍と、その要望を受けた外務省が積極的で、マスコミも競って蘭印に関する記事を多用し始めた。
 昭和十五年二月二日、日本はハーグ駐在の石射猪太郎公使からオランダ政府へ、「貿易制限の緩和。日本企業進出に対する優遇。日本人の入国制限の廃止または緩和」などの諸要求を"覚書"として提示した。
 日米通商航海条約が失効して、無条約時代となった一月二十六日から一週間目のことで、日本の苦悩を“裏書き”したような"外交措置"であった。
 次いで、ドイツ軍の北欧作戦が突発すると、五日後の四月十五日、有田八郎外相が新聞記者団と会見して、その質問に答えるという形で、日本政府の見解を中外に声明するという変則措置で「もし欧州戦争がオランダに波及して、蘭印の現状に何らかの変更をもたらすことは、東亜の平和、及び安定上、好ましくない」と、アピールした。

【P291】
 ドンダン(同登)

【P292】
 ハイフォン(海防)

【P294】
 シマ(詩馬)

【P300】
 ランソン(諒山)

【P314】
 ロクビン(洛平)