【P25】
 やがて、待ちに待った採用通知が来た。
 昭和14年6月1日、佐世保海兵団へ入団せよという。

【P34】
 自らを励ました甲斐あって、悪夢のような6ヵ月(実は事変のため15日短縮され5ヵ月半だった)の海兵団生活は無事に終了、同時に4等航空兵から3等航空兵に進級し、右腕に飛行機の階級章マークをつけ、6ヵ月、苦楽をともにした懐かしい友と別れて、それぞれ任地へと去って行った。

【P76】
 昭和15年8月28日、希望かなって、卒業の前日の夕食後、当直教員から各人に対し、操縦特技章が手渡された。

【P77】
 操縦特技章は、元来、初歩練習機に引き続き、中間練習機の教程を終わった時点で付与されるものだったが、このシステムは私達53期が最後であり、爾後の練習生(甲種予科練3期、乙種予科練9期、54期操縦練習生)は、補修教程を終えた後に初めて付与されることになった。
 (このマークには確か1日8銭5厘が支給されたと思う)
 なお、今ひとつ付言すれば、後日、海兵団出身の搭乗員が丙飛と呼称されるにいたったのは操練57期からである。
 つまり、57期が丙の1期である。

【P86】
 昭和15年11月、2等航空兵に昇進した。

【P109】
 弱冠19歳、昭和16年11月に2等飛行兵から進級したばかりの私は、太平洋戦争に参加を許された、最も若い1等飛行兵の戦闘機パイロットではなかったろうか。

【P151】
 私は昭和18年1月に2等飛行兵曹となり、ガダルカナル作戦中も、なお食卓番を続けながら作戦に従事していた。

【P264】
 というのは、進級に関してであるが、昭和17年11月15日付(?)をもって、横須賀海兵団出身者のみが下士官に進級したのである。
 つまり、同年兵でありながら、呉、佐世保出身者は進級できなかったのだ。
 成績が原因ならば致し方ないが……。
 慌てた各人事部は、昭和18年1月にやっと我々を進級させるという、全く考えられないミスを犯したのである。

【P282】
 以後、昭和18年1月17日は輸送船「香久丸」上空哨戒、19日は「阿蘇丸」の上空哨戒と続くが、私はこの1月15日付で任官した。