【P22】
珊瑚海海戦で互角以上の戦いをしたといわれていた第5航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)の司令官原忠一少将が軍状奏上のために上京したとき、軍令部の廊下で大井篤部員(中佐)ガ呼ばれた。
大井「おめでとうございます」
司令官「敵は強いぞ」
大井「でも勝ったでしょう」
司令官「いや……、それが……、連合艦隊に報告した」ということであった。
「それでも、天佑神助が頭から去らなかったのでしょう」
と、大井さんは回想する。

【P23】
当時40歳前の中佐がこの作戦を指揮した。
この参謀が作戦打ち合わせで軍令部に来たとき、一つ先輩の大井篤中佐(52期)に、
「赤子の手をひねるようなもんだ」
と公然とうそぶいていたという。
この参謀だけでなく、軍令部の図上演習でも、作戦担当部員と艦隊司令部の作戦参謀たちもそうであり、奢りの頂点であった。

【P36】
日米間に戦争必至という機運が高まりつつあった時期の昭和14年4月1日に、米軍のヴィンソン案に対抗して「第4次軍備計画」が発動された。

【P99】
トラック基地において、ニューブリテン島北端のカビエンに進出する第69防空隊を3隻に分採したうえに、国洋丸を護衛してラバウルに向かう途中、敵機の爆撃を受けた。
偵察を兼ねた攻撃であったろうが、筆者にとっては初めての体験であった。
これらの対空戦闘時にアルミ箔をつけた風船をいくつか飛ばし、敵のレーダー電波の目をごまかそうとしたが、アルミ箔が重く、空中にいくらも浮かんでいないうちに海面に次々と落ちていったのを覚えている。

【P100】
当時、電探は通信課の担当であった。
まだ初期の機材であり、性能も悪く、そのうえ故障続出、予備品も不足で、しかも操作する電探長は機関科電機員から講習を受けた長津直治兵曹で、十分使いこなせなくて使い物にならなかった。

【P134】
6門の12.7サンチ連装砲と8(?)門の25ミリ3連装機銃、10基に近い13ミリ単装機銃の全砲火を、宇野砲術長指揮下で打ちまくった。
12.7サンチ砲での対空射撃は砲側照準であり、発射速度も遅いので、機銃が威力を発揮した。
その機銃の指揮は通信士であった筆者で、中部機銃砲台の25ミリ3連装機銃2基6門を分掌した。

【P135】
これらの戦訓に鑑み2ヵ月後の4月ごろ、第2番砲を撤去し、そのあとに25ミリ3連装機銃2基、単装機銃十数基を増設することになる。

【P181】
一方、昭和3、4年生まれ満14、5歳、国民学校高等科在校中の児童から、音感の優れた者を潜水艦の聴音感知の水測兵に養成するというので志願し、機会学校で長期の特殊教育を受けて乗艦してきた3名があった。

【P213】
この方にとって舞鶴での思い出のうちもっとも強烈なのは、海軍初の高圧蒸気を採用した「天津風」の建造で、製罐主任の福田計雄機関少佐の下で苦労したこの艦が、予定どおり昭和15年10月26日に竣功したのは舞鶴に着任した7ヵ月後のことである。
続く「野分」は、退官直前に竣功した。

【P245】
なお、今期大戦での海軍での戦死の総計は、将官・47名(うち大将2名)、佐官・6,000余名、尉官・6,200余名、特務仕官と准士官・6,200余名、兵95,000名という途方もない犠牲であった。