【P98】
(牧隊長のケロイドはミッドウェーの「加賀」沈没時のものと後日、島川正明先輩から知らされた)

【P104】
 九六式艦戦は日華事変からの新鋭機であり、その機動性、戦闘力ともに世界の耳目をあつめた名機であった。
 だが、のちに出てくる零戦にくらべれば全体がやや小づくりで、とくに固定脚の脚幅のせまい点が着陸時の欠点とされていた。
脚の幅がせまいということは、着陸後の保身が容易でないということであり、もちろん、風向きが真向いからの場合はなんら問題はないが、徳島空の場合は南北に一本しか滑走路がなく、北東や北西からの横風になると、機体はその吹いてくる方角に向かって“回され”てしまう。
 ひとたび“回され”ると、きまったように、外側の脚が重圧のために、ポキリと折れてしまった。

【P105】
(前略)数機が編隊を組んで飛んでいると、つい、この上反角にだまされてか。機体を一番機の方向にかたむけてしまうことがよくあった。
 こんな姿勢のことを[玉がすべった飛行」といって、旋回計の真ん中の鉄球が内側にすべった飛行となって、見ていてもぶかっこうであり、また乗っていてもかたむいたままの、きわめて乗り心地のわるい飛行姿勢であった。

【P115】
 思えばその甲飛10期生とは、おなじ飛練32期生であったが、入隊して20日ほどが、たつと彼らははやばやと左マークの八重桜(特技章)と、右腕には二等飛行兵曹の階級章をつけて衣嚢をかついで、さっさといずれかへ転勤して行った[(戦後、三十幾年もたってそのグループの生き残りである笠井智一、小野正夫、海保博治らに会ったとき、そのころの話題が出て大変になつかしく思った)。
 彼らとは同年兵[(17志)であり、同年齢でもあり、また私たちの大半の者は、彼らとおなじ旧制中等教育をへた者であったが、海軍というところはその入口に、海兵団と予科練をもうけて、二階級のへだたりをつくっていたのである。

【P139】
 徳島空における延長教育の卒業がまぢかになってくると、「配属希望先」などの一身上の記録用紙がくばられて、それぞれの用紙に希望を記入させられた。中練(中間練習機)の卒業のさいには、そんな用紙に記入したおぼえはなかったが、たぶんそのときは教員の方で、一方的に個々の適性に応じた各機種に配属したのであろう。

【P149】
 私が海軍の試験を受けるとき、
「飛行機乗りはあかん」と禁じられていたので、整備で入ったのだった(後略)

【P159】
 (前略)6月26日の夜陰のことであった。基地は沖合に出現した敵の艦隊による一斉艦砲射撃をうけて、格納庫や零戦をいっきょに十数機も焼かれてしまった。どうやら火の玉の正体は15センチ砲弾のようであった。
(中略)
 (前略)戦闘三〇三も三〇四も、(中略)10月24日前後を期して、全軍が北西クラークフィールド航空基地群に向けて南下していった。

【P161】
 (前略)沖縄海域の敵艦隊に突入して一隻を撃沈したと、そのときの直掩の任に当たった角田和男分隊士の話を聞いて知ることができた。
(中略)
 (前略)徳空戦同期の藤岡三千彦二飛曹が、(中略)いた。

【P162】
 のちに、二五二空の角田分隊士に聞くと、彼は硫黄島空戦で分隊士の列機として活躍していたことを知った。

【P163】
 (前略)微力ながらもレイテ上空のロッキードを手はじめに、しめて七機の撃墜破をあげることのできた(後略)

【P164】
二〇三空搭乗員