【P47】
 これが第十七軍で、司令官は百武晴吉中将。

【P66】
 横山先遣隊が知り得た範囲では、正面のオーストラリア兵はみな二十歳ぐらいの若者で、訓練の行き届いた部隊ばかりらしく、ジャングル内を二、三十メートルまで日本軍が接近するのを待ち、一斉射撃を浴びせかける。

【P67】
 オーストラリア兵は戦意旺盛だった。
 それも当然で、後述するように、この部隊は、エジプトから帰ってきたオーストラリア第七師団の一部だった。

【P101】
 これにエジプト戦線から帰ったオーストラリアの第七師団を加えて三個師団となった。

【P104】
 同時に、この両軍を統括する第八方面軍を新設し、今村均中将を司令官とした。
 発令は十一月十六日。
 第十八軍司令官は安達二十三(はたぞう)中将(後略)

【P117】
 この一点に集中したオーストラリア軍は、バセイ少将の一個旅団(約四千人?)だった。

【P118】
 しかしオーストラリア兵は再三、撃退されている。

【P119】
 (未入力)というような不満を、師団長アーリング中将は、ブレーミー大将に伝えた。
 ブレーミーがそれをマッカーサーに伝えた。

【P222】
 第五十一師団の転進を支援するためマーカム川左岸を急行していた第二十師団の中井支隊は、9月19日カイアビット付近で、突如として敵軍に遭遇した。
 中井少将は歩七十八連隊の疲兵を励まして交戦したが、敵は正規の約一個師団という大軍。
 使用弾数は天地の開きがあり、かつオーストラリア兵の戦意は旺盛だった。
 この敵はナザブ平原に降下した豪州第七師団で、空中補給を受けながら、マダン攻略に向かっていた。

【P223】
 9月22日、豪州第九師団が、フィンシハーヘン北方のアント岬に上陸しはじめたのだ!

【P240】
 マダン南方、ボガジン渓谷の前端部山岳地帯では、第二十師団の歩兵団長・中井増太郎少将が、麾下の一個連隊(歩七十八)を率いて、オーストラリア第七師団を向こうにまわしての防御戦闘に懸命であった。
 敵は数倍の大兵力で、充分な空中補給下に弾量を惜しまず、暴勇を誇るオーストラリアの若者たちは勇敢だった。

【P254】
 このナザブ平原から進入したオーストラリア第七師団は、あくまでもマダンを攻略しようとして、十月いっぱい力攻また力攻。
 ようやく中井支隊をフィニステル山脈の西端部までに圧迫したが、そこ歓喜嶺を支点とした中井支隊の守備線を、どうしても突破できなかった。
 この陣地は中井が最後の一線として決定したもので、カイアビットの遭遇戦以来の後退は、計画的行動だったのである。
 しかし敵の追撃は急で、この陣地へ充分につかないうちから攻撃されはじめ、一時は非常な苦戦だった。
 十一月中旬ようやく対峙状態になったが、12月に入ると敵の動きは活発化し、新しい作戦行動の近いことを予想させた。
 中井は機先を制して攻撃に出る決心を示し、七十八連隊の将兵みな勇躍した。
 このとき、ウェワクから転進中であった第四十一師団の歩兵第二百三十九連隊主力が、ようやくマダンに到着したので、軍参謀・吉原少将はただちに全力を中井支隊に配属した。
 この新兵力を得ていよいよ勇気百倍。
 十二月八日ケセカワ方面に攻勢をとり、猛然と出撃した。
 これはオーストラリア軍にはまったく意外な出撃で、大損害を受けて全線潰走。
 爾後約一ヵ月間、ほとんど反撃さえしようとしなかった。
 この一点が敗れては、安達第十八軍は東西に分断されるので、中井支隊はあくまで半永久的に、この地を固守する必要があった。
 オーストラリア軍の方は逆に、一日も早くこの線を突破しようとして、ニューギニア戦線では珍しいツバぜり合いを現出。
 五十数回の戦闘を繰り返している。
 これは次章の部分に属することだが、連合軍は翌昭和十九年一月二日(アメリカの暦日では元日)ついにキアリのはるか西方、マダンとのほぼ中間にあたり、グンピ岬へ上陸するが、このときオーストラリア第七師団も呼応して一大攻勢に転じ、今度こそ同陣地を突破しようとした。

【P268】
 しかし、それだけの兵力を抽出された歓喜嶺陣地の方は当然、手薄になった。
 ナザブ降下以来四ヵ月半、大小の攻撃六十回以上みな失敗し、大いに奮起していたオーストラリア第七師団は、この機に乗じて総攻撃を敢行。
 刻々と紛戦状態になってきた。
 このままでは敵の大兵力に押し切られてしまうと見てとった歩七十八連隊長は、機敏に、陣地を後方の予備線に移し、グラウンドを変えて防戦した。
 オーストラリア第七師団の将兵は、ようやく歓喜嶺の陣地戦を奪取して歓呼したものの、第二線陣地を抜くことができず、またしても攻撃頓挫、ついにマダン進出を果たさなかった。

【P305】
 海上にはオーストラリア海軍代将ジョーン・コリンズの指揮する重巡二、軽巡二、駆逐艦十四隻の一艦隊がいて、毎日沿岸を一往復しては、わが補給線の要点に巨弾の雨を降らせており、攻撃準備をもっとも遅らせたのは、この、わが方には撃退法のまったくない敵、であった。

【P313】
 しかし、オーストラリア軍の態度は違っていた。
 というのも、その地方はオーストラリアの統治地区だったからである。
 オーストラリアとしては、原住民に対する威信上からも、自領内に敵国軍隊が蟠踞しているのを放置しておくことは到底、黙視し得ないのが道理だ。

【P315】
 ほとんど同時に、これまたようやくトリセリー山系南側部に進出したばかりの、第四十一師団主力方面でも、有力な敵の攻撃を受けはじめた。
 これは、米軍とアイタペ防衛を交代したオーストラリア第六師団で、彼らは「東方進撃」と称して、ウェワク地区の日本軍を全滅させるのが目的であった。
 (中略)
 オーストラリア軍は百門以上の大砲と戦車が出動しており、例の通り上空には四六時中、飛行機が乱舞していた。

【P319】
 今村均大将の命令で、九月十三日、当地のオーストラリア軍指揮官ロバートソン少将に降伏した(同少将は日本進駐英連邦軍の最高指揮官として、日本占領に功績のあった将軍である)。