【P165】
 日露戦争では東京湾要塞から15門、由良要塞から20門など、全国の要塞に備え付けている九糎臼砲を約80門動員し、徒歩砲兵隊を編成して、首山堡以北奉天に至る戦闘に参加した。
 徒歩砲兵第三連隊(九糎臼砲2個中隊、十五糎臼砲4個中隊、十二糎加農1個中隊、十糎加農1個中隊)、同第一独立(ママ)大隊(九糎臼砲2個中隊)は当初第三軍に配属されて旅順要塞の攻略戦に参加し、旅順陥落後は北方に転進、満州軍内の各軍に配属されて奉天会戦に参加した。
 徒歩砲兵第四連隊(九糎臼砲6個中隊)、同独立第二大隊(九糎臼砲4個中隊)は当初第二軍に配属されて遼陽会戦に参加し、次いで第四軍に転属のうえ沙河会戦に、最後は第一、第二、第四軍に分属して奉天会戦に参加した。

【P187】
 徒歩砲兵第二連隊(十五糎臼砲8個中隊)、同第三連隊(十五糎臼砲4個中隊、九糎臼砲2個中隊、十二糎加農1個中隊、十糎加農1個中隊)は当初第三軍に配属されて旅順要塞の攻略戦に参加し、旅順陥落後は北方に転進、満州軍内の各軍に配属されて奉天会戦に参加した。

【P260】
 明治三十七年(一九〇四年)、日露戦争が勃発した。
 開戦劈頭、要塞砲兵連隊繋駕重砲兵大隊の人馬を集めて克式十二糎榴弾砲20門を備える野戦重砲兵連隊1個を第一軍に加え、鴨緑江の会戦において予期以上の勝利を収めた。
 また徒歩砲兵連隊4個、同独立大隊2個を編成してこれを外征軍に送った。
 総計36中隊、火砲数202門からなるこれらの徒歩砲兵部隊は一部(克式十糎加農4門、克式十五糎榴弾砲16門)を除く大多数が日清戦争以前の旧式火砲を使用していたので、旅順要塞の攻略戦にはほとんど効力がなかった。
 これらの火砲はすべて遮蔽陣地から暴露砲台、堡塁に対抗したのであるから、戦術的には有利な地位にあったが、火砲の配置が大部分遠すぎたことと、黄色火薬を炸薬とする破甲榴弾の効力が不十分だったため、旅順の永久築城に対してはほとんど破壊効果がなく、ただその破片効力と榴霰弾とによって暴露する人馬を殺傷したに過ぎなかった。
 わが国は第三軍をもって旅順要塞を攻撃することに決し、攻城兵器材料の整備に着手した。
 陸軍技術審査部はわが攻城火砲が貧弱であることを憂い、弾丸効力が大きく、全国の要塞に多数の弾薬が貯蔵されていた二十八糎榴弾砲をこれに参加させる必要を認め、同年五月十日、陸軍省山口砲兵課長に具申した。
 山口砲兵課長もこの案に同意し、ただちに参謀本部の当局者と攻城砲兵司令官豊島陽蔵少将に諮った。
 しかし両者ともにその運搬が困難であることに加えて、旅順もそれほどのことはあるまいと高を括って、ついにこの案に同意しなかった。
 しかし同年八月、第1回総攻撃に大惨敗を招くと、二十八糎榴弾砲参加の声が各所に起こった。
 (中略)
 当初第三軍にこれを諮ったところ歓迎しない旨の返電があったので、試験的に鎮海湾防備用として当時輸送準備中の2門を送ったところ、第2回の総攻撃で汪家屯に据え付けた本砲を使用して予期以上の効果があり、わが軍の士気を昂揚した。
 その後数回にわたり追送し、総計18門を数えるに至った。

【P263】
 本砲の使用に専門の部隊を編成したわけではなく、第三軍は徒歩砲兵第一、第二、第三連隊に各6門を配当し、連隊では十五糎榴弾砲中隊または十五糎臼砲中隊から人員を集成して二十八糎榴弾砲を使用させたから隊号はなかった。
 (中略)
 本砲を旅順要塞の攻撃に用いたのは永久築城に対する射撃効果の増強を図るためであったが、バルチック艦隊の東航が確実となるに及び、海軍が旅順港内に隠れている極東艦隊を殲滅する緊急性を強調しだしたので、陸軍としても二十八糎榴弾砲を利用して可及的速やかに港内の軍艦を射撃することに苦慮した。
 このため攻城砲兵司令部は多数の偵察者を派遣して既占領地域内に対軍艦射撃に適する観測所の有無を偵察させたが、いずれの地点もようやく艦船のマストを望見し得るだけで艦体は見えず、観測所に適さないことが分かった。
 一方軍は繋留気球を揚げて観測を試みたが、吊籠の動揺が激しく到底観測ができなかった。
 そこでますます第3回の総攻撃が促進されたが、もしこの攻撃も奏功の見込みがないなら、二〇三高地だけでも早急に攻略して、この高地から軍艦射撃の観測をやらせようと考えるに至った。
 以上の理由で二〇三高地攻略のため碾盤溝砲台の二十八糎榴弾砲4門に攻城砲兵廠の将校を中隊長として1週間交代で射撃を行わせることになった。
 この砲台は二〇三高地北方約4000mの谷地にあり、その南方高地には適当な観測所があって、二〇三高地を指呼の間に望見できるとともに、視界は案子山、椅子山、松樹山、二竜山にわたり良好なので、ニ〇三高地ばかりでなく、所要に応じて松樹山および二竜山の堡塁、砲台をも砲撃した。
 当初砲台に準備した弾薬が不足したので、他の砲台からも碾盤溝に流用し、通算5000発に達した。
 乃木将軍の詩に「鉄血覆山山形改」とあるように爾霊山には大量の鉄弾と肉弾が撃ち込まれたが、山形を改めたのは約1000tの鉄量を投入した二十八糎榴弾砲であった。
 二〇三高地を占領した十二月六日以降、攻城重砲兵は観測所を二〇三高地に推進し、旅順港内の敵艦を砲撃して逐次これを撃沈した。
 明治三十八年一月一日、旅順要塞は陥落した。
 旅順要塞の攻略にあたり二十八糎榴弾砲砲台が深い谷底から二〇三高地や港内の軍艦を射撃したので、友軍の将兵が驚異の眼を見張ったというが、この大遠隔観測射撃には当時まだ権威のある典範ができていなかったため、諸元の計算には各種の方法が考案され、市井の計算尺をも使用した。
 旅順攻城間における二十八糎榴弾砲の総発射段数は16940発で、1門平均は940発、その鉄量は205tであった。

【P270】
 旅順要塞第2回の総攻撃にあたり攻城重砲兵が火力を指向した敵砲兵は、堡塁、砲台を合わせて24目標(火砲86門)であるが、このうち21目標(火砲78門)は二十八糎榴弾砲が射撃しているから、当時の二十八糎榴弾砲は対砲兵戦においても主砲として使用されたことがわかる。
 対砲兵戦に専任しているのは海軍の十五糎加農4門と陸・海軍の十二糎加農約50門であったが、これらの火砲にはわずかに10目標(火砲40門)しか配当していないから、堡塁、砲台のほとんどに二十八糎榴弾砲の弾丸を撃ち込んだことになる。
 二十八糎榴弾砲は要塞用弾薬が多数整備されており、これを容易に攻城用に流用することができたから、他の砲種の弾薬が不足し使用を制限するするとともに各種の手段を講じて弾薬の増産を図ったことに反して、二十八糎榴弾砲は増産を待つことなく第一線部隊の要求を充足することができた。
 命中率もよく土地に対する侵徹力も十分だったが、元来軍艦の甲板に対する弾丸だから信管の調節が難しく、土中の侵徹過深で不発が多かった。
 旅順開城後ロシア側引渡委員長ベイリー少将の官舎に二十八糎榴弾砲弾丸の信管を縦に割って断面を示したものがあり、同少将は日本の不発弾が余りに多いからこれを掘り出して研究し、その不良の点を修正して黄金山の海岸砲克式二十八糎榴弾砲で撃ち返したが不発弾はなかった。
 ロシアの克式二十八糎榴弾砲と日本の二十八糎榴弾砲とは口径が厳密に一致し、かつ幸いに腔綫の方向が逆であるから掘り出した不発弾の弾帯は火薬ガスを減らすことなくそのまま撃ち返すことができたと語った。
 要塞受領後黄金山砲台には掘り出した二十八糎榴弾砲の弾丸多数が手入れされて砲床に並べてあった。
 旅順港における露艦に対する二十八糎榴弾砲弾丸効力調査報告によれば、各艦に対する命中弾のうち防御甲板を貫徹したものは高射界において約18〜40パーセント、低射界においては9パーセントだった。
 沈没の原因は直接二十八糎榴弾砲弾丸の威力により浸水または沈没したと認められるものはなく、いずれも数発の水中命中弾が沈没の原因となったとしている。
   艦 名    28榴発射弾数 命中弾数
 レトヴィザン     52発     8発
 ポピエダ      117発     15発
 ペレスウイート   316発     48発
 ポルタワ               12発
 バヤーン               41発
 パルラダ      206発     26発

【P497】
 火蓋を切った40榴が午後一時ちょうどに放った第11発目の弾丸はワーク川に架設したシベリア鉄道イマン迂回線の鉄橋北側に落下命中したのを、中猛虎山頂観測所の観測兵が確認した。
 本砲はこれによりシベリア鉄道を不通にするという主任務を達成した。
 この後八月十九日までにさらに百数十発の射撃を行ない、最後は砲身が炸裂したが、その原因は腔発か、または敵の砲弾が撃ち込まれたのかは不明である。