【P21】
 アメリカはこのような会議を開かずに、互いに自由に建艦競争を続けながら、常に日本を「6対10」で上回る海軍力を維持することは可能だった。
 が、そうすると、対米パリティ(10対10の対等)を国是としたい英帝国の財政が破綻するはずであった。

【P22】
 べつに移民ができなければ、日本の食い詰め人口が野垂れ死ぬといった緊急の利害があったわけではない。
 そうではなくて、アメリカが日本人をヨーロッパ人並に遇しないと報じられることが、すぐさま、中国大陸内で、中国人の「侮日」を呼ぶという構図があったからだった。
 ワシントン条約での対米6割比率の受諾も、まったく同じように、中国人の侮日をもたらした。

【P28】
 クーン・レープを率いていた人物は、ヤコブ・シフといい、ユダヤ系ドイツ人だった。
 シフは、帝政ロシアにおけるユダヤ人迫害事件に憤り、日露戦争が勃発すると、日本の国債の海外起債(1億8000万ドルという巨額であった)を一手に引き受け、ロシアの海外起債を妨害した。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、シフを「日本の銀行家」と呼んだ。

【P30】
 中国は1934年の法幣採用まで「銀本位制」を採用していた。
その銀貨は金貨と異なって、額面ではなく重量によって流通する「秤(ひょう)量通貨」である。
 当時は南米が銀の大産地であったので、中国人が「太平銀」と呼んだメキシコ銀貨を、イギリス人は茶や絹織物の輸入の代価0として毎年大量に支払い続けなければならなかった。
 しかるに中国人には、イギリスから買いたい物が何ひとつない。
 このため、ひとたび中国国内に流れ込んだ莫大な銀は、中国の外側には二度と出てこないのである。
 これにイギリス人は不満を持ち、アヘンを関税を支払わずに中国人に売ることで、銀を回収しようと図った。

【P58】
 1850年、太平天国の乱が発生したが、清朝直属の「満人八旗」「漢人八旗」といった正規軍だけでは、とうてい賊軍(400万人と号された)に対抗しえなかった。
 そこで湘勇など、各地で義勇軍がたちあがって、そのおかげで賊徒を平定することができた。
 清朝は、北京に近い地域の義勇軍をそのまま正規軍に編入した。
 このようにして誕生したのが北洋軍で、その総司令官が、李鴻章だった。
 この軍隊と将領が「北洋軍閥」と称され、辛亥革命から1927年の蒋介石による北伐まで北京に蟠拠し、事実上の中華民国を代表する政府を形づくっていたのである。

【P59】
 つまり、第29路軍とは、北洋軍閥の末裔であった。
【P90】
 独ソ戦勃発を、アメリカはドイツに不利な材料とみなした。

【P91】
 アメリカはそれまで、日本に対英参戦をさせないためならば、かなりの譲歩をする気になっていた。
 が、独ソ戦の勃発を聞いて「もはやイギリスは救われた」と判断する。
 ドイツは単独ではソ連を征服できない、ましてアメリカがソ連に物量を供給したならば―とF・D・ルーズベルト政権は考えた。

【P92】
 たとえば、ドラム缶による製品輸入の道が残っていた。
 また、上海などの第三国を経由する輸入も日本は可能だったからである。

【P108】
 パーシバルの頭に浮かんだのは、一刻も早く要塞を棄て、麾下部隊を別な土地へ逃がすことだった。
 チャーチルもその考えだった。
 だが、オーストラリア首相カーティンがこれに反対した。
 シンガポールを放棄することは蘭印の失陥につながり、それはオーストラリア大陸を危うくするというのである。
 つまりオーストラリア人は、日本の作戦軸を南北とみた。

【P109】
 対日開戦時に、イギリス参謀本部は、第18師団(第3軍団の片割れ)を、シンガポール防衛の主力とするためエジプトから派遣させつつあった。
 チャーチルはこの師団の移駐を止め、ビルマ防衛に転用すべく閣議に諮ろうとしたが、オーストラリアの固い姿勢を崩すことができなかった。

【P111】
 オーストラリア陸軍は、アフリカに派遣されていた部隊を除き、ここで全滅した。
(HP管理人:これは本当か?)

【P123】
 予科練に相当するコースは「陸軍少年飛行兵」、予備学生に相当するコースは「特別幹部候補生」であった。

【P145】
 19世紀末の米墨戦争(墨=メキシコ)におけるサンタクルス上陸、米西戦争におけるプエルトリコ上陸戦で活躍したが、塹壕線の第1次世界大戦ではほとんど出番がなかった。
 軍縮時代に入り、解散論まで飛び出した。
 評価が変わったのは、支那事変緒戦の上海決戦における第10軍(柳川平助)による杭州湾上陸の報道によってであった。
 日本陸軍は船舶工兵の器材である鉄製の「大発動艇」によって大規模な敵前上陸を実施した。
 これが米軍要路に刺激となり、アメリカ海兵隊は設備、編成ともに面目を改め、太平洋戦争における上陸作戦の尖兵として活躍した。

【P150】
1943年5月30日に大本営が、アッツ島の守備隊が全滅したことを国民向けに発表した際に初めて「玉砕」という表現が使われ、それから新聞が流行らせた。
(中略)
なお1945年には、戦犯になることを恐れた高級軍人たちが「一億玉砕」というスローガンを絶叫していた。

【P151】
ところが日露戦争(1904〜1905)後に帝国陸軍が相手にした敵は、シベリアのパルチザンにせよ中国の軍閥軍にせよ、正規軍らしいところがなく、基本的に捕虜は取らなかった。
しかも日本兵捕虜はしばしば、残虐な方法で殺された。

【P155】
 そこに日本軍は3回にわたって攻勢に出た。
 一木支隊が東から攻めて失敗したので、次の川口支隊は南の中央から、そして17軍の第2回総攻撃では西のルンガ川からと、主攻軸をその度、変えた。
 これは、絵に画いたような、日露戦争以後の陸大流「着眼戦術」で、歩兵による陣地攻撃の不利を跳ね返すことができなかった。
 「物量に負けた」「補給が続かなかった」「航空援護がなかった」などとも説明されることもあるが、不十分である。
 これ以降の島嶼作戦よりは条件ははるかに良かった。

【P156】
 ルンガ攻撃から総員撤退までの間は3ヵ月に過ぎない。
 もちろん夜間撤退のため置き去りにされた兵士はいるが、「餓島」という名前に反し、大量の餓死者が出た戦場ではなかった。
(HP管理人:これは本当か?)