【P35】
 ガ島砲撃で「鈴谷」は20センチ砲弾を504発、「摩耶」は485発を発砲し、米軍は急降下爆撃機1機、戦闘機17機が破壊され、戦闘機32機以上に損害があったといわれている。
 両艦は砲撃終了後、援護部隊の「鳥海」「衣笠」「五十鈴」の巡洋艦戦隊と合同してショートランドに向かった。
 ところが、夜が明けはじめると、敵の艦爆が追いかけてきた。
 (中略)
 このとき、「衣笠」は直撃弾を受けて沈没、「鳥海」「五十鈴」は至近弾で罐室が破壊され、「摩耶」は撃墜した敵機が甲板に激突して小破した。

【P126】
 大成功に気をよくした連合艦隊司令部から、帰途ミドウェイを攻撃せよとの電令が届いたとき、草鹿は激怒した。

【P135】
 米軍の暗号文は、ついに日本側は解読できなかったが、符号程度は解読していた。

【P152】
 2月、ガ島の北西60キロの地点にあるルッセル島が占領され、日本軍の手で作られた飛行場に米軍が舞い降りていた。

【P153】
 こうして長官巡視の計画は、「い」号作戦の大勝利を背景として、前線は安全であるとの誤った認識下に実行されたのであった。

【P175】
 号令一下、たちまち国内には、多くの研究機関や団体、協会などが設立された。
 昭和10年には神戸に、13年には東京に本格的なマスジッド(礼拝堂)が政・財界のバックアップで建立された。
 元首相の林銑十郎陸軍大将が、日本回教協会の会長となり、積極的に回教圏諸国に工作を開始した。
 突如として、日本国内で回教が異常なブームとなったのである。

【P180】
 もともとタクラマカン砂漠の西側は、転々と散在する集落を中心として、トルコ系回教徒のウイグル人、トンガン人、キルギス人など13からの部族が住みついている辺境である。
 その中でもウイグル人の勢力が強く、彼らはこの地に回教徒による独立国の建設を夢みていた。
 (中略)
 最初の反乱が、1931年(昭和6年)に天山南路の要地ハミ(哈密)のウイグル人によって起こされた。
 これを鎮圧するのに、ウルムチにいた新疆省主席の金樹仁は、省政府軍に反乱軍平定の命令を下した。
 ハミにはトルコ族のナザール王府が置かれてあり、ナザール王を補佐する軍政略家の土候フワージャ・ニヤーズが王府護衛部隊を率いていた。
 このフワージャ・ニヤーズが、オスマンの義理の叔父にあたる。
 しかし、護衛部隊だけでは省政府軍に対抗できない。
 そこで当時、勇名を馳せていた甘粛省の軍閥で、漢回人の馬仲英将軍に援軍要請した。
 馬仲英は若干20歳の青年将軍だが、豪胆で勇猛果敢、加えて卓抜した軍略家である。
 ハミからの密書を見た彼は、これを機会に西域を征服する野望を持ったとしても不思議はない。
 彼はただちに白馬にまたがると、精兵500余騎を率いて砂漠を一気に駆け抜け、ハミ城下でフ軍と必勝の誓いを交わした。

【P237】
 昭和17年2月15日の朝、アンボンの水上基地から飛び立った九七大艇の三浦機は、まもなく豪州の北岸に達しようとしていた。
 (中略)
 機長の三浦特務中尉が命令した。

【P239】
 「敵輸送船団見ゆ、大巡1、駆逐艦3、大型輸送船4、ポートダーウィンの西方100カイリ、針路270度、速力12ノット」
 敵情を報告すると、機は遠くから見えかくれに触接しながら、船団の行動を監視する。

【P243】
 古川整曹は、無意識にかかえていた浮遊物を調べてみると、ありがたいことに、折り畳んだゴム製の救命筏だった。
 さっそく広げて備えつけのフイゴで脹らませる。
 救命筏は幅1メートル、長さ3メートルのドーナツ状の浮き輪で、底が網になっていた。
 この中に入っても、下半身は海水につかってしまう。
 赤白だんだら模様で、浮き輪に『藤倉ゴム工業製』と書いてあった。

【P244】
 漂流3日目の17日、突然、頭上から聞きなれた爆音が降ってきた。
 見上げると、陸攻の大編隊が飛んでゆく。
 (中略)
 敵船団発見の電報に、味方がなおも索敵機を飛ばして攻撃へと移ったに違いない。

【P245】
 三浦機が発見した船団は、翌16日、大艇10、一空の陸攻35機によって攻撃が行なわれ、輸送船3隻を大破していた。
 そして17日、彼らの頭上を飛んだ陸攻は、討ちもらした敵艦を求めて出撃した一空および鹿屋空の陸攻45機であった。

【P250】
 ヘイに着いて間もなく、捕虜��2として海軍の下士官が入所してきた。
 名前は南兵曹という。
 素性は語ろうとしなかった。
 名前も偽名であろう。
 古川整曹は、彼の動作などから見て搭乗員だと直感した。
 かつてダーウィンの野戦病院に捕らえられていたとき、大尉の看護婦長が彼のところへ、製造所とナンバーを刻印した墜落機の脚の目板をもってきたことがあった。
 一目見て九九式艦爆のものとわかったが、彼は数字以外の文字は読めないと言って、説明を断わった。
 古川整曹は、あの目板こそ、2月19日に機動部隊がダーウィンを攻撃したとき、空母から飛び立って撃墜された南兵曹の乗機のものに違いないと、ひそかに確信していた。
 記録によれば、当時、空母「加賀」の九九式艦爆1機と、「飛龍」の零戦1機が未帰還になっている。
 南兵曹は、このいずれかの搭乗員だったのかもしれない。
 今なお不明である。