【P16】
 昭和18年5月、新聞に大見出しで海軍飛行予備学生を大量に採用するという記事が出た。

【P17】
 この年、陸軍も特別操縦見習士官という制度を設け、航空戦力の拡充を図った。
(略)
 採用試験は全国で行われたが、私は目黒の海軍大学校で受験するよう指定された。(前略)下士官と思しき人たちが検査官となり、身長、体重、胸囲、視力、握力、肺活量、懸垂などを屋内や屋外で調べた。
 次いで口頭試問が別室で行われ、代数や三角の問題、海軍志願の動機などについて質問されたあと、中佐の肩章を付けた士官から、『飛行適B』と書かれた書類を手渡され、入隊まで充分に体を鍛えておくように言われた。

【P18】
 海軍大学校での試験は6月だったが、(中略)9月6日に葉書で、9月13日午後1時までに三重海軍航空隊に参着すべし、という通知を受けた。

【P19】
 東京駅は広場も、構内も人と旗の波で渦巻いていた。各学校の校歌や応援歌、軍歌、万歳の声がどよめく騒然たる光景である。中には応援団まで繰り出して気勢を上げるものもあった。
(前略)これだけ沢山の仲間がいるのかと思う(後略)。
(略)
あした土浦空に入隊する桐ヶ谷信の顔も見えた。

【P21】
 (中略)2918番と書いた長方形の木札をもらっ(後略)た。

大部分の者は制服に学生帽であったが、中に和服の者、国民服の者、それに陸軍の兵隊、海軍の水平が混じっているのが目立った。

【P22】
「(中略)教育訓練の方式はすべて海軍兵学校に倣って行なう」

【P23】
 (前略)我々のことはこのまま帰さないという。その理由は、陸軍が特別操縦見習士官を募集しているため、我々を帰すと陸軍に取られてしまうからだ、という噂であった。
 (前略)陸軍側から抗議が来たらしく、遂に陸軍の兵隊で受験した者は全部、特別操縦見習士官を受けなければならなくなり、中には中隊全部から盛大な見送りを受けて勇躍、海軍航空隊に入隊してきた者たちまでが、悲痛な面持ちで原隊に帰っていったとのことである。

【P25】
 (前略)十日余りの訓練(後略)。

【P26】
 (前略)海軍予備学生とは、商船学校、大学、高等学校、専門学校出身者、在学者が志願して入隊し、1年間で少尉に任官後、予備役に編入される制度であり、まず飛行科ができ、その後、整備科、各種兵科、飛行要務などができた。
 (前略)発令があり次第飛行科、兵科、飛行要務に分けられ、兵科は武山海兵団、館山砲術学校などへ移るが、全く不合格になった者は再び故郷に帰り、陸軍または海軍の兵として応召される日を待たねばならない
 予備学生の階級は兵曹長の上で、少尉候補生の下である。

【P27】
 海軍では一万の予備学生と、十万の予科練を採用し(中略)た。
 東京から同行した本間は魚雷艇搭乗員となって横須賀へ行くことになり、陸戦と決まった者は、館山砲術学校に入隊することとなった。

【P29】
 昭和18年10月1日、待ちに待った入隊式の日である。

【P30】
 (前略)2,500名、第13期海軍飛行予備学生を命ず(後略)。同じ日、土浦海軍航空隊においても入隊式が行なわれ、ここに5,000に近い第13期海軍飛行予備学生が誕生した。

【P32】
 それ以来若い教官や教員が、軍人精神注入棒と墨書した棒を手にして肩を怒らせて歩いたり、床をガタガタ叩かれたりすると、鈍重な我々も鞭を恐れて走る馬のように、知らず知らず機敏な行動をするようになっていった。
 しかし、鉄拳制裁こそ体験したが、バッターと呼ばれる棒の制裁を受けた者は殆んどいなかった。
 制裁のことを海軍では修正するといった。
 階段を二段ずつ駆け上がらないと言っては修正、敬礼しないと言っては修正、元気がないと言っては修正、その修正というビンタがこのあと毎日のように行われたが、軍人らしいキビキビした動作を作るための、やはり必要悪であったようである

【P34】
 正月休みも終わっ(後略)た。我々はかつての適性検査と、自分の希望などによって、操縦、偵察、飛行要務に分けられた。偵察とは(中略)、射撃、爆撃、通信、航法、写真など操縦以外のすべての作業を機上でする(後略)。飛行要務は飛行機に乗らず、飛行事務一切を引き受ける。
 このときは海軍の計画により、操縦より偵察に決まった者が多かった。
(略)
私は偵察に決まり、鈴鹿航空隊へ行くことになった。2,500人が前期を送り出して減り、さらに細分されて、各地に別れてゆく。

【P35】
そして1月12日、(中略)三重海軍航空隊を出発することに決まった。

【P36】
 (前略)鈴鹿空の士官がやって来た。そして、初対面の我々にいきなり気合を入れた。
「お前たちの態度はダラダラしてたるんでお今から海軍精神を叩き込んでやるからついて来い!」
 先頭に立った士官の号令で、我々は航空隊までの上り坂を一気に駆けた。
(略)
真冬だというのに汗びっしょり(後略)。

【P37】
教官は三重空とは違い、全て搭乗員である。

【P38】
 (前略)砲を海中に向けて水柱を立て、低空で襲ってくる雷撃機を落とそうとする。

【P42】
途端に編隊は上下に大きく分かれたと思うと、今度は上の機が降下し、下の機が浮き上がる。空く気流に入って計器は一挙に50メートル以上も上がったり下がったりするので、そのたびに頭の血が下がってボーッとする。
 (前略)この恐るべき上下運動をこらえ、早くこの悪気流から脱け出したいと願った。
 再び陸地に入り、やっと安定したが、生きた心地はしなかった。

【P43】
 (前略)当分、あんな飛行機には乗りたくないと思った。(前略)もしかすると海上に出た時、操縦員が操縦桿を動かして飛行機を揺さぶり、初心の我々の度肝を抜くつもりだったのかもしれない。
 夜になって、背の高い士官が入って来ると全員に整列を命じ、
「俺は貴様たちの先輩、十一期の関(和芳)少尉、艦攻操縦である。今日の飛行作業は気合いが入っていない・・・・・」
とばかり、長々と訓示し、総員修正をやった。しかしこれも、初めての飛行作業の夜は、全て殴られる習慣らしかった。

【P44】
 (前略)五十嵐教員が、
「今日の射撃訓練は敵愾心というものが少しも見られない。そんなことで敵機が落とせるか!今から飛行場一周!」
 我々は飛行靴を脱がされ、裸足になった。飛行靴は値段が高いから、罰直の駆け足には勿体ないというわけである。飛行場は一周約4キロほどあるが、小石が足の裏に突き刺さり、痛くてたまらない。そのうえ走り方が遅いと言って、中途で更に活を入れられる。ハアーハアー言いながらやっと、駆け足を終わる。我々に深呼吸をさせながら、
「精神力はこうして一歩一歩強くなっていくんだ」と教員は結んだ。

【P48】
 5月中旬、我々は5月31日を期して少尉に任官するという噂が立った。
(略)
普通1年で任官するのだが、5月末ではまだ7ヵ月目である。
(略)
人事係の教官が来て、
「5月31日付、諸子は海軍少尉に任官する。身上調書にはこう書かれる」 と言って、紙片を見ながら黒板に、“昭和19年5月31日、海軍少尉に任ぜられ予備役仰せつけらる。即日、充員召集を命ぜられ、鈴鹿海軍航空隊に着任”――何のことはない、その場で召集を受けたことになる。

【P51】
(前略)私の専門機種は陸上攻撃機と決定された。任地は台湾の高雄航空隊となった。
(前略)夕食前に全員が整列させられ、飛行長初め次々と教官が号令台に立って、ドスノ利いた声で気合いを入れたり、小言を言ったりした。
 これはまた一つの決められた筋書きによるものとかで、例によって飛行長自らが先頭に立って、数百人の全員を修正したのであった。
(略)
思えばこれが、鈴鹿における最後のビンタになるかもしれない。

【P52】
 7月下旬、我々は鈴鹿空の全教程を終わり、次の任地に出発することになった。
(略)
 飛行便は8月1日と決まった。それも千葉県木更津基地を出発する飛行機3機ということであった。そこで高雄行きの17名は急遽、上京し、午前8時に東京駅着(後略)。
(略)
 その日の午後、木更津に向かった我々は夕方近く、ようやく木更津空の隊門に入った。

【P53】
 その夜は木更津市内の旅館に泊まり(後略)。
(略)
 翌朝、再び木更津空へ行った我々は、3機の飛行機に分乗、私は輸送機に乗ることになった。

【P54】
飛行場の東に高雄空の庁舎があるというので、そこに行って着任を知らせると、我々の任地は西側の派遣隊だと言われ、自動車で送ってくれた。

【P55】
 高雄航空隊弥陀派遣隊は後に、第二高雄空と改められたが、高雄州弥陀庄にあり、豪華な高雄空本部に比べると木造で床は高く、いかにも南方の基地という感じであった。
(略)
射撃と整備を担当する練習生を養成する航空隊が主たる任務であり、子の練習生は飛行科であるが、搭乗整備員兼射撃の配置に就き、将来は整備兵曹長となって整備科の道を行く、とのことだった。

【P56】
 ここでは、教官になった我々は、射撃訓練を行なう練習生の飛行作業に同乗した。

【P59】
 着任後、2週間経った頃、待ちに待った命令が出された。台湾の南方洋上に、敵駆逐艦らしきものが現れたため、今後は毎日のように索敵機を出すという。
(略)
 索敵機は5乃至6機、500キロ爆弾1発を搭載して、台湾の南端から扇形のコースを飛ぶ。
(略)
人数の多い偵察員も機長の役で、4日に1度くらいの割りで順番が回ってくる。

【P64】
 それから数日後、索敵に出ようとした飛行機が離陸直後、エンジンに白鷺が飛び込んでしまい、失速して爆弾を持ったまま、砂糖黍の畑に墜落するという事故があった。

【P66】
 また、仮想敵機となって、東湖の上空に行くよう命じられた音川重雄機が高雄を出発してわずか15分後、味方の水上戦闘機と空戦訓練中に、尾翼にフロートを接触されて失速、墜落して全員が殉職していた。

【P69】
 翌朝、第二航空艦隊からの命令で、我々は台湾各地の航空隊へ配属されることとなった。
(略)
 私は新竹へ行くことになり、九六陸攻に(中略)整備兵を交えた十数人で出発した。

【P70】
 第二航空艦隊の主力は鹿屋ににいるが、一式陸攻十数機が、新竹に進出して来たとのことである。

【P77】
 (前略)幕僚を従えて、第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将が入って来られた。
(略)
 そういえば、きのう士官室のガラス越しに連合艦隊司令長官豊田副武大将の姿も見た。どうやら新竹には、連合艦隊の首脳部が集まっているらしい。

【P78】
 航空戦も一段落したので、我々も新竹を引き揚げることになり、先の分隊長の飛行機は(中略)無事だったので、分隊長らがそれに乗って先行したが、乗り切れなかった者を連れて私は夕方、新竹駅から汽車で高雄に向かった。

【P79】
 高雄へは翌朝着いた。

【P81】
 先の台湾沖航空戦で“輝部隊”は消滅し、新たに攻撃708空が編成され、“T部隊”と呼称された。台風の中でも攻撃に行くという意味である。
(略)
同時に高雄空の掩体壕に、一部がベニヤ板でできたロケット機が何機か収められた。速度計は600ノットまでついていて、今までのプロペラ機では想像もできない速度である。
 これが○大(まるだい)と呼ばれ、一式陸攻から放たれる特攻機だった。○大は大田中尉という考案者の頭文字(後略)。

【P83】
 そのうち私は、延期になっていた内地への要務飛行に出発することになって、(中略)総勢9名で、早朝に高雄を出て内地へと向かった。

【P84】
(前略)まだ明るいうちに、横須賀航空隊に着陸することができた。

【P85】
 (前略)第二高雄空士官全員のグリーンの第三種軍装一揃えを受領した(後略)。

【P86】
(前略)横須賀を発ってまた台湾へのコースをとったのである。
(略)
 比島からの空襲はさらに激しくなってきたが、飛行作業は続けられ、他の者たちが、次々内地要務飛行を繰り返していた。

【P88】
 2月下旬になると、もはや練習生の教育も殆んどできなくなっていた。
(略)
 ある日の朝食後、司令は士官食堂に士官、准士官全員を集めた。そして、
「敵機の空襲が激しくなり、もはや教育部隊としての機能を果たすことができなくなった、よって残念ではあるが、ここに第二高雄空を解散する。搭乗員は全員内地に帰還(後略)」
と説明した。

【P89】
そして私は次の任地、静岡県の大井航空隊へ出発すべく準備を整えた。
 3月1日、たった1機になってしまった九六陸攻に、多数の転勤者が乗り込み、(中略)滑走路に向かって静かに動き出した。
 この日(中略)、無事鹿屋の土を踏んだ。そして大井空への転勤者は、鹿児島から汽車で30時間余りかけて、静岡県の金谷に着いた。金谷駅は山の中腹にあり、その山の上に大井航空隊があった。

【P90】
 ここで我々は練習生の分隊士を命じられたが、その後、大井、鈴鹿、徳島などの練習航空隊は、我々のような外地からの帰還者で膨れ上がっていったが、(中略)人員と飛行機のアンバランスによる余剰の人員が、これらに収容されていたようだった。
(略)
 私の受け持ちは甲種飛行予科練習生13期で(中略)あった。
 彼らは、三重航空隊奈良分遣隊で基礎教程を終わり、大井空に偵察練習生として入隊してきた。だが、その頃は燃料の不足から、内地の練習航空隊では、訓練の数を減らしたり、中止したりしていた。
 彼らは、我々と同じころ海軍に入隊していた。そして飛行機に憧れ、苦しい訓練にも耐えてきた17、8歳の少年兵達だった。
だが、飛行作業を目前にして中止され、飛行場の拡張作業やトンネルを掘る作業をさせられていた。私は何だか彼らが気の毒になって、あくまで希望を失わせてはならないと思い、常に彼らを理解しようと努めた。

【P91】
 私はそれからの毎日、練習生とともに作業に出掛けた。

【P92】
 3月15日、我々は1ヵ月の予定で、館山の砲術学校へ陸戦の訓練を受けに行くことになった。

【P93】
 座学で米軍のこれまでの手口を習ったあと、いよいよ練兵場で昼夜にわたって訓練を受けることとなる。教官は我々の後輩である、四期の兵科予備学生が多かった。
 あるとき、8センチ砲を囲んで講堂で実習中(後略)。その数分後、説明していた教官が砲の引き金に手をかけると、大音響を立てて実弾が発射された。
 幸い砲口の近くにぱ誰もいなかった(後略)。弾丸は兵舎の壁を幾つも貫いて屋根瓦を壊し、吹っ飛んでいった。
(略)
 のちに、この砲を戦車に搭載し、機動性を出すよう改装したものを、海岸で実弾射撃するのを見学したが、戦車は跳ね上がるような反動で、目標にはなかなか命中しなかった。
 同時にロケット砲の発射もやった。海岸遠く、花火のように炸裂するロケット弾、火炎放射器の炎、毒ガス処理班の訓練などがあって、私も新しい陸戦の知識を大いに得たものである。

【P94】
 海岸での射撃訓練の際は、機密保持のためか終日、煙幕を張って付近を覆っていたのが印象的だった。
 館山には山岡部隊という、正規の陸戦隊がいた。これは(中略)にわか作りの部隊ではなく、初めから陸戦隊として編成された精鋭部隊であった。
 異様だったのは、この山岡部隊の将兵は全員が髪を伸ばして、奇麗に分けており、体躯も抜群だったことである。噂に聞くと、いずれも柔道、剣道の有段者であり、潜水艦で米本土に上陸し、決死の切り込みをやる予定だったが、サイパン島の失陥その他でその作戦は中止になった、と聞かされた。

【P95】
 4月15日、この日で館山での陸戦訓練は終わった。
 大井空ではその後も、以前と同じように、トンネル掘り作業が続けられていた。
 やがて、5月も終わりに近づいたが、我々の習ってきた陸戦の準備も、陣地の構築も行われそうもなく、私はじりじりしていた。もしこのままで、敵が遠州灘へ上陸したら、手も足も出ないであろう――と。

【P96】
 6月1日、私は中尉に進級した。
(略)
特殊爆弾とは、原子爆弾らしく、原爆は日本でも研究されていて たらしかったが、1発で小さな島を吹き飛ばす威力があり、原爆を先に持った国が、勝利を収めるとも聞いていた(後略)。

【P98】
(昭和50年「丸」7月号収録)