【P100】
 私の転属先となった土浦海軍航空隊は、(中略)基礎教程の場で(中略)あった。
 私たち第十四期の予備学生は(後略)。私は(中略)、ここで4ヵ月の基礎教程を履修することとなった。
 分隊長は予備学生飛行科八期出身の木村中尉(中略)、分隊士は予備学生兵科二期出身の菊池少尉(後略)。
 二等水兵のときは被服などすべて官給であるが、予備学生となると全部私物で、士官用の帽子、被服、短剣、寝巻まで支給された。

【P101】
 (前略)士官の制服(紺色の第一種軍装、夏服は第二種軍装)(後略)。
(略)
なお、この被服代は月々の俸給から月賦で返済するとかで残額が支給されたが、この金を日用品や酒保の菓子代などの支払いに充てるのだから遣り繰りが大変である。
 ちなみに二等水兵だった頃(後略)。
 昭和19年2月1日――土浦海軍庁舎前において、第一種軍装、短剣姿の私たち十四期の入隊式が挙行された。
 (前略)第十九連合航空隊(全練習航空隊がこれに属した)司令官・海軍少将久邇宮朝融王殿下(皇后陛下の兄君)の隣席の下、「第十四期飛行専修予備学生を命ず」とのお言葉があり(後略)。その数1,964名(後略)。

【P102】
 服装も(中略)夏は白、冬は紺色(中略)、中でもうるさかったのはワイシャツのカラーと靴磨きで、巡検前に毎日必ず靴を磨かねばならなかった。。
(略)
 外見のみならず日々の行動にもこのスマートさは要求され、甲板士官(風紀係士官)が一日中樫の棒を持って隊内を巡視、大声で私たちを追い回し、違反者は厳しい注意を受けるとともに、鉄拳が待ち受けているのである。
(略)
 (前略)所定の服装をきちんと着用し(帽子をあみだにかぶることは禁じられていた)、隊内ではすべて駆け足で移動し、隊伍を組んで歩く以外は歩くことを禁じられていた。

【P103】
 (前略)毎朝、朝礼を受けるのであるが、ある日のこと我が分隊の一学生が、学生舎より歯ブラシを使用しつつ出てくるのを木村分隊長に発見されて、顔はお岩さんのように腫れ上がり、二、三日、食事もとれないほど修正される一幕もあり、躾の面では特に厳しかったように思われる。
 (前略)毎月一回、“分隊点検”と称する服装検査があり、学生、練習生全員が対象となった。当日は朝、褌から下着、靴下にいたるまで全て洗濯したものに着替え、第一種軍装にはブラシをかけ、髭もきれいに剃り上げて、不動の姿勢で一人ひとり分隊長の点検を受けたのである。
 (前略)ズボンをハンモックの藁布団の下に敷く要領も覚え、(中略)娑婆で20年余も気ままに暮らしてきたせいか、所謂娑婆っ気が抜けず、軍人精神が入っておらぬと、しばしば気合いを入れられる毎日であった。

【P105】
 分隊長自らの“修正”回数は少なく、もっぱら分隊士の役割であったが、何分にも一人で分隊全員百二十数名を修正するのであるから、そのあと時には二、三日ほど寝込むようなこともあって、何事にも厳しい教官であった。
 (前略)飛行要務生徒(生徒とは大学予科、高専在学中の者がなり、海兵生徒と同じく准士官の下、上等兵曹の上という階級で服装は学生と同じであった。なお要務とは搭乗員ではなく事務的な配置である)(後略)。

【P106】
 昭和19年3月下旬――待望の操縦か偵察が決定される適性検査が行われた。
(略)
検査の結果、私は残念ながら操縦不適で、偵察員に回されることとなった。
(略)
 5月上旬には操・偵の決定と、任地の発表があり、私は四国の徳島海軍航空隊に決められた。ここで偵察学生として、中練教程を受けることとなったのである。(前略)占いや手相により、操・偵決定の参考資料とした(後略)。

【P107】
 5月25日、いよいよ基礎教程の終了式が行われ、健康上の理由により飛行要務学生に回された若干名を除き、操縦学生は谷田部、出水(陸上機)、博多、詫間、北浦、鹿島(水上機)などの中練航空隊へ、偵察学生は大井、徳島両中練航空隊へ向かうこととなった。
 そして私たちは列車で二百五十余名の同期生とともに、期待に胸を膨らませつつ徳島海軍航空隊へ着任したのであった。
(略)
 (前略)約半年後の中練教程の途中、12月25日に晴れて海軍少尉に任官した(後略)。

【P108】
 そして後日、20年3月、卒業の時点では、既に私たちを受け入れてくれる実施部隊(実戦部隊)さえなく、本土決戦に備えて西日本の各練習航空隊から駆り集められて編成された第十二航空戦隊では、旧式の零戦二一型、複葉の九四水偵、九三中練など約500機にのぼる残存機と、機上作業練習機「白菊」まで駆り出して、特攻訓練が開始されるようになり、私たちの所属する徳島空においても、これらの方針に基づいて急遽、特攻訓練が開始されたのであった。

【P109】
ここは舞鶴海兵団や土浦空と異なり、寝床もハンモックではなく、二段ベッドが備えられ、居住区と寝室は別々となっていて、被服を収める衣嚢の代わりに、各人に竹製の行李が支給された。

【P127】
 待望の飛行作業が始まったのは、(中略)昭和19年(中略)9月であった。

【P131】
 私たち十四期の二百五十余名は、中練教程半ばで任官し、昭和20年3月にやっと卒業した(後略)。

【P132】
「(前略)この度白菊による特別錬成隊が発足するので、それに加わるように・・・・・」
ということになった。(前略)私は光栄ある白菊特攻隊へ入隊することに相成ったのである。

【P133】
新たに編成された徳島空「白菊」特別攻撃隊は3個中隊で編成されていた。

【P134】
第二中隊長は予備学生十期、甲飛十三期飛行練習生たちの分隊長の大野中尉(後略)であった。使用機は「白菊」七、八十機、搭乗員百数十名というというまさに堂々たる陣容(?)であった。
 第一中隊は予備学生十三期の操縦・偵察員、甲飛、乙飛を中心に、第二、第三中隊は偵察員に予備学生十四期及び甲飛十三期を、操縦員には搭乗員養成所出身、特乙一期、二期を中心に編成されていた。
 私は第二中隊に配属された(後略)。

【P136】
 戦雲急を告げる昭和20年3月、我が海軍は俄に練習航空隊の搭乗員の養成を取り止め、水上機、九三中練、白菊などをもって特攻訓練を開始することとなった。
 そして、我が徳島空は五航艦(近畿以西、関東は三航艦が担当)の十二航戦(第十二航空戦隊、近畿以西の十数個の練習航空隊により編成)に属し、全機特攻のときを迎えたのである。

【P155】
 (前略)5月中旬、全員参加による総合戦技訓練が行われた。
 (前略)まず未明に各中隊ごとに徳島空を発進、神戸港に在泊する“艦艇”を攻撃し、和歌山市上空で集結、帰投するという想定のもとに行われた。
(略)
 いかに練習機「白菊」とはいえ、百余機が次々と編隊離陸を行なう光景は、まことに頼もしい限りであった。

【P156】
 昭和20年に入ってメーカーの九州飛行機より補充された新品の「白菊」を含め、約百機は中隊順に離陸してゆき、やがて飛行場上空で編隊を組む。
 もちろん私も(中略)小隊長として列機を率いて参加した。そして、たまたま神戸港で艤装中の小型空母を発見、これに対し我が小隊は次々と緩降下爆撃を行ない、(中略)全機が無事帰投した。
(略)
 (前略)長時間(約3時間)にわたる飛行(後略)。
(略)
 (前略)5月下旬の月明時を期し、いよいよ第1回目の沖縄特攻を実施するため、鹿児島県・串良基地へ展開しようとした直前になって、静岡県の大井空(徳島空と同じ十三連空に属する偵察員の中練航空隊)において、二座機(艦上爆撃機、零式観測機など)の偵察員の特別錬成が行われることとなり、我が第二中隊からは十三期から数名、十四期では正木毅少尉、篠崎豊少尉と私の3名が、特攻隊から外されて、約2ヵ月の予定で大井空へ派遣されることになった。

【P158】
 (前略)私たち十四期の3名は、なぜか長男ばかりだった。
(略)
 なお、十四期の隊員は妻帯者が2名(1名は俳優の西村晃少尉)いたが、両名とも最後まで出撃せず、無事終戦を迎えられた由。
(略)
 私たちが二座機偵察員の錬成のため、大井航空隊へ着任したのは、(中略)5月下旬のことだった。 

【P159】
きのうまでの特攻隊時代の、部下を持った分隊士などはなく、あくまで飛行学生の身分であり、いわば元の予備学生時代に逆戻りといったところである。

【P162】
 こうした2ヵ月間の特訓ののち、7月下旬に至りようやく卒業式が行われることになった(後略)。
 こうして私たちは、(中略)原隊の徳島空へ帰隊することとなったのである。
【P163】
 (前略)徳島空本隊も空襲を受け、今は撫養の天理教協会へ全員が移動したとのことで、列車を乗り継いで帰隊できた(後略)。
 (前略)数日後、私たち錬成員一同は、またもや吉野川を約40キロほど遡った市場町の第二基地へと移動させられた。

【P165】
 (前略)市場町は、近頃高校野球で有名となった池田町(蔦監督も私たちと同じく十四期偵察学生出身)に近く、山あいのまことに静かな町(後略)。
(略)
 五次にわたる沖縄特攻を終えて、あとは本土決戦に備える特攻隊には、既に操・偵ペアが組まれており、私たち錬成組偵察員の入り込む隙もなかった。

【P166】
 とにかく毎日なすこともなく、ぶらぶらしていることは、難行苦行以外の何物でもなく、たまには近くの小川へ魚釣りに出かけては気を紛らわし、(中略)裏山でマムシを気にしつつ、ステンレスの昭和刀を振り回し、山の木を斬ってはストレスを解消、それ以外はおよそ毎日毎晩、トランプに明け暮れた。

【P167】
 前夜上陸した下士官より、『本日正午、重大放送あり』のビラが町角に貼られ、日本が負けたらしいとひそひそと町の人々が囁いていたと知らされた。

【P169】
 (前略)隊員たちは意気消沈しているため、私はある日、吉野川へ部下たちを水泳に連れて行った。ところがその帰り道、土地の子供たちに“敗残兵”と罵られたのはショックであった。きのうまでは“海軍さん”と慕っていた彼らが、かくもむごき言葉を浴びせるとは、情けないやら、悔しいやら、断腸の思いだった。
(略)
 一週間が過ぎた8月23日の午前零時過ぎ、搭乗員に総員集合がかかって、飛行長より次のような訓示があった。
 ――(前略)早朝より「白菊」にて各人の故郷近くの飛行場まで送る(後略)――

【P170】
 (前略)残念ながら私は当時、家族は私の生まれ故郷の満州にあり、しかも大連から首都の新京市へ転勤になっていたため、帰るべき家もなく、一度しか会ったことのない長崎県壱岐の島の父方の叔父を頼ることとし、九州方面の組へ加わったのであった。
 (前略)私たちの搭乗機が第二基地を離陸し、瀬戸内海上空を西へ向かい、最終目的地の築城基地へ着陸した(後略)。

【P173】
(昭和61年「丸」4月、5月号収録。)