【P290】
 昭和十九年八月末、朝鮮の元山航空隊で私たち約九十名の若い少尉は、第十三期海軍飛行科専修予備学生(前期)として、入院患者、転科者をのぞき、ぶじ実用機(戦闘機)過程を一ヵ月おくれで終了し、実施部隊などに配属される命令を心待ちにしていた。
 思えば、昭和十八年九月十三日、土浦航空隊に入隊し、主として理工系出身者で構成されているために基礎課程が二ヵ月短縮され、同期のなかでも「前期学生」と称された第十一分遣隊員となり、同年十二月から霞ケ浦航空隊谷田部分遣隊で練習機(九三中練)を終了、ついで十九年三月から大村空大分派遣隊(七月、元山空へ移動)で実用機(九六艦戦、零戦)を終了したときには、すでに約一年を経過していた。
 飛行時間、平均八十時間のヒヨコたちが、元山空へ移動したために一ヵ月おくれる“卒業”をとりもどすべく、実施部隊で羽ばたくことを夢みながら、巣立つときがきたのである。

【P292】
 北緯三十九度よりまだ北にある、日本海に面した辺境と思われる土地、元山には日本人が人口数万のうちの半分もしめており、幹線道路には日本式家屋が建ちならび、中学校まであること。リマン海流(寒流)のため港の近くの海水浴場(松濤園)へ行ったものの、冷たくて、十分間も入っていることができなかったこと。航空隊の諸施設がもともと陸攻隊の基地であるため、千五百メートルものりっぱな滑走路が四本、井ゲタに東西南北にのびており、本部庁舎も白亜の殿堂のようであったことなど……。。

【P293】
 ついで、第一飛行隊指揮所で、飛行隊長小福田皓文少佐に申告をすませたあと、私たちグループの先任者となる小野二郎大尉(水戦出身)に紹介され、秋水部隊発足の第一歩をふみ出したのであった。

【P297】
 秋水はロケット機であり、高速で急上昇し、高度一万メートル以上で戦闘するものと考えられるため、地上で、発進前から酸素を吸入し、また搭乗員の機能低下を防止するうえからも、高度の変化におうじて酸素吸入量も変化させることが必要であった。
 この見地から、大島軍医少佐は、マスクとボンベを直結するパイプの途中に中空のゴム製の腹帯をもうけ、酸素の吸入を搭乗員の呼吸に合わせて行なうことができるものを考案したのであった。

【P305】
 滑走路には一式陸攻が胴体の下に魚雷を二本抱いて全力運転を開始しており、ブレーキのきかない中練がその後流にはいれば、キリキリ舞いをしなければならない。
(中略)
緊張して搭乗した中練の「天風」三百馬力の爆音は、他の大馬力の実用機の爆音にかきけされ、後席の飛行隊長の声だけが、伝声管を通じてビンビンひびいてくる。
(中略)
 いつまでも離陸しない一式陸攻の後ろ姿を見ている私の耳に、「離陸!」と飛行隊長の声がひびき、私私はロボットのようにスロットル・レバーをいっぱいに開いた。
(中略)
後席が操縦しているのだ。
 私は手もちぶさたになった手でハンド。レールをにぎったが、血が頭にのぼってしまい、後席の声が、「アソコはどこ、ココはどこ」と、飛行場周辺の名のしれた目標物を説明するが、私はといえば、「ハイ、ハイ」と、返事をするけれど、さっぱりわからかい。
 やがて「帰る!」の声で、こんどは私が操縦して飛行場の上空に帰る。

【P311】
 犬塚大尉は、隊長とおなじく、水上機から転じた操縦員である。

【P312】
 もちろん、操縦技量も水上機出身(一般に水上機搭乗員は陸上搭乗員よりも技量が上であるといわれていた)であるため、中練の滑空定着も二、三回でオーケーであった。

【P315】
このとき飛行場では、一式陸攻による〇大マルダイの投下実験飛行が行われていた。

【P316】
投下されたあと、飛行する物体は、追跡している思われる零戦「」をグングンひきはなし、やがて旋回して着陸してきた。
(中略)
そして、これが太田正二少尉の発明した火薬ロケットで噴進する人間爆弾の実験飛行であることがわかった。
(中略)
 飛行隊長・野中五郎少佐は、二・二六事件の野中四郎大尉の次弟で、その勇猛さは海軍部内でも有名であり、「勇将の下に弱卒なし」の意気天をつくの観が、搭乗員一人ひとりの顔に見られ、私たちはこの新編部隊の活躍に大いに期待したものであった。

【P320】
 なにはともあれ、飛行試験が成功したので、その日の夕食時に基地内で会社側をまじえて、ささやかながら祝宴をもよおしたのであったが、その席上でMe163と呼称するよりも、日本的な名前をつけることが提唱された。
 海軍の制式局地戦闘機は、ふつう気象関係、たとえば、雷電、紫電、天雷などのように「雷」または「電」の一字をつけることになっていたが、今回は制式化されるまでの会社側および部隊側の秘匿名としての名前についてである。
 そのとき、詩歌に才のある岡野勝敏少尉が、試飛行を祝って短冊にしたためたた短歌を隊長にさし出した。
 その短歌は、「秋水(利剣)三尺露を払う」――すなわちMe163が高性能を利してB29を一撃のもとに撃墜し、戦局の不利を挽回する意味のものであった。Me163を秋水(とぎすましたするどい剣)になぞらえたのである。 この「秋水」の名前は満場一致で採用され、その日から「秋水」と仮称することになった。

【P323】
この人が後日、私たちの司令になる柴田武雄大佐であった。五尺四、五寸で恰幅がよく、眼光こそするどいが、なにか高僧を思わせる風貌の上官であった。
 来意は、隊長と会うことであったが、霞空へ出張中のむねを伝えると、「私も、霞空へ行こう」と、たんたんとして去られるので、「便(交通の便の意味)は…」とたずねたところ、
「中練できたので、便の心配はいらない」とのことで、私は整備の当直下士官に連絡し、中練を始動させた。
 すると柴田大佐は第一種軍装のまま、正帽を飛行帽にかえただけで、中練を操縦して去っていった。

【P324】
 それでも、とうてい地上では想像もつかない低温なので、飛行服の下にドッサリと下着をきこみ、酸素マスクは、従来のものと低圧実験時に使用したものを交互に装着して、その差異もテストすることにした。
 そのぎゃくに、機内温度がひくいので、新しく考案された酸素マスクを装着しているときは、いわゆる「飛行機ぼけ」も、通常の訓練時の常用高度千五百メートルていどであり、かんたんな掛け算の暗算もうまく行なえたが、従来のものを使用したさいは「飛行機ぼけ」もひどくて、高高度の水平飛行も長くつづけることができずに着陸し、その両者の差異をはっきりと体験できたのであった。

【P359】
 私たちの部隊は、特殊な訓練部隊なので、燃料もハイオクタン価のものが補給されており、寒冷時に滑空定着の訓練を行なっても、エンジン停止の事故が発生したこともなく、また、海軍ではいままでに中練が火災を発生するという事故例が、ほとんどなかったからである。

【P364】
そのかわりに午後になって九州方面の各基地からの逃亡機が、やつぎばやに姿を見せはじめた。
 それも銀河、天山、彩雲、彗星などの複座機ばかりである。
 搭乗員たちは、そばにかけよった私たちとは言葉もかわさずに、後席から大きな梱包をかつぎ出して、逃亡の発見をおそれるように去っていった。
 この逃亡者のなかには、ひとりの女学生風の十代の娘がおり、その娘が、私たちの姿を見てオドオドしているので面詰すると、消え入りそうな小さな声で、
「航空廠に学徒動員で勤めていました。家が空襲にあって両親が死んだので帰る家もありませんから、いっしよにきました」
 と、答えた。そのなにかを訴えるような言葉のはしばしと、去っていく彼らの哀れな後ろ姿に、私たちの、当初の意気込みも、水を浴びせられたようにしだいに鎮静していくようであった。

【P366】
三二二空搭乗員