【P102】
 昭和16年11月8日午前1時、台湾の南端に近い東港海軍航空隊における九七式大艇隊(24機)が出撃を前にして勢揃いした勇壮な光景である。
(略)
 午前1時30分、三浦鑑三司令が搭乗する第一小隊(各小隊3機)がまず“すべり”を出てゆくと、30分ごとに番号順にあとを追って、1300カイリの南方洋上遥か待ちわびているパラオに向かい、二度と還らぬかも分からない東港基地に別れを告げたのである。

【P105】
 次いで我々は12月31日の大晦日、パラオから占領直後の比島ダバオに前進し(中略)た。

【P109】
そのころから編隊の右になり、左になってついてくる青白い灯火を発見した。星でも、飛行機でもない。ふしぎに思ったが、雷撃隊が私たちについてきているのだろうとむりに想像しながら、静かに降下を開始した。
(略)
帰路についてから、雷撃隊の行動中止を知ったが、理由はいぜんわからず、基地に帰ってはじめて、相沢中佐らの出発時の戦死を知らされたのであった。
 アンボン基地付近で見た、あの不思議な灯火については私なりに、相沢中佐の霊魂がわが爆撃隊を護衛してくれたものと信じている。死を超越した戦士たちの魂のつながりとでもいうべきか、戦場ではよくこのようなことがあるものだ。

【P110】
 (前略)第一次ハワイ空襲による工廠地区の復旧作業を妨害するため、ゲリラ的空襲を続行するのが目的だった。

【P111】
 (前略)3月4日の午前零時、2機をひきいて、ウォッゼ環礁を発進した。

【P112】
 (前略)灯火管制もなしに終夜、復旧作業にけんめいの工廠地区に、250キロ爆弾4発ずつを投下したのであった。
 一方、二式大艇の来襲などとは夢にも知らず、米軍は機動部隊がふたたび来襲したものと判断して、厳重な警戒体制にはいり、大さわぎとなったのであるが、二式大艇はゆうゆうとヤルートに帰還している。
(略)
 昭和17年1月18日、東港大艇隊はセレベス島のケマ基地に前進していた。そして、来たるべきスラバヤ作戦の開始に先立ち、私は特命を受けて4機を率い、2月1日にはセレベス島ケンダリーに進出していた。

【P114】
 敵艦隊に触接するのは、マレー沖海戦いらい二回目である。

【P116】
 スラバヤ空襲が一段落した昭和17年2月12日、私たちはアンボンに転進し、本隊と合同したうえ、いよいよオーストラリア方面への作戦を開始した。
そこでチモール島の奪回に必死となり、逆上陸まで企図しているようであった。

【P117】
 重巡を先頭に軽巡二隻、駆逐艦二隻で輪型陣をつくり、一万トン級の輸送船四隻をまんなかに抱えこんでいる。

【P118】
 この弾幕を突破して爆撃針路にはいった第一群は、なんとわが飛行隊長の指揮する大艇九機ではないか。
 (前略)みごと輸送船一隻の船尾に二弾を命中させた。
(略)
 つづいてやってきたのが中攻隊(後略)。つぎつぎとみごとな弾着が輸送船を猛火につつんでゆく。

【P119】
敵の逆上陸の企図を完全に粉砕したうえに、重巡一隻、軽巡一隻が、かろうじて、豪州に逃げのびたほかは全滅させてしまったのだ。

【P120】
陸上基地には、大艇隊の護衛をかねて、第三航空隊の零戦隊が進出していた。
 この地における大艇隊は、連日のように豪州西岸寄りのインド洋の哨戒を実施し、ジャワ方面と豪州間をむすぶ敵の連絡を絶とうとはかったのである。
 ジャワ方面には米軍の飛行艇PBM隊、およびB17陸爆隊がのこっているはずである。これらの退路をなんとか捕捉しようと、情報収集につとめていたところ、まもなく敵側の集結飛行場としては、豪州西岸唯一のブルームが水陸両用の基地として要衝を占めており、ジャワ方面への航空兵力の補給源になっている事実をつかんだ。
 そこで三月三日、零戦と大艇が協同のもとに、奇襲攻撃をくわえようということになった。チモールから五百カイリ、零戦としては航続限度にちかく、目標のブルーム上空では15分の余裕しかない。そのためチモール南方の環礁上空に、大艇が救難態勢をしき、一機をブルームへの偵察と、零戦の誘導にあてることになつた。
 やがて三空零戦隊宮野善次郎大尉の指揮する12機は、勇躍チモールを発進し、決死のなぐり込みをかけたのである。
(略)
タイミングよく、ジャワを最後に撤退した米軍のPBM飛行艇22機が、ブルームにつぎつぎと着水をしていたのである。
 そして、最後の一機が午前9時30分ごろに接水するや、その5分後に、魔神のごとく零戦隊が襲い掛かったのだからたまらない。搭乗員もろともこれら22機は、またたく間に炎上爆発して消え去ったのである.
(略)
 思わぬ大戦果によった零戦隊は、燃料も気にせず、鬼神のように暴れまわり、隣接する陸上基地にかくされていた6機のB17をも道づれにして、意気揚々と帰還したのである(1機未帰還)。 

【P125】
 サンゴ海海戦が一段落した17年5月17日、アリューシャン方面作戦のため、東港空の大艇6機が伊東祐満副長指揮のもとに、北方部隊に編入されることになり、私もその先任分隊長として加えられることになった。

【P126】
 そうこうするうち東港空の北方支隊は、5月10日から16日にかけて、インド洋のど真ん中のアンダマン基地を離れ、横浜で約20日間にわたる北方作戦への衣替えを実施したのち、海軍記念日である5月27日の北方出撃に備えた。
(略)
 しかし、私は残念ながら、北方出撃を目前にした5月26日、突然に発病し(マラリア)、自刃覚悟の具申も遂に容れられず、横須賀海軍病院で白衣をまとう身となってしまった。そして9月27日にソロモンの土を踏むまでの4ヵ月間、後輩の教育をしながら、戦友の悲報に身を焦がし、一日千秋の思いで再出動の日を待ちわびていたのである。

【P127】
その重要任務は、ヤルートに待機していた二式大艇に下令されており、ミッドウェー北東部300カイリ圏内の索敵計画がねられていたのである。だが、それにはヤルート基地からではさすがの二式でも遠すぎた。そこでウェーキ島から出て、約3500カイリの航程を捜索することになっていた。
 しかし、(中略)当日、ヤルートを出てウェーキ島に進出してみると、風向きの関係で超過荷重32トンの離水が、リーフなどの地理的条件に妨害されてどうしても不可能で、涙をのんで中止のやむなきにいたったのである。

【P129】
そして東港大艇隊は8月28日、東港支隊は8月19日、それぞれアンダマン、キスカ各基地を出発し、9月2日にはソロモンのショートランド基地に集結し、横浜航空隊の弔い合戦を開始したのである。
(略)
 昭和17年9月27日、私は希望がかなって再び東港大艇隊に戻ることができた。

【P136】
「空戦だッ」
 とどなりつけると同時に弁当をかなぐりすて、みずからタンク室の炭酸ガスの引き手を力いっぱい引っ張った――空戦必至となった場合は胴体タンク室を密閉して、そのなかに炭酸ガスを充満させ、火災を防ぐための手段である。

【P140】
この結果、飛行艇は20ミリ機銃×5、7・7ミリ機銃×3という重装備をしたほか、燃料タンクは防弾ゴムで包み、パイロット席及び各銃座には防弾鋼鈑が装備され、1・5トンも重量を増加することになった。
 そして、搭乗員はこれにより精神的安心感を抱き、その後は索敵機の本分を忘れて、さかんに敵機を追いかけまわす、という武勇伝まで聞かれるほどになった。

【P141】
 さて、レーダー(日本海軍は電探と称した)を最初に機上に装備実用化した日本機は、九七式飛行艇であった。
 米軍はB17に装備し、戦場は両軍とも同じソロモンで、索敵機どうしが装備してお目みえしたのである。昭和17年12月ころのことだ。

【P142】
 ソロモンの激闘、索敵機どうしの空戦などで刺激されたこともあり、17年の12月、私が横浜から補充機を空輸する前日になり、九七大艇3機に突貫工事でレーダーアンテナを取り付け、内部は仮装備のまま、部品と指導技術者、それにレーダーの神様といわれた有坂磐雄中佐を乗せて、年の瀬の12月28日、急遽、ソロモンのショートランド基地に馳せ参じたのである。そして戦闘の合間を縫ってレーダーの調整と、取扱講習が真剣に続けられた。
 だが、我が大艇がヒゲアンテナであるのに対し、丁度その頃ソロモンの基地上空には、八木式アンテナをつけたB17が、ときおり姿を現し始めたのを、私ははっきりおぼえている。
 装備を始めた時点はほとんど同時であるが、アンテナに関する限り、米軍の方が一歩進んでおり、実用も早かったようだ。
(略)
 昭和18年の1月10日ごろだったと思う。講習を終えた一号機を使っての夜間索敵(初陣)が、その日を境にいよいよ始まった。
 基地の南東方面20カイリ、小島一つない海上で突然、レーダー員が、
「敵艦、15カイリ前方!」
と叫んだ。何を寝ぼけているんだと思っていたら、装備されたレーダースコープにエコーが出たのである。
 私はそんなもの信用できるものかとばかり、そのまま索敵を続行していると、15カイリほど進撃したところで、まさに闇夜に鉄砲、一斉砲撃をうけて、アワを喰って反転するという、笑い話のような一幕があった。
 しかも、これが日本海軍機がレーダーで敵をとらえた、最初の場面なのだから皮肉であった。

【P143】
 (前略)昭和19年6月、私は長い戦場生活から離れて、空技廠飛行実験部部員として勤務していた。

【P144】
 そして空技廠は、これに間に合わせるために開発した、空母用特殊防空凧を二式大艇で緊急輸送せよという命令を受け、飛行艇班にそれを命じたのである。
(略)
 (前略)ダバオに到着すると、そこに待ち受けていたのが、(中略)有馬正文少将であった。

【P145】
 ここで司令官は話を変えて、私に次のようなことを言われた。
「私も横浜航空隊司令として、飛行艇の育成に努めてきた。今こそ二式大艇でなければできない、大仕事をやってもらう時が来たと思う。俺が潜水艦3隻を確保してやるから、それを途中の燃料補給に使って、直ちに大艇3機を選抜し、長駆パナマ運河を空襲して水門を叩き壊せ。(後略)」

【P146】
 昭和18年2月、ガダルカナル島が遂に米軍の手中に落ちたため、851空飛行艇隊は東港基地に引き揚げたのである(後略)
 その後、851航空隊(東港空)は、再編成されてジャワ、スマトラ、アンダマン方面に再度転戦し、インド洋が主戦場となって西方からの来攻に備えるとともに、18年5月には二式大艇が主戦力となっ(中略)たのであった。
 二式大艇はその長大な航続力を活用し、インド方面の要地に対し、後方攪乱戦を企図して夜間爆撃を連日のように繰り返したが、戦線は次第に縮小されていく一方であった。

【P147】
 (前略)19年1月、私は長い戦場生活から内地に転勤を命じられた。
 昭和19年10月27日、私は再び801航空隊飛行艇隊長として、戦線に出ることになった。もはや大艇隊では隊長級の士官はほとんど戦死して、私ただ一人が残っているのみだった。
(略)
 (前略)大艇隊も今は整理され、19年4月には802空(元の14空)が、9月には851空(元の東港空)がそれぞれ解隊し、801空ただ一隊のみが残っていた。
 横浜を整備基地として、鹿児島県指宿に本部を置いたが、その後、四国の詫間に移動していた。

【P148】
 昭和20年2月10日――日本で唯一の特攻航空艦隊が誕生した。海軍中将・宇垣纒を司令長官とする第五航空艦隊、別名「菊水部隊」がそれである。
(略)
 また、同時に801空の名称は中攻隊に譲り、これまでの801空飛行艇隊は、詫間航空隊として生まれ変わり、第五航空艦隊麾下の夜間索敵隊として不動の地位を占め、二式大艇の真価を発揮することになったのである。

【P149】
 五航艦に編入された昭和20年2月から終戦までの六ヵ月間に、わが最後の飛行艇隊は、二式大艇18機、搭乗員204名を失ったのである。
(略)
夜間索敵は、801空の中攻隊と、わが大艇隊が主力であるが、中攻隊の兵力消耗に伴い、大艇の負担が急に増加してきた。

【P161】
私は黒丸大尉を呼んだ。
(略)
「成功を祈る・・・・・成功を祈る」
 電話の声が震えている。
(略)
「誓って成功を期す―」
黒丸大尉の力強い声が耳に響く。

【P165】
 第五航空艦隊司令長官・宇垣中将はは、この日の正午、天皇の放送を聞いたのち、直率の特攻を決意、急ぎ「彗星」艦上爆撃機5機に出撃準備を命じたが、長官のお供を懇願して、その機数は11機に増えていた。
 司令官、参謀長などの思いとどまるようとの涙の言葉に感謝しながら、
「(前略)なお未だ停戦命令は受けていない。この機を逸しては自分の死所はない。とめてくれるな」
と、固い覚悟をもって午後4時、(中略)大分基地を飛び立った。

【P174】
詫間空飛行艇隊長