【P176】
 昭和18年11月初めのころである。
(略)
「あんた、六艦隊司令部へ転勤らしいよ」

【P177】
私は呉海軍航空隊(呉空)から鹿島海軍航空隊(鹿島空)に来てまだ半年しか経っておらず、現在は第31期の練習生を受け持って操縦教育中であった。
(略)
 それによると、六艦隊司令部付属偵察機隊(以下、偵察機隊と呼ぶ)であり、この偵察機は隊は潜水艦搭載用の零式小型水上偵察機(潜偵)の搭乗員養成部隊であった。
(略)
そして、その偵察機隊は当時、トラック島において要員の訓練を行なっているということであった。
(略)
昭和17年7月、私は重巡「衣笠」に乗艦し、ソロモン海域を駆け巡っていた。

【P180】
11月の中旬に、私たち飛行科員は内地に帰国を命じられた。
(略)
 帰国後、私と平田兵長は、呉空へと配属され(中略)た。

【P181】
 11月12日、私は住み慣れた鹿島をあとに、横須賀へ向かった。

【P182】
 11月23日、艦はいよいよトラック島にたどり着いた。

【P191】
 潜偵はボルト組み立てなので、波の荒い洋上では着水時に脚が折れ、たちまち転覆するに違いない。

【P192】
 そして昭和19年1月上旬、私と倉原上飛曹は、伊号第三六潜水艦(以下、三六潜)に乗り組みを命じられた。
(略)
 私と倉原上飛曹だけは、伊三六潜がまだ佐世保のドックで修理中なので、トラック島でしばらく訓練を続けることになってあとに残り、その後はペアで毎日のように訓練を行なった。

【P193】
 (前略)2月16日、902空所属の飛行艇でトラック島をあとにし、ひとまずサイパン島に向かったのであった。
 トラック島を出てサイパン島に着いたのは、その日の昼過ぎであった。

【P196】
 それでも、18日、私たちはサイパンをあとにして一路、横浜に向かった。
(略)
 横浜に着いた私たちは、その足で汽車に乗り、佐世保に向かったが、佐世保軍港のドックに来てみると、伊三六潜はまだ修理中だった。
(略)
 私たちは乗艦すると早速4,5日の温泉休養が与えられた。
(略)
そして、私たちが佐賀県嬉野温泉に行き、充分に休養をとって帰ってきた(後略)。
(略)
 (前略)潜偵の領収を行なうことになった。そして、私たちは整備員2名とともに大村に向かった。
 途中、博多で一泊して、翌日、大村航空廠に着くや(中略)、私たち搭乗員はテストを行った。
 潜偵の領収を終わると、私たちはすぐさま、潜偵の燃料を搭載するため、佐世保海軍航空隊に飛んだ。

【P198】
 燃料補給が終わると、早々に私たちは佐世保軍港に向かった。伊三六潜は飛行機を領収してくるというので、既に港外に出て、揚収準備を整えて待機しているはずである。
 間もなく私たちは伊三六潜を発見し、その艦側に着水した。そして、潜偵の揚収作業が手早く行われた。
(略)
 そして本艦は、再び佐世保の桟橋に戻った。
(略)
 伊三六潜は(中略)修理も完了して、呉に回航することになった。

【P199】
 三六潜は連合艦隊司令長官の直属となり、昭和16年9月の上旬に横須賀を出撃し、9月20日ころの月明を利用して、その搭載機により、「真珠湾内在泊敵艦船の状況を偵察せよ」というのであった。

【P200】
 そして17日の夜、いよいよハワイ偵察を決行することになり、ハワイから120カイリの地点において飛行機を発艦した。
(略)
 それから1時間20分ぐらいして、『G』一字の電報が飛行機から電信室に入った。これは飛行機がハワイ偵察に成功したという報せであった。

【P201】
そして、あらゆる手を尽くして飛行機を発見し、搭乗員を助けようと懸命に努力したが、その努力の甲斐もなく、待てども待てども遂に帰ってこなかった。
 折角、ここまでうまくいっておきながら、太平洋上に絶望的な飛行機を残して去る艦長の心は苦痛に耐えなかったと思う。

【P202】
 この間、私たちは呉空で基地訓練を行なうことになって、本艦の入港直前に発艦して呉空に向かった。基地では(中略)滑り台付近に(中略)整備員たちが待機していた。偵察機隊の整備員である彼らの顔を見るのも、トラック以来一ヵ月ぶりである。

【P204】
これらの訓練は山口県大島郡安下ノ庄を基地として、その沖合、及び柱島付近で実施された。
 いよいよ出撃の時が来た。

【P205】
 (前略)私は呉空基地に向かった。
 基地に着いてみると、既に我が潜偵は滑り台の中央に並べられ、早くも整備員が暖機運転を行なっていた。

【P206】
 やがて私たちは(中略)離水すると、呉軍港の上空を目指した。
(略)
私は艦を発見すると(中略)、着水地点への誘導コースをとった。
(略)
私は停泊艦船の間を縫って、本艦の近くに着水した。
 既に(中略)作業員が本艦に潜偵が接触するのを防止するための竹竿をさしのべ、あるいはデリック作業に当たる者など、それぞれの配置ついて待機していた。

【P207】
 漸くの事、私は本艦に沿って静かにデリックの下に愛機を誘導した。と、待ちかねていた後席の偵察員が直ちに、フックをデリックにかけた。そして掌整備長の、
「揚げ!」
の命令により、潜偵はデリックで次第に吊り揚げられ、回転台の射出機の上に乗せられた。
 間もなく出港ラッパが鳴り響く(後略)。艦は早くも、もやい綱を外して前進し始めている。

【P208】
 伊三六潜は呉軍港を出たあと、一時的に安下ノ庄を基地として、出撃までの2、3日、訓練の総仕上げを行なった。
 そして、いよいよ明日は第一線に向かうという前夜、安下ノ庄の沖合において、武運を祈って艦内祝宴が行われた。
(略)
  翌朝、伊三六潜は安下ノ庄を出港して、針路をハワイ〜マーシャル間の配備地点にとり、一路南下していった。

【P212】
 ある日のこと、夜、皆が寝静まって、私がひとり物思いにふけっていると、通路に一匹のネズミが現れた。
(略)
(略)戦時にあってはネズミも貴重に扱われた。
 ネズミは艦の運命をよく知っていて、この艦が沈むと予知すると、いつの間にか姿をくらましているとのことで、危険を探知しやすい動物だといわれているからである。
 このことから考えると、伊三六潜はまだまだ沈まない、という安心感が私には強まった。
(略)
 昭和19年4月15日の午前9時ごろ、潜航中の伊三六潜の水中聴音器にタービンらしき音感が入ってきた。

【P215】
 敵空母への攻撃をかけて、護衛艦艇の手厳しい制圧を受け、九死に一生を得てから2、3日した4月22日、いよいよ偵察を実施することに決まった。

【P216】
(前略)黎明時の発艦よりはましであると私は考え、偵察は22日の薄暮に行うことに決めた。 

【P237】
 そのとき私は、倉原上飛曹に伝えた。
「エンジンをかけよう!」
 もともと潜偵は、座席にいたまま起動できないようになっている。一人が外に出て主翼の上から、機体の右側操縦席の前方、つまり飛行機の首に当たるところにあるクランク穴にエナーシャをはめて、クランクを回さなければスタートができない。

【P246】
伊三六潜零式小型偵察機操縦員