【P249】
 昭和17年1月から6月まで、私たちは博多海軍航空隊で実用機の操縦教育を受けた。学生は36期飛行学生と称し、私たち海兵67期の後半組数名と68期で、合計三十余名であった。

【P251】
 昭和17年の6月下旬、卒業前になる頃、皆に転勤の内示があった。
(略)
 ところが、私には来ない、私一人だけ発令がないのだ。海軍省は吾輩をお忘れかとやきもきすること数日、「佐々木中尉は三十六空アンボン島へ」と発令があり、急に元気が出てくる.
(略)
 早速、海軍徴用の大日本航空のDC3「桃号」で雁の巣、上海、台北、マニラ、ダバオ、メナド、マカッサル、アンボン島ラハ基地へ。そして舟でアンボンの町へ。内港にある航空隊へ着任した。7月10日のことであった。
 博多空については後日談がある。半年後再びこの地を訪れることがあった(後略)。

【P252】
(前略)私の郷里が汽車で4時間くらいのところにあったので、せっせと親孝行に通った半年間であった。
(略)
事実、我がクラスにも飛行機熱望者がかなりいたが、霞ヶ浦の適性検査(候補生のころ遠洋航海から帰国してすぐ)で不合格となり、泣く泣く諦めさせられた者が随分といた。
 私は福岡県の田舎の旧家の跡取りに生まれた(後略)。
(略)
 そこで私も進んで希望は出さなかったが、戦艦「陸奥」の砲術士をしていた前年昭和16年の7月、徴兵(命令)で霞ヶ浦の飛行学生を命じられた。
(略)
 アンボン島は香料の島であり、港は南方に開いた湾の付け根にあり、出入港する艦船で賑わっていた。ハロン水上基地は、更に狭水道で連なっている奥の湾にあった。

【P253】
 (前略)零式三座水偵(零水と呼んでいた)(後略)。
 (前略)私にとって“零水”は誠にお気に入りであった。軽快、安定性が良く、操縦が楽で、おまけにオートパイロットまでついている。

【P254】
(前略)操縦桿はハンドル式(後略)。

【P256】
鹿児島航空隊(中練教程)(後略)。※鹿児島は鹿島の誤りかP289参照

【P263】
 (前略)零戦が、ハロン水上基地のある内港と、港のある外港を超低空飛行で翼を振りながら北から南へ一航過する。
(略)
 ラハの陸上基地は港の対岸にある(後略)。
(前略)島の南端に新設された電探で発見する(後略)。
 川添利忠という私の同期生がいた。

【P264】
 (前略)2年後、昭南基地で会った。空母の戦闘機分隊長だった彼は、搭乗員の技量低下をさかんに嘆いていたが、その後の「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)で還らぬ人となった。

【P265】
 このときは飛行機が離水し切らず、波を起こし(自分でポーポイズさせる)、やっと出発したことがあった。帰着して整備員に、エンジンの馬力が落ちていると言ったところ、「いや新品です」と言う。
 見てみると、“日立”というマークが付いている。あれえ、いつも三菱のエンジンと思っていたが、量産が間に合わず、航空エンジンメーカーでない日立製が出てきたのかと思った。電気メーカーの作ったエンジンは、やはり思わしくなかった。
(略)
 11月1日付で私は、佐世保航空隊付の発令を受けた。
(略)
 後任者への引き継ぎの関係もあり、11月下旬なって大日本航空の九七式飛行艇に便乗させてもらって内地に向かった。

【P266】
 昭和17年12月4日、私は佐世保空に着任した。
(略)
郷里の福岡県浮羽郡千年村は汽車で5、6時間の距離にあり、私は早速両親に報告のため立ち寄った。
(略)
 ここでの私の仕事は、飛行艇の操縦講習を受けることだった。
(略)
 (前略)博多空を卒業して4名が当隊に赴任、大型機操縦講習を受けていた。(前略)この4名はみな体が大きく、また気持もゆったりした人ばかりだったように記憶する。
 (前略)九七も二式も操縦装置はみな人力だけで動かすようになっていて、操縦を楽にするためマスバランスが設計されていた。なるほど力が要るわけで、大人(たいじん)が選ばれた訳が分かった。

【P268】
 私たちはまず最初、二式練艇という出来たての黄塗り双発機で講習を受けたが、別に難しいこともなく、あまり記憶にない。

【P269】
ポーポイズというのは「イルカ」という意味で、水面を上下に泳いでいるさまをいう(後略)。
 九七式飛行艇(中略)は爆装も雷装もでき、艦艇攻撃に使ったこともあるというが、ダバオで着水、水上滑走しながら魚雷を発射したが、照準装置もなくまるでダメなので、その後は爆装だけにしたと、(中略)教わったことがある。

【P273】
(前略)若い士官が何を言っても、例えば不平を言っても、出過ぎた意見を言っても叱ることはなかった。たとえ、たしなめられることはあっても・・・・。
(略)
どうして叱らないのか。一つでも二つでもこれらの人達の口からアイデアを聞きたい、特に若い人からの・・・・というネライがあったのだ。
(略)
一方で、有事に兵力を一挙に向上させるために、極秘裡に特殊な補助艦を作っていた。代表作は水上機母艦。私の郷里浮羽郡千年村には、近くを筑後川が流れている。別名千歳川といい、軍艦「千歳」の祭神は当地久留米の水天宮である。有事には上部に飛行甲板を張れば、すぐに小型空母になる。
 参考までに、重巡「三隈」の祭神は、この上流日田市の大原神社である。

【P274】
(前略)「大和」「武蔵」(ヤマトタケゾーと称した)(後略)。
(略)
 昭和18年の3月、私は横須賀海軍航空隊付を命じられ、3月18日に佐世保発、横空に着任した。

【P275】
隣接して航空技術廠があり、大学出の(特に旧制帝大、その中でも航空学科出身者が多い)技術大尉、少佐の人たちが研究開発の中心的存在であったように思う。
(略)
 またこのころ横空には准士官以上だけで六百人もいると聞いた。
(略)
お隣の空技廠は総員二万人もいるとか。

【P277】
(前略)分隊士に笹生庄助特務中尉がいた。
 この笹生中尉は昭和17年3月、二式大艇2機によるハワイ空襲に参加したベテランパイロットで、二番機の機長だった。(前略)ハワイ上空に達したが、密雲に遮られ下方が見えないまま、「目標と思しきところに投弾してきました。これが本当の盲爆ですよ」と率直に当時を語ってくれた。
(略)
 昭和18年6月1日付で海軍大尉に進級させられた私は、間もなく横空の二式大艇による航続力試験に参加することになった。

【P280】
(前略)オートパイロットを入れているので、疲労は極力セーブされていた。

【P281】
丁度その頃、陸軍の双発機もシンガポールまでの航続力試験飛行に成功したということだった。

【P284】
 なお、発動機は火星1860馬力(後略)。
(略)
空中性能世界一と言われたその原動力は、この強大なエンジンにあったといえるが、また一面、ポーポイズを起こさせる原因の一つでもあった。
(略)
次は飛行艇にレーダーを搭載しようというのである。

【P285】
 この機は20ミリ機銃で武装され、機首の半動力銃架に1、背中の動力銃架に1、尾部の動力銃架に1、胴体左右のスポンソン風防に半動力銃各1、計5挺を備えていた。
(略)
とにかく八木アンテナなるもの(中略)が機首に取り付けられた。
(略)
当時、海軍には有坂磐雄中佐という人がいて、兵科将校ながら、(中略)電探の整備技術を指導したり、電波の神様と言われていた。事実、この後、私はスラバヤに着任したのだが、故障の多かった電探も、この神様ば来られるとバタバタと故障が直り、働くようになった。

【P286】
 航空写真技術もだいぶ進んでいたようで、上空から撮った写真を特殊な特殊な双眼レンズで覗くと、地形が立体的に浮き上がって見えた。
(略)
 側方写真というのも研究されだしていて、堀田技師という人と面識になった。この人はのちに、アンダマン諸島ポートフレア基地に小生を訪ねてこられ、「この機材の実験をして下さい」と頼まれ、二つ返事で引き受けたことがあった。
 照明弾を落とすと、地表がパッと明るくなり、何秒か前に写真のシャッターを押しておいて、ピカッときたら閉じる式のものだと記憶するが、現像してみると、道路や家、海岸線がはっきりと見え、「分隊長、これを私に下さい」「どうぞ」という一幕があったことを思い出す。
 さらにその後、マルダイブ経由コチン偵察に赴くときも、それを用意していったが、愛機の大破でともにインド洋に沈んだ。

【P287】
 私が新たに着任した第851航空隊の前身、東港空は原隊を台湾に置き、(後略)。

【P288】
 (前略)昭和18年8月14日に、私は851空の更新機便でスラバヤに着任したのであった。(前略)飛行長らは前進基地スマトラのシボルガ基地で作戦中と聞かされた。

【P289】
鹿島での中練(後略)。
(略)
 ここには南西方面艦隊司令部が所在し、長官の有事の際の乗艦「足柄」及び何隻かの艦艇が少しばかり離れた港内にいた。水上基地と隣接して陸上基地があり、愛称ダルマさんの雷電局地戦闘機もいたように記憶する。
(略)
 昭和16年秋のことである。鹿島空で中練の単独飛行が始まって間もなく(後略)。

【P290】
 着荷して間もなく私は、豪州カーペンタリア湾の偵察を命じられた。
(略)
 まずスラバヤを発し、アンボンに飛んだ。
(略)
やがて、波静かなハロン水上基地に着水した。
(略)
 川西製の水戦「強風」が、(中略)エプロンに置いてあったのを、かすかに記憶している。

【P291】
 やがて機はカーペンタリア湾東部に向け。高度を上げて進んだ。
(略)
 夜になって湾内に進入し、トーレス海峡を陸岸沿いに南下、湾の奥にある「カランバ」と記されている付近にとても明るい灯火を見たが、艦船らしきものを見ず、西進、さらに北進、何も見ぬまま広い広い湾を抜けてアラフラ海に戻ってきた。

【P292】
このあと豪州西北部ブルーム飛行場の偵察爆撃行に一度行ったが、思い出すのは60キロ爆弾16発全部を落とすのに、往復二航過したことだった。
 偵察員が爆弾投下管制盤なるものを、操縦席の後方の通路に備え、右翼と左翼に搭載する爆弾を交互に落としていった。飛行場を一航過したが、爆弾はまだ半分残っているとのこと。回れ右の二航過目で全弾投下し終わった。敵の飛行機がいる様子もなかった。

【P294】
 (前略)昭和18年9月8日、伊太利の降伏に伴い、我が国は同国を実質的には敵国として扱う(後略)。

【P295】
 間もなく私は、シボルガ基地進出を命じられた。その地には既に派遣隊が行っており、インド洋方面の哨戒を実施している由だった。

【P296】
 ここで係留中の二式大艇が1機燃えたことがある。日本製の補給艇(中略)が、燃料給油中にエンジンから火を発したためで、直ちに飛行機に引火、火災となった。

【P297】
 ここに来て最初に挨拶したが、一号生徒で飛行隊長の日辻常雄大尉だった。その日辻飛行隊長からは、全般についての説明を受け、そのあと二式大艇の操縦教育を頼むと言われた。
 考えてみれば851空は、戦線で二式大艇に機種更新してきたわけで、色々講習の機会はあった老が、私のように順を追って、理想的なスケジュールで操縦訓練を受けた人はいなかったのだ。隊長までが自分も含めて教育してくれ、と言われる。
 私の前任者もここでポーポイズを起こして、大やけどをして入院中、とかの話も軍医長から聞いていた。

【P298】
(前略)兵学校の四年間(後略)
(略)
 ある日、飛行隊長が二式大艇から降りてきたかと思うと、
「フラップ故障時の着水法を聞いてなかったので戸惑った」
と言われた。<あっ!話すのを忘れていた>
[降下速度を(後略)」
と答え、そのあと急いで全員に追加教育したことを憶えている

【P299】
 シボルガに到着後、旬日を出ずして私はコロンボ偵察を命ぜられた。。実施は9月19日である。

【P300】
 また、モスキート双発戦が襲ってくるかもしれない。高高度、高速の彼は、レーダーに映りにくいように、全木製の新鋭機と聞いている。
(略)
敵機のレーダー妨害用の錫箔(3センチ幅、長さ1メートルの厚紙に錫箔が貼ってあり、レーダーに良く反射して映る)で欺瞞しよう。

【P302】
我が方の機上電探も、陸地や島に対して距離が測れる程度の性能はあった。

【P308】
 シボルガに帰着して、司令に報告すると、飛行隊長が、『奇襲偵察に成功し・・・・』と報告電文を起案しているのを見て、<ははあ、これは奇襲偵察になるのか>と思い、同時に指示に反し、西向けに離水しなかったことを詫びた。

【P309】
 この頃、私たちはアンダマン進出を命じられ、(中略)南アンダマン諸島のポートブレアに進出することになった。

【P310】
 数キロ離れた所に、陸上基地が完成したというので見学に行った。
 初めて見る天山艦攻が試運転していた。

【P312】
 二十八航空戦隊からの命令によるコロンボ、ツリンコマリーへの二式大艇による偵察は、とりあえず私のクルーによってこの9月中旬にコロンボ偵察で実施されたわけだが、その後、基地移動、操縦者の養成、機材の内地からの空輸などで、次の実施は11月になった。
(略)
 11月11日、いよいよ二式大艇3機によるマドラス、ツリンコマリー、コロンボの偵察に出発することになった。(前略)ツリンコマリー軍港へは私(後略)。

【P315】
(前略)相当に大きな艦がいる。前半分が黒いが、後半分が薄ぼんやり白い。天幕かなと思ったが違う。艦載機だ!その数20乃至30か?空母だ。ぴんときた。ほかにそれらしきものはいないか。空母はこれ1隻だ。

【P322】
 シボルガに帰った私は、早速飛行計画を立てた。

【P323】
 アンダマンへ進出し、いよいよ発進当日になった。
(略)
「『伊26』潜は12月8日ペナンを出港(後略)。16日同潜から『予定地着、天候良好』の入電があったので、佐々木孝輔大尉指揮の二式大艇1機が0900ころポートブレア発、(中略)1700ころ会合地点であるマルダイブ諸島ミラズム環礁上空に達した。

【P326】
 (前略)燃料も満タン近くになった。
(略)
機は懸命に走り出した。途端に、ドーンと放り上げられた。

【P327】
 見ると、右翼端フロートの支柱が折れて、フロートは内側に曲がっている。
 (前略)「ゴムいかだ用意!」「全員脱出!」――矢継ぎ早に指示した。

【P328】
そのうち潜望鏡でこの事故を見ていてくれた『伊二六号』が浮上してくれ、漂流していた我々搭乗員は救助された。

【P329】
八五一空分隊長