【P334】
 私たちがアンダマン諸島ポートブレアに進出したのは、少し先の昭和19年1月下旬〜2月上旬の間と記憶する。この時期には人事異動が行われ、日辻常雄飛行隊長は横鎮付に発令されて赴任し(中略)た。

【P335】
 このころから水上係留中に水漏れが激しく、朝起きてみると艇が少し沈んでいるというのである。凡そ1トンくらい海水が浸入しているという。
(略)
最初はカルカッタ〜マドラス間で、距岸50〜60カイリとと思われる地点で月明下に敵輸送船を発見、しめたと思って機首を向けたものの見失ってしまった。
(略)
 (前略)我が機は、高度を上げて2千メートルくらいで南下した。するともう1隻、明るい灯火を点けているたが見えた。

【P336】
「分隊長、下のは病院船です」
(略)
 弾着はだいぶ離れた所だったようである。
(略)
 次はカルカッタの入口であった。海図には灯船の位置が示してある。
(略)
ピカリピカリと灯船が光を放つ。

【P337】
さすがにドカンドカンと爆発する震動が伝わってくるような感じだ。
(略)
ところが、依然ピカリピカリである。

【P340】
2月8日(?)夕刻ブレア発。
(略)
 深夜の午前零時少し前だったろうか、機はインド領東端のチッタゴン港に進入していった。

【P341】
 (前略)ひょいと左を見ると、入港中らしき船が見える。
(略)
「投下!」の声のあとダダダーンと爆発音が聞こえてくる。
(略)
そこへ、「分隊長、二十五番命中です!」と言って、偵察員が飛んで来る。
(略)
「分隊長、4千トンということはないですよ。1万トンは充分あります」

【P343】
 昭和19年の3月上旬、航空隊本部はシボルガから昭南(シンガポール)へ移動し、ポートブレアの前進部隊も昭南に集結することになった。 
(略)
 そんなある日、二式大艇の古くなったのを内地に空輸し、新製機を空輸する、いわゆる更新機空輸を命じられた。
(略)
コースは昭南〜スラバヤ〜ダバオ〜東港〜佐世保〜横浜(後略)。

【P347】
 この機の空輸中、呉航空隊に立ち寄り(後略)。
(略)
 着いた佐世保(後略)。

【P348】
空輸機は東港を発して、サイゴン水上基地に向かっていた。
(略)
 メコン河岸に設けられた滑走設台に収揚した(後略)。

【P349】
 3月も終わろうとするころだったろうか(後略)。
(略)
 我が飛行艇航空隊に、二式大艇2機を差し出し、ラバウルからの要員の撤収作戦の実施を命じられたのである。この作戦は「登作戦」と命名されたそうだ(後略)。
 まず1機は私が行く(後略)。

【P350】
 かくして昭南〜スラバヤ〜ダバオ〜パラオ〜サイパンと、4レッグ(航程)でサイパン島に到着した(後略)。

【P351】
遠藤大尉の説明によれば、直ちにサイパンを発って、夕刻にはトラックに進出し、あとは夜間飛行でトラックに進出、要員を搭載したらすぐに出発、トラックに帰着するという計画だという。使用機数は確か4機くらいだったと思う。

【P357】
 トラック島からの帰路はパラオ経由で、ダバオに向かったのであるが、そのダバオで一番エンジン(右外側)の油漏れがひどくなった。

【P358】
(前略)燃料消費を訊ねると、(中略)「目的地スラバヤに到着するのがやっとです」と言う。

【P359】
 (前略)我が機はどうやらスラバヤに滑り込むことができた 。
(略)
 (前略)飛行艇の離水前は暖機のため水面をのたうち回り、最後に全速テストを各発について行い、オーケーの出たところで離水していた。
 一方、戦時中の米軍の飛行艇は、ゼロピッチで水上係留のまま暖機ができると聞いたことがある。 整備員が予め済ませているので、搭乗員の出発前の時間は約20分節約できる訳である。

【P360】
 31日、高須大将は851空全力ダバオ進出(中略)を命じた」

【P361】
851空は(中略)、ラバウル搭乗員救出作戦2機差し出し協力中。
 この命令を私たちは、昭南において受け取った。(前略)我が851空は、急遽、ダバオに向けその飛行機隊を発進させた。その先頭機は例のように私のクルーだった。確か4月1日か2日、いずれかの日にダバオ着(後略)。
(略)
 一番機(851空、機長難波正忠大尉)

【P362】
 二番機(802空、機長岡村松太郎中尉)
(略)
 三番機(851空、機長安藤敏包中尉)

【P364】
 私たちがダバオに進出したのは、安藤機がダバオに帰還し、無事任務を終了した直後だったと思う。
(略)
 なお難波機、安藤機ともラバウル要員救出のため、昭南発サイパン経由、トラックに向かおうとしていた途中、俄かに命令を受け、連合艦隊司令部の輸送に任務を振替えられたものである。
 また安藤機は、私が第一回のラバウル要員救出に出向いた時の二番機で、このコースには慣れていた。

【P367】
 長官機の捜索は連日、必死の勢いで、南はセレベス北端から、北はミンダナオ北部まで、海と陸地沿岸を主に大艇2、3機をもって2週間にわたって行われた。もとより私自身も、連日、飛行した。

【P368】
 4月頃の851空ダバオ進出部隊は、仮建築のようなバラック住まい(後略)。

【P370】
 つい先頃までいた昭南で、機動部隊「翔鶴」の艦戦分隊長をしていた川添利忠大尉(中略)が、クラスの私をセレター水上基地に訪ねてくれたことがあった。その彼が、
「操縦者は、練習生を出てすぐ母艦乗組を命じられた者ばかりで、ここの陸上基地の発着でも毎日2、3機壊すんだよ」
と嘆いていたのを思い出す。

【P371】
私たちが兵学校の二年のとき、源田実少佐が内地に帰任の途次、江田島に立ち寄り、教育参考館で日華事変中の体験談を語ったことがあった。
「制空権を敵手に委ねた戦ほど惨めなものはない」というのが結論で、戦闘機乗りの源田少佐がそのためどんな戦をしたか、克明に話をしてくれた。
(略)
源田少佐が話を終わると、監事長の角田大佐がすっくと立ち上がり、「一言付け加えておく。我に一機の飛行機がなくとも、断固、戦う覚悟を持たねばならぬ。誤解のないように―――」と一言締め括った。
(略)
 次いで昭和18年、横空にいるとき、角田中将に再びお目にかかった。第一航空艦隊司令長官として、これからマリアナ方面に向かわれるという時期であった。

【P373】
 そこで今後ともいろいろと横空にお世話になるというわけで、招待会を催されたらしい。その酒席でのこと、私は長官に自己紹介ののち浪曲・佐渡情話を一席ご披露に及んだのだが、終わると私の手をしっかり握りしめ、
「佐々木大尉。これからの戦いは君たち若い人たちに働いてもらわねばならん。しっかり頼む」
とポロポロ涙を流しながら言われるのである。あの豪気な中将閣下が、そばにいる中佐や大佐の幕僚には目もくれず、若い者、若い人たちへ頭を下げておられるのにはビックリした。
(略)
 このダバオににいた2ヵ月の間(後略)。

【P374】
 私はこのあとしばらくして昭南基地に呼び戻された。操縦員訓練のためである。

【P376】
 5月下旬になって、施設の完成も間近いということで、私たちは再びダバオに進出した。
 (前略)鉄板で飛行艇のスリップ(収納用滑走台)が完成されていたことだった。
 水際の機底に運搬車を取り付け、(中略)約30メートル(艇長は28メートル)引き揚げる。これでエンジン換装も楽にできるし、全速試運転もできる。

【P378】
 そんなある日、私のクルーはハルマヘラ島のカウ湾に連絡飛行を命じられて、日帰り飛行を行なったことがあった。用件は所在陸軍部隊に手紙を渡すだけだった(中略)と記憶する。

【P379】
 確か6月17日と記憶する(あるいは6月16日だったかもしれない)(後略)。

【P380】
 前路哨戒の任を与えられた我が隊は、私が一番機となって、海図上に示された地点付近に向け、南方海上から針路を北にした。

【P381】
 そのあとしばらく哨戒コースを飛んで、ダバオに帰着した。
(略)
 その翌日、我が艦隊はさらに北上し、サイパン方面に向かっているはずである。私の機はダバオを離水し、見当をつけて艦隊の所在予想地点へと向かった。

【P382】
 (前略)1年半も「陸奥」艦隊で眺めて暮らした僚艦なので、そう間違えるはずもないが)。

【P383】
 (前略)機首を取って返し、ダバオに着水した。引き続きパラオに進出という矢継ぎ早の移動を済ます。

【P385】
 その日はそのまま命令を待って、パラオに待機したが、やがて、『ダバオに帰隊せよ』との本体からの命令が届いた。

【P386】
 6月21日の朝をパラオで迎えた私と飛行隊長機は、相次いでパラオを発進した。

【P387】
かつてのインド洋での経験では、乱雲の下は必ず空いていて先が見えるが、ここではだいぶ様子が違って、スミをタライにいっぱい溜めて眼前にこぼしたように、真っ黒い巨大な柱が海面まで突っ立っている。
(略)
 そのまま滑り込むように、ダバオ島に着水し、経過を司令に報告する。

【P388】
 戦力の激減した851空はやむなく昭南に集結、戦力回復が図られることになった。
(略)
 しかし、補充されてくる搭乗員は、予科練を繰り上げ卒業した若い人たちばかりだった。

【P389】
私にも発令があり、『補851空飛行隊長』ということだった。昭和19年7月27日付だ。そして分隊長は安藤予備中尉と岩田予備中尉で、ともに偵察である。
(略)
 ところが、何んとあとを追って8月1日付で、横須賀航空隊教官兼分隊長という発令が届いた。先頃退隊した日辻大尉の後任ということだった。
(略)
 こうして8月13日、私は昭南を発って内地へ赴任した。

【P390】
(前略)次の年、横空から電探による対潜爆撃の講習で詫間航空隊に出張した(後略)。
 (略)
(前略)その秋、横須賀から台湾・東港へ出張した(後略)。

【P391】
 8月下旬、懐かしの横空に、約1年ぶりに再び着任した。兼審査部員を命ずるということだった。
(略)
 私は早速、神戸の川西に飛んだ。初めて見る「蒼空」は、四発の輸送飛行艇で機体はオール木製である。
(略)
 前任者の日辻少佐がこれまでタッチしてこられたといい、四国の小松島で量産する計画と聞いていた。

【P392】
 この間、横空教官として、機関学校出身の偵察員の実技訓練に、台湾まで行ったことがあった。

【P393】
遂に機関科出身者まで搭乗員に配置転換とは!いよいよ非常事態だと思わざるを得ない。
 横空分隊長としては、九七大艇による対潜水艦の電探爆撃の実験と、それの実戦部隊への普及講習を行った。この頃は零式水偵もこれらの実験に成功していたという。
 実験は日本海側の舞鶴航空隊で行われ、命中精度は割りに良好だった。
(略)
 四国の詫間空に行った際、日辻少佐にお目にかかり、(中略)のがこのときだった。
 佐伯空にも行った(後略)。
 以上は、大体昭和19年秋から20年春くらいまでの間の出来事であるが、その間にも川西には度々連絡に出掛けていた

【P395】
 ただ、横空からは私を指揮官として、九七大艇数機をもって作戦用物資を台湾の東港まで空輸したが、大掛かりな空輸はこれ一日のみであった。
 このとき、私は命令により、指宿から迎えの零観(二人乗り観測機)で垂水着、鹿屋空に出張して戦況調査に当たったことを憶えている。
(略)
 (前略)当時、鹿屋空には陸軍雷撃隊が講習を受けに来ていたという。受講生はみな少佐で、教える側は私と同期の海軍大尉、とても具合が悪かったのですよ、との話であった。

【P396】
(前略)鹿児島湾上を[靖国](陸軍名「飛龍」)が軽快な運動で雷撃訓練をしていた。
(略)
 (前略)陸士43期の叔父は陸軍少佐。教え子の51期(私の一クラス上)も陸軍少佐。私たちから見ると教え子の方が、どうも進級が早過ぎるのである。
(略)
私どもの一クラス下で、海兵68期相当の陸士53期まで皆少佐なのである。
(略)
陸士53期生は三千人クラスということだ。海軍の十倍の人員をはるか以前に採用していたわけである。そして、最前線で活躍する槍先の戦士を、人事面で、応援していたわけである。
(略)
 台湾には、空襲下でも合い間を見ては、ちょいちょい出掛けた。高雄の航空廠への緊急調達品の空輸と、逆に先方からの生活物資の内地空輸を兼ねてである。
(略)
知多半島の河和水上基地(新設の航空廠と航空隊がある。現在の美浜町付近か?)へと行こうと思ったのだ。

【P399】
 (前略)避難基地を調査しておけということで、まず汽車旅行で石川県の七尾湾に適地を見つけ、次いで秋田県の八郎潟と北海道の洞爺湖畔に飛んで着水し、一泊どまりで係留ブイを設置して回ったことがある。

【P400】
 それでも神戸の川西には、審査の関係で通わねばならない。

【P402】
(昭和59年「丸」9月号収録。筆者は八五一空分隊長)