【P407】
 (前略)昭和17年2月、試作機から量産17号基までを11型として採用した。エンジンは火星11型1,480馬力を装備した。
 次に出現したのが12型で、エンジンは火星22型1,680馬力となり、胴体後上部銃座も強力な20ミリ機銃2門を収容する球型銃座となった。また、機首にレーダーが取り付けられた機体がほとんどとなり、この12型がいわば二式大艇の代表型といえた。

【P408】
 ハワイ夜間爆撃=制式採用直後の昭和17年3月4日、復旧工事を急ぐハワイ空襲を企図しK作戦と称された。横須賀空から横浜空に引き渡された第3、5号機の2機(橋爪大尉・笹生中尉以下20名)は午前零時25分、燃料を満載して井上第四艦隊司令長官の激励を受けウオッゼ基地を発進、午後1時、ハワイ西南西のフレンチ・フリゲート礁へ到着、待機していた伊15、伊19潜より各機とも12,000リットルの燃料を補充して、午後3時38分、同礁を出発、4,500メートルの高度を緊縮隊形を組んでオアフ島に接近したが、真珠湾上空は雲に覆われていたため、一番機は午後8時40分、二番機は9時、やむを得ず各機250キロ爆弾4発ずつを推測で投弾し、南方海上に避退した。そして橋爪機は5日午前9時20分イミエジに、笹生機は同9時10分ウオッゼにそれぞれ帰投した
 戦後の米側発表によれば、米陸海軍の航空隊では、この日本軍の航空機による攻撃が信じられず、ハワイに一番近い日本の基地であるウエーキ、またはマーシャルからでも往復行動のできる飛行機はないはずだ、そのために米軍の飛行機が何らかのミスでやったことに違いない、と陸海軍互いに罪の擦り合いをしたという。
 続いて両機は、ミッドウェー島とジョンストン島の偵察を命ぜられ、笹生機はジョンストン島偵察(3月10日〜11日)は成功したが、橋爪機は3月6日、ミッドウェー島に向かったが敵戦闘機の迎撃を受けて未帰還となった。
 さらに昭和17年5月、十四空の二式大艇2機による第三次ハワイ空襲(第二次K作戦)が計画され、5月27日にウォッゼに進出したが、今回は爆撃は行わず、偵察のみで30日に決行の予定であったが、米艦がフレンチ・フリゲートに張り付いていたため、結局この作戦は中止となった。
 エスピリツサント島攻撃=昭和17年11月1日、海軍航空隊の改称が行われ、飛行艇部隊の横浜空は801空、東港空は851空、十四空は802空となった。この頃になると二式大艇もその数を増し、横浜空(801空)以外の飛行艇部隊にも配属が開始された。
 802空が1機の二式大艇を受領したのは、18年1月下旬であった。そして、ショートランドへ派遣されたこの二式大艇(機長金子飛行曹長)は、1月29日夜、月明を利用してエスピリツサント島の米艦隊泊地に夜間爆撃を敢行した。ショートランド〜エスピリツサント島間は約1,665キロで、当夜は天候に恵まれていた。
 大艇は、レーダー欺瞞用の銀紙テープを撒布しながら、激しい対空砲火の中を泊地上空へ進入し、高度4,000メートルで250キロ爆弾8発を投下、無事基地へ帰投した。
 続いて1月31日夜には、802空の金子機が同様な攻撃を行い、さらに2月20日夜と5月23日夜にも敢行されており、2月20日は泊地が目標であったが、5月23日は飛行場が攻撃の目標であった。
 その後は発進基地をマキンに移し、9月14日夜、10月14日夜の2回にわたり、各1機でエスピリツサント島攻撃を実施した。マキン〜エスピリツサント間は約2,170キロで、10月14日の攻撃の際は帰途、燃料不足のためギルバート諸島付近へ不時着水するという悲運もあったが、これ以外はいずれも、無事帰投している。
 カントン島攻撃=ハワイ、フィジー、オーストラリアを結ぶ米軍補給路上の要地カントン島への爆撃も、802空の二式大艇の敢行した大作戦の一つであった。
 第一回は17年3月19日に金子機ほか1機で行われ、敵飛行場と兵舎に大火災を発生させた。使用爆弾は60キロの陸用爆弾16発。その後、3月26日(2機)、7月18日(3機)にも攻撃が繰り返された。
 オーストラリア方面=昭和18年7月18日、851空の大艇1機がオーストラリア西岸のシャク湾とナブオン飛行場の夜間偵察に成功、8月16日には2機でスラバヤを発進、1機はポートヘッドランド飛行場、1機はブルーム飛行場を爆撃、両機とも無事帰投している。

【P412】
 (前略)孤立したラバウルからの司令部要員や搭乗員の救出で、これは19年の春以降、第十一航艦付属飛行隊などの大艇や晴空によって実施された。
(略)
 また各地への連絡、輸送、補給にも大きな役割を果たしており、特に20年4月には、敵の制空権下゜にあるブーゲンビル島に残された将兵に医薬品などを輸送して、在島五万名の命をつなぐなど、その活躍は枚挙にいとまがないほどである。
(略)
 昭和15年1月、十三試大型飛行艇という名で第1号が完成してから、太平洋戦争が終幕する20年までの間に二式大艇は計131機が生産された。それを年次別にみると、15年1機、16年3機、17年13機、18年80機、19年33機、20年1機となっている。タイプ別にみると11型が17機、12型が120機、13型が2機で、大部分が12型である。ちなみに当初は二式輸送飛行艇と呼ばれていた「晴空」32型の生産量は36機であった。
 そして――昭和20年8月15日の終戦当日、わずかに残存していたのは詫間空の二式大艇5機(詫間=2機、七尾湾=3機)、晴空1機、横浜基地の晴空数機と横須賀空の実験用晴空1機のみであった。