伊勢宗瑞は、永正16年(1519)に88歳で歿したという歿年齢から逆算して、永享4年(1432)の生まれということとされているが、寛正5年(1464)頃、足利義視の近士となっていることが、「史」の上で初めての登場となる。
 その年、氏茂(宗瑞)は33歳であった計算になる。
 (中略)
 応仁元年(1467)正月17日、管領を解任され、屋敷を畠山義就に明け渡すように命令された畠山政長が、自分の屋敷に火をかけ、上御霊(みたま)社の森にたてこもって挙兵し、畠山政長と結んでいた足利義視は、そのまま都にとどまることができず、伊勢へと流れている。
 義視の近士として仕えていた伊勢氏茂も、義視に従って伊勢に落ちている。
 そのとき、義視・氏茂主従がどこにいたのかはわからないが、翌2年、情況が好転し、義視は京に戻れることになった。
 しかし、京に戻る義視一行の中に氏茂の姿はなかった。
 氏茂の妹は、駿河の守護大名今川義忠に嫁いでいた。
 駿府を流れる安倍川の支流北川のほとりに屋敷があったことから、彼女を北川殿と呼んでいる。
 氏茂は、義視が京に戻ることになった時点で義視と別れ、駿府へ下向することになった。
 正確な年月は不明であるが、応仁2年(1468)ないし3年のことであったろう。
 応仁2年とすれば、氏茂37歳である。
 応仁の乱にあたって、駿河守護だった今川義忠は東軍、すなわち、細川勝元側に属して戦い、京での戦乱が一段落したところで、勝元から、「西軍斯波氏の本拠地の一つ遠江国を攪乱するように」との命を受け、駿府に戻り、遠江にたびたび兵をくり出していた。
 文明8年(1476)も、今川軍による遠江攪乱の軍事行動が見られ、義忠自身も出陣し、遠江の国人領主である横地氏・勝間氏を討つことに成功している。
 その凱旋の途中、遠江の塩買坂というところで、横地・勝間田両氏の残党に襲われ、そこで非業の最期を遂げてしまった。
 跡取りと目されていた義忠の唯一の男子は、まだ6歳という幼さだった。
 この一男子こそ、義忠と北川殿との間に生まれた龍王丸であった。