【P154】
 政元は以前から謀反を企てていたらしく、自らの姉(一説には妹)を赤松政則に嫁がせていた。

【P160】
 政則には側室に生ませた村秀という実子があったと伝えられているが、新しく迎えた夫人めし(洞松院)に気兼ねして、赤松庶流の七条政祐の子・道祖松丸(さえまつまる)を養子としていた(道祖松丸は政則の娘・松と祝言をあげる)。

【P165】
 諸将の中にも義村の隠退を求める声が高まり、洞松院まで義村を見離したので、彼は家督を子息道祖松丸に譲渡し、出家して性因と名乗った。
 (中略)

【P169】
 また、義村は自らの膝下に3人の奉行(志水清実・衣笠朝親・櫛橋則高)を置き官僚機構を整えた。

【P178】
 その頃、明石祐之と別所村治の間に対立が生じたため。これを征討しようとした晴政は、摂津の三好長慶・阿波の三好之康・淡路の安宅冬康の援助を得て、明石城・三木城を攻撃した。

【P179】
 一説によると義祐は小寺則職の娘を娶っていたといわれ、その縁で義祐と則職は接近したのかもしれない。
 (中略)
 8月8日、晴政は娘婿である赤松政秀を頼り、龍野に落ちのびる。

【P180】
 クーデターの結果、赤松義祐が置塩城主となり、政治の実権を握る。
 (中略)
 永禄5年(1562)6月17日に性熈(晴政)は毛利元就・隆元父子に合力を依頼している。
 (中略)
 この文書は、性熈が毛利氏の石見攻略を祝し、赤松氏への「合力」を依頼したものである。

【P183】
 翌7年(1564)正月11日には赤松政秀が浦上政宗を室津城に急襲、政宗は自害した。